「夢の会社」

「夢の会社」

香西 春明(かさい しゅんみん/はるあき)

 

(第一章)

 古びたマンションが規則正しく林立している一角にその古道具屋はあった。店は間口が狭く、それでいて奥行きばかりが妙に目立つ造り。埃にまみれた招き猫、壊れかけた電気ストーブ、着古した作業着、十年前のカレンダーといった訳のわからない我楽苦多が、所狭しと積まれている。値打ち物、実用品は一切置いていない。

 店の中は人の通れるスペースがやっと一人分あるといった按配で、物珍しげに迷い込んだ客が奥まで行こうとしたら、先客に一度外へ出てもらってから進まなければならない。店の置くには辛うじて三人程が座れるスペースがあり、エンジ色のTシャツを着た中年の店主が人なつっこそうに話しかけてくる。優し気な口元と笑うと点になりそうな細い目。頭にはちらほらと白い物が見える。

 耳が大きく、というよりも耳たぶが異常に広いため、上と下とが逆についているような錯覚を与える。店主はその大きな耳をぴくぴく動かしながら、常連らしい女子大生を相手にして楽しそうに講釈した。

 「この青海南一丁目も、ほんの二十年位前には東京湾の海の中に沈んでいたのさ。遠くに見える野球場あたりが海岸線でね。今じゃ東京湾も本当に狭くなったな。埋め立てのピッチは猛烈でね、あっという間にそこいら中マンションとオフィスビルになっちまった。あの頃は埋め立て地も『ウォーターフロント』と呼ばれて随分もてはやされたもんさ。」

 「ウォーターフロントなんて、響きが古めかしくて素敵だわ。もっと昔の事話してよ。」

 「昔の事?そんなに昔の事じゃないよ。時間はそんなに経っちゃいないんだ。物事ってのは時の流れの何倍ものスピードで変わっていくのさ。ここいらも、もてはやされた後には、東京大地震でビルは倒れる、地滑りは起こる、道は陥没するで一時は大変だったのさ。落ち着くまでに随分時間がかかったもんだけど、今ではここが埋め立てだなんて誰も意識していないもんね。江戸時代に埋め立てられた銀座が、埋め立て地であることをすぐに忘れられてしまったように――――。」

 夢子は店主と話をしながら、往きの電車から見た風景を思い出した。平成から新しい元号に変わったばかりの天気の良い日曜日の午後、横浜の自宅から東京湾横断線のリニアモーターカーに乗り、人工島のしゃれた喫茶店で女友達とケーキを食べ、今流行の下町(ダウンタウン)へ遊びに来たのだった。西暦二〇一〇年代に入ってからの世の中のスピードは一段と加速、次から次へと新しいものが氾濫し、そして消えていった。流行に敏感な若い女の子達の間では最近、古い物、無意味な物を集めるのが新しいとされていた。夢子も月に一度、お気に入りのこの店で、意味のない品物を一つ買うのがこの上ない楽しみだった。きょう着ている黒い服も、昔はボディコンとか言われたレトロ調らしかった。

 「おじさん、きょうも何か面白い物、見せてよ。」

 「そう言うだろうと思った。きょうは一つヤバい物を見せてあげようと思って待っていたんだよ。残念ながら売る事は出来ないけどね。」店主は我楽苦多の上に積んであった黄色いプラスチックの箱をはたきで叩きながら、なつかしそうに講釈を始めた。

 「これがテレビゲームというやつさ。お上の命令で日本中の物が廃棄されたから、今日本全国を探しても、十台も見つからないんじゃないかな。偶々、変なアメリカ人が、ユタの自宅にあったものだと言って先週持ち込んだんだよ。」

 昭和の末期から平成にかけて一世を風靡した黄色い色のテレビゲームは、最初は子供用のゲーム機として家庭に入り込んだが、やがて、手軽なパソコン、コミュニケーション端末として証券会社とのパソコンネットワーク、銀行とのホームバンキングというように、その用途は飛躍的に広がっていった。一家に一台の割りで入りこんだこの機械をなんとか自社に有利に使おうと、日本中の企業が知恵をしぼり、旅行切符の予約、ホテルの予約などに使われている間は、まだ便利さだけが強調されていたが、野放図な展開は当初より識者の間では危険視されていたのだった。効率的な人事管理を標榜する企業による従業員の在宅勤務状況管理、緊急時対策と称した自治体による通信ネットワークの隣組的利用、国民世論調査の名を借りた国家権力によるプライバシー情報の徹底管理、さらには、通信ネットワークを使った無名性の脅迫事件、神秘的な宗教結社による集団催眠未遂事件を経、「黄色い悪魔」として、ついに危険性が国会で喚問されることとなった。国会会期中に、テレビ見合いを装った暴力団によるテレビゲーム売春が暴露されるに至って市民による「黄色い悪魔廃絶デモ」が起こり、政府も全面的に発売禁止、保有禁止を打ち出したのだった。

 「おじさん、あたしにもそのゲームやらして。海賊みたいなキャラクターがとっても可愛いらしいわ。」無邪気な嬌声が聞こえる。

 「でも、ちょっとあたしには難しすぎるみたい。もっと他の物、ない?。」

 女の子はいつも移り気だ。店主はちょっと困ったような顔をした。そして、少し考えてから店舗の一番奥のカーテンの向こう側で、しばらくゴソゴソしてから古めかしい小さな木箱を抱えて現われた。

 「なにそれ――、面白そう。」甘ったれた声がする。店主は、仰々しく十センチ四方の茶色の木箱をあける。中からは飾り文字で漢字の彫られた印判が出てきた。字が左右逆さまなので夢子には何と書いてあるかわからなかったが、「株式会社」という文字と「之印」という字は辛うじて読めた。

 「この判子はね、少しばかり因縁のある代物なんだよ。お嬢さん。」

 「わぁ、あたしこれ欲しい。因縁って一体何なの?。」

 店主は夢子の言葉などうわの空。微笑みながら夏の入道雲を眺めていた。

 

 

(第二章)

 可奈子は少し不安だった。あした行なわれるこのオペラ座のこけら落としの段取りで、頭の中は一杯――、きょうの内輪のパーティーについては、ほとんど何も考える余裕が無かったのだ。用意してあるのはステージの上にいくつかのテーブル。その上に赤と白のチェックのテーブルクロスを敷いた。社長の哲夫が手配してくれたイタリアワインが八ダース、ほんの心ばかりのスナック菓子、それに築地から無理矢理出前してもらった寿司が並べられていた。こんな粗末なパーティーに、あの気難しさで有名な相談役が現われたら――と思うと、「総務課の人達も楽しめばいい。大した用意などしなくてもいいよ。」と言った社長の言葉ですら、つらく思えてくるのだった。可奈子にとって唯一の救いは、会社六年目の同期、西川正美が急ごしらえのバンドを組んで、軽いジャズを演奏してくれることだ。

 夕方だというのにあたりはまだ明るく、晩春の風と初夏の陽射しが溶けあっている。さわやかさと同時に、埋め立て地特有のムッと生暖かい臭いが心に開放感を与えてくれる。人工的な街並みと広く感じられるアスファルト道路。ウォーターフロントに忽然と現われたオペラ座の建物は、絵葉書のように不思議な存在感を示していた。

 オペラ座の駐車場には、会社の幹部と押しかけてきたマスコミ関係者の乗ってきた大型車、それに、土曜日の盛り場に繰り出す代わりに一目覗いてみようという若い社員のスポーツカーが次々と入ってくる。

 到着すると人々は、入口から客席の通路に沿って歩きステージへの階段を駆け上がる。可奈子は笑顔をふりまき、グラスを渡して素早くワインを注ぐ。

 「加奈子さん、一段ときれいになったね。」華やいだムードの中に、この会社の持つ家庭的な雰囲気が、可奈子には感じられた。六年の間に、この会社も随分変わり、大きくなった。屋根の美しさに見ほれて、可奈子はこの六年間に自分とそして会社に起こった事柄の重さを感じるのだった。

 田口哲夫の回りには、人の輪が出来ている。大きな身ぶりで話しをする哲夫には、社長としての自信が満ちている。パーティーはまだ始まったばかり――。人々が続々と集まってくる。

 「田口社長、この前うちの雑誌に書いていただいた現代音楽に関する評論、評判が良かったんですのよ。ビジネスの方もユニークだが、音楽に対する視点も確かで独創的だと、うちの編集長も申しておりましたわ。」ローランサン誌の川端千恵子女史が言う。

 「えぇ、いやいや、ちょっと最近、音楽評論が権威主義に流れているような気がしたものでね。こんなオペラ座建てたから大変なクラシックファンだと思われるかもしれませんが、私は本当はロックとかサンバとか柔らかい音楽の方が好きなんですよ。」

 「サンバ?。」

 「そう、サンバ。実は若い頃ブラジルに居たことがあるもので・・・・・。このオペラ座も、一応はオペラがメインということになっていますが、一般のコンサートにも安く借りてもらえるようにと考えているんですよ。」

 「設計は今をときめく井田豊さんでしたね。それにしてもご立派な建物ですわ。たいした会社ですわね。」派手に着飾った川端女史の言葉には、中堅企業にしては、という揶揄が感じ取れたが、哲夫は、

 「まぁ、商売がうまく回転しているってことですね。根っからの慈善事業ってわけでもない。商売にも色々とプラスになるっていう気もしてましてね。あっ、ちょっと失礼。」初老の男を見つけて歩き出した。

 「源さん。長年御苦労様でした。」

 「実はきのうね。哲夫さんの所へも定年の挨拶に行ったんですが、あいにく外出中だったようで――。昭和五十年の入社ですから、平成六年のきのうまで丸々二十年間、この会社にお世話になっちゃいましてね。」

 「きょう源さんが来てくれて、俺は本当に嬉しいよ。」

 「定年っていつか来ると思っていましたけど、いざ自分の番となると、何か不思議な気がしてね――。実はあしたのオペラ初日、女房と二人分の切符を取ってあるんですよ。このオペラ座は、俺のいた会社が造ったものなんだって女房に見せてやろうと思ってるんですよ。」

 ステージの隅の方では、菱沼紀江が静かに客席を見降ろしていた。白のワインを口に含んで入口の方に目をやっている。なつかしい何かを待っているように――。

 「相談役は来るかしらねぇ。」可奈子が逸馬の方を向く。

 「本当は来ない方が私はいいんだけど――。」

 「可奈子ちゃん、何か足りない物はないかな。もし、つまみでも足りないんだったら、車で一っ走りしてきてあげるよ。」可奈子は逸馬のボロ車の事が浮かんできて吹き出しそうになった。きょうは心なしか沈んでいるように見える逸馬だったが、彼のいかつい顔を見ると可奈子は心がなごむのだった。

 正美達の急造ジャズバンドが「この世の果てまで」を演奏しだした。ステージ真下のオーケストラスペースからステージを見上げて時々手を振っている。正美のサックスは力強さには欠けているが、飾り気のない好ましさがあった。可奈子は正美が吹いている時の真剣な顔に見とれてしまった。最近少し、色つやがいいような気がする。

 「オイ、可奈子ちゃん。俺にもワイン、ついでくれないかな。」「はっ、はいっ。」哲夫がニヤニヤしながら近付いてきた。そして、声を潜めて言う。

 「もう少しで面白いものが始まるよ。」社長はそれだけ言って隣のテーブルへ移っていった。

 と、突然。「ジャン、ジャン、ジャン」とシンバルの音と共に、赤や黄色や青や緑やピンク色の原色に身を着飾った六人の一隊が、列を作って登場する。サーカスのピエロ達だ。

 「さてはさて、ここに居並ぶ夢屋の皆様とその関係者の皆様。本日の目出たき日の出し物は―――。」六人が横に並んで思い思いのポーズを作る。

 「バクダッドから連れてきたアラブ一の力自慢ザンバノ・マホメッド。そして彼の従者で少し頭の弱い薄幸の少女ジェルソミーナ・アリ。そして中国は清朝から今に伝わる秘伝の玉乗り犬。古今東西インターナショナル嘘つき無芸の興行団でございます。どうぞ皆様御喝采の大拍手を――。」

 力自慢のザンバノが両手につけられた鎖をぐっと開くと鎖が胸の肉にめり込む。その瞬間、大男は「痛い、痛い、痛いよう。」と大袈裟に暴れ回る。ジェルソミーナは「またか。」という顔をして失敗の謝罪をして回る。その仕草が妙に可愛いくて人々は大笑い。清朝の玉乗り犬のブルドッグは、あくびをしながら玉には見向きもせずに、お尻を振って遊んでばかりいる。仕方なさそうにリーダーのピエロが犬を抱えて玉に乗る。2メーター進んだ所で犬が暴れ出し、転倒。また、また場内は大爆笑。リーダーは怒って犬を追いまくり、そして団員達も大きな拍手に手を振りながら退場していった。

 少し堅かった雰囲気がピエロの登場で一気に盛り上がった。人々はワインを片手にいくつもの輪を作る。アルコールも程良く回ってきたようだ。正美のにわかバンドもやっと調子が出てきたらしく、軽快なアップテンポのノリを見せている。おしゃれなロングドレスの女性達は華麗に、ジャケットの若者はゆったりと、ビジネススーツの中年社員達もそれなりにリラックスして前夜祭を祝っていた。

 「とても素敵な前夜祭だね。」週刊ビジネスマンの村本が、ライバル誌チェアマンの畑中に話しかけている。

 「おっ、社長が挨拶を始めるみたいだぜ。」

 

 

 「本日は土曜日のお忙しい中にもかかわらず、皆様にはお集まりいただきまして誠にありがとうございます。明日、一九九四五月二十日は当社にとりましては特別な意味を持つ日であります。思えば五年前の一九八九年五月二十日、私は創業者である父田口尚蔵の後を継いで社長に就任、同時に社名を『田口家具』から『夢屋』と改めました。さらに、本社を神田からこの江東区晴海へと移転させたのであります。その後の社業の発展については皆様のよく御存知の所でございます。それまでの一般家庭用家具の販売業者から、病院用ベッドの製造、販売に焦点を絞り、会社を少しずつ大きくしていくことが出来たのも一重に皆様の努力の賜だと感謝しています。

 さて、この五年間が夢屋にとっての基礎固めの時期であったとすれば、あした、このオペラ座のスタートをもって夢屋は次のステージに移行するのだと考えていただいて良いでしょう。皆さん、これから私の言う事を良く聞いて下さい。社長として私は、あしたからの当社の展開について、次の通り宣言します。

 まず、第一に事業展開の話をします。あしたのオペラ座のスタートをもって当社は家庭用ベッドの市場に本格参入します。家庭用向け商品としては今までも、イタリアやスウェーデンなど外国製家具の販売に手を染めてきました。しかし、これからは病院用ベッドでつちかった製品の良さ、販売のノウハウを大いに生かして、家庭用ベッドの製造販売、特に家庭用ウォーターベッドの大々的な販売キャンペーンを展開したい。御存知の通り、ウォーターベッドは体を水で包み込むように支えるため、寝心地は最高、しかも、医学的にも心臓に負担がかからないという長所を持っています。しかしながら従来の製品は、主に輸入品でありますが、最低でも四、五十万と非常に高価で、しかも非常に重たいという欠点があった。最近秘密裡に当社が開発したウォーターベッドは、生産技術の改良と新素材の採用によって、軽量にしてかつ単価が八万円と、画期的な商品であります。これからは消費者に『安らかな夢を提供するウォーターベッドの夢屋』をキャッチフレーズにして家庭用家具の夢屋というイメージを作り上げたい。

 このオペラ座は日本有数の音響効果を持ち、オペラ好きのハイソサイティに評判となるでしょう。高級家具のイメージ作りにもプラスとなるでしょう。それと同時に、安い費用で一般多方面のコンサートにも使ってもらおうと思っています。

 高いお金を使ってこんなホールを作ったことに対して批判の向きもあったとは思いますが、世間の皆さんに夢屋の名前を知ってもらい、その理想の高さを知ってもらえることを考えれば、ホールの建設費など安いものです。

 また、家族的経営を行ってきた。夢屋の社員の皆さんにも、このオペラ座の存在は団結のシンボルとして心の拠り所となるでしょう。

 それから、もう一つ重要な事があります。新しいぶどう酒は新しい革袋に、というたとえもある通り、夢屋の新たな飛躍に合わせて会社の内部体制も、『個人の尊重と家族主義』という理念により次の通り変えたいと思います。細部についてはもう一度皆さんと話し合いたいと思いますが、一応今年の十月から実施したいと考えています。

一、       部、課を全部廃止し部長、課長、係長などの肩書きも廃止する。代わりに、事業展開に合わせフレキシブルにチームを作り、チームのキャプテンを全チーム員の投票によって決定する。全チームは全て並列とし、社長を中心にした文鎮型組織とする。こうすることによって従来のヒエラルヒー、階級型組織に欠けていた風通しの良さを実現する。なお、キャプテンについては原則一年交代とし、年齢や事務能力などではなく、リーダーシップのある人を選んでもらいます。

二、       現在までの年功、能力に応じて株式を無償で交付、従来の給料制度から従業員持株制による配当制度を利益分配の中心としたい。そして今後の資格の昇格に合わせて新規の株式を交付することによって報いる。働いて会社が発展することが配当の増加につながるという形で皆さんと一緒に頑張っていきたい。

三、       完全週休三日制を実現する。時間的な余裕があり幸せなプライベートライフなくしては良い仕事など出来ないと私は考えています。

 

 

 私の目標は社員にあっては働きがいのある会社ということでありますし、皆様の努力によって会社を発展させ、皆さんも報われるというシステムを作ることです。

 さらにもう一つ忘れてはならないことがあります。社会に対する貢献も十分に考えていきたいということです。企業の使命は一つには社員の幸福の追求ということですが、同時に社会の公器として社会に対する貢献を常に考えなければなりません。当社の場合は、病院、病人を主要な顧客としてきただけに、単に私企業として利潤を追求しているわけにはいきません。

 このオペラ座の建設も重要な一つの社会還元でありますが、ここに、毎年利益の一割を『夢の基金』として拠出し、難病を患っている方々のために使ってもらうことを宣言します。

 社員の皆さんも、私が今述べたいくつかの試みの趣旨をよく理解していただき、皆さんも、会社も、そして社会も幸せになれるよう、『夢の会社』の実現に向けてご支援下さい。」

 

 

 社員の中に、ちょっとしたざわめきが広がった。哲夫は、少し堅いスピーチだったかな、と思った。少し堅かったかもしれないが、それでも構わない。心の中で長年温めてきた構想を、今、皆なの前で明らかにすることができたという満足感で、哲夫は、心がパッと明るく、そして軽くなったような気がした。

 

 

(第三章)

 「会社も二年目になると少しずつ見えてくることがあるよね。」西川正美は少し薄目のバーボンが入ったきゃしゃなグラスを軽くゆすって、氷のぶつかるグシャグシャと言う音を楽しんだ。

 「うーん、そうねぇ。確かに自分がずるくふるまっているのが見えてしまう時があるかな。」風戸可奈子は長く伸びた足を軽く組んで正美の顔を見た。正美は、話題が少し単刀直入すぎたかと素早く感じ取り、話をさりげなくそらすことにした。彼らの世代にとって会話とは、おしゃれなおもちゃであって、深刻な話や議論は酔った時以外は胸の中にしまっておくべきものなのだ。

 「そういえば、可奈子ちゃんの職場にも変な奴いない?。僕のいる市場調査課にはね、人間ワープロ文字っていうのを自慢にしている人がいてね。ワープロの文字そっくりに字を書けるんだ。字のギザギザまで入れて、凝っているんだよ。」

 「へぇー、おかしな人ね。そういえば、うちの課にも変なのがいるよ。マル秘書類でもないのに、書類は全て一センチ四方にちぎっている人。あれなんか、さしずめ人間シュレッダーっていうところね。」

 「誰だい、それは?。」

 「うちの係長よ。」

 「水森係長って、あんまり仕事やる気ないって顔をして結構細かいんだってね。」正美は顎に手をやった。会社を出る時に髭はそってきたので肌はまだツルツル。髪は朝洗ってきたからまだ大丈夫。目の回りのアンラインもうす暗い照明の下では目元をぱっちり見せる効果を発揮しているはずだった。

 「僕の上司は古いタイプでね。僕らの事をいつも、小賢しいっていってるんだ。仕事は右から左へ要領良くやるけど、クリエイティブでもないし、ガッツも入ってないっていうんだろうね。そりゃあ忠誠心なんて言われてもピンと来ないもんね。」

 「そりゃそうよ。わかるわ。」

 それで少し、沈黙があった。いかした話題が途切れた。同じ年位の男と人達って、グループでいる時はすごくひょうきんで冗談言ったり騒いだりするけれど、女の子と二人きりになると妙にシャイでうまくないんだ、と可奈子は思う。でも、会話が途切れた時に見せる正美の繊細さは、弱さを感じさせるよりも優しさみたいで嫌いではない、と可奈子は思った。頭のいい女の子といるとちょっと気詰まりだな、と正美は思った。きょうはいっそ、会社というものについて感じているストレスを言い合って終わろうかと心に決めた。男同士だと言葉に出来ない事も、女の子が相手なら話せるってこともあるさ。

 総合職――男と対当な立場で入社した可奈子と、正美は入社以来何となくウマが合うような気がしていたが、二人っきりで会うのはこれが初めてだった。総合職の女の子なのだから男同士で飲みに行くのと同じだ、と思って正美は声をかけたのだった。

 「可奈子ちゃんの所は三月に社内旅行があった?。」

 「あった、あったわよ。」

 「いやー、あれは不思議な体験だよね。職場の女の人達、特に年のいった人ほど、何のかんのと理由をつけて行かないんだよね。初めてだから、行ってみりゃ少しは面白いかと思ったんだけどね――。」

 「それで、どうだったの?。」

 「悲惨だった。やっぱり行かないのが正解だと思った。」

 可奈子が笑った。正美が続ける。

 「まず、普段スーツ姿のオジさん達のプライベートの服装が気持ち悪いだろ。ゴルフウェアーみたいじゃないか。それから、サロン付きのバス、温泉、部長あいさつ、宴会、カラオケ――。話す事もないから飲むしか無いだろう。可奈子ちゃんは行ったの?。」

 「うん、総合職だもんね。行かないとお高くとまっていると言われそうで・・・・・。これでも結構気を使ってるのよ。」

 「そう言えば、カラオケってのは会社を感じさせる所だよね。仲間内でカラオケ行く時ってあるじゃない。結構盛り上がってさ。だけど上司達と行くと、まず歌が違うしね。演歌だろ、グループサウンズだろ、最初すごく違和感があったよ。」

 「私は、カラオケって便利な物だと思うの。だって、お互いに話をしなくったって済むじゃない。皆は、自分のプライベートな事は職場の人と話したくないのよ。まして、仕事の話なんて、最低じゃない?。」

 「昔から、酒の話を肴にし酒を飲む人っているもんなあ。カラオケもあれと同じかもしれないね。でもね。うちの課長は、普段はどちらかと言うとマジメで暗くて、はっきり言うと嫌な奴なんだけど、カラオケではね、マンハッタン・イン・ザ・レインなんて歌ってね、音ははずれっ放しで下手なんだけど、楽しそうでね、なんか許せちゃうって感じがするんだ。」

 「そういう人って偉いって思うわ。うまくバランスを取っているのよ。」

  可奈子は顔をあげてバーの中を見回す。そのバーは表参道近くの路地に面した雑居ビルの地下にあった。がっしりした木のカウンターが心地良い。どこにでもある気楽なショットバー。床にはわざとおが屑がぶちまけてある。

 「私ね、入社面接の時には、そりゃ入りたいから、結婚してもずっと勤めますて言ったの。でも、ここだけの話、正直言って自信がないの。総合職なんだから男の人よりもずっと頑張らなきゃいけないって思って、すごく真面目に働いているけど、本当はね、サラリーマンの男の人って偉いな、自分はついて行けないな、って感じてしまうのよ。」

 「うん、サラリーマンには未来はない、ってことだよ。同期二十人のうち、一年間でもう坂元と田名部はやめただろう。親が東京に土地を持っているだけで、マンション建てれば生きていくには不自由しないんだもんね。わかる気がするよ。人間関係だろ、資格試験だろ、自己啓発だろ、上司や回りに気を使って、それであげくの果てが、一枚の辞令で転勤だ、左遷だ、っていうんだもんね。」

 「そうね。何だかすごくギャップがあるのね。」

 「可奈子ちゃん、エレベーターに乗るんでも順番や場所があるって知ってた?。」

 「うん、最近教わった・・・・・。」

 「昼飯食べに行く時の歩く順番だって肩書きの順だもんね。そう言えば、この前会社から創立記念日の時計をもらったじゃない。最初、便利だから自分の部屋の机の上に置いといたんだけどね、休日にも『田口家具、創立記念日』っていう文字が鬱陶しくて、結局捨てたんだ。」

 「そういう気持ちって、すっごく良くわかるわ。私の上司はね、時々私にこう言うの、会社っていうのは嫌な所だ、そう思えば色んな事に腹が立たない、ってね。」

 「うん、そうかもね。」

 

 

 それから、マジメ一本槍でいつも二人が馬鹿にしている同期の山田逸馬の事をコケにして少し盛り上がった。そして、正美がしているマーケティングの仕事や可奈子の総務課の事を少し話し、音楽や映画の事を話してその日は別れた。今年から始まった消費税が加算されている勘定書きに従って、支払いを済ませながら、正美は思った。結局、きょうの話も会社の話だったと。若い人間ですら、会社は仲々、解放してくれないのだ。

 可奈子は正美の事を寂しがり屋の人だと思った。普段のいい加減さに比べ、二人きりになった時に見せた正美の仕草の繊細さ、弱さを思い出してばかりいる自分の残酷さを少し悔いた。

 

 

(第四章)

 電気の消えた部屋に深夜帰るのはつらい。ドアをあけるとすぐにテレビをつけ、人の言葉を部屋に注ぎ込む。音楽や言葉が聞こえないと不安なのだ。椅子に座って飲むヨーグルトを体に流し込む。ささやかな浄化作用――。

 テレビには浅野温子が映っている。すねたり威張ったりするのが可愛い。一つの考えが浮かび、次第にその考えが間違いないような気になった。浅野温子のファンの女の子達は、自分の不自由さのバランスを取るために彼女を支持するのではないか。年が若いうちは我儘も許されるが、段々そうもいかなくなってくる。できない我儘を浅野温子に託し、そして自分は男の望む女の子を演じて幸せをつかもうとする。狡いけれど、それもまた可愛いいと、正美は思った。可奈子の事が浅野温子と二重写しになった。

 夜のニュースではリクルート事件後の政局混乱について討論をしている。音量だけを切ると、口角泡を飛ばして興奮している大人達が滑稽だ。

 どうして僕はこんな所にいるんだろう――。一人でいると沈んだ気持ちに加速度がつく。これから寝て、あした七時半に起きて、超スピードで身支度して八時五分の満員電車に飛び乗る。毎日、いつも同じ時間の電車。

 職場ではGENTLEMANを演ずる上司・同僚の中で、自分も一生懸命、にこやかに、良心的にふるまう。人に会う、電話する、電卓をたたく、判を押す、おじぎをする・・・・・。会社という不思議な装置を背負わされ、時々顔まで塞がれ息苦しくなる。疲れ切ってしまうのだ。人と話すのに疲れ、電話で挨拶するのに疲れ、嘘をつくのに疲れ、会社に疲れ、自分自身に疲れる。

 本当は、皆ないい人なのだと思う。助けたり、助けられたり。足の引っ張り合いはいつも水面下に隠れているのだから、職場では良心が支配しているように見える。それなのに苛立ってしまうのはなぜだろう。

 それにしても、会社が持つ無限の支配力はなぜなのだろう。人々の心を無理矢理ねじ伏せる。人事評価?肩書き?責任感?忠誠心?それとも連帯感なのだろうか。

 もう考えるのは止めにした方がいいのかもしれない。嫌なら、坂元や田名部みたいに、「や・め・て・し・ま・え・ば・い・い」のだ。

 相変わらずテレビでは、滑稽なオジさん達が、口をパクパクあけてパフォーマンスをしている。スイッチを切ってベッドになだれ込んだ。ベッドの横には、別れた彼女から大学卒業の時にもらった、猫のぬいぐるみが放ってあった。

 楽しかった大学生活。適当にジャズのサークルに出入りしながら、女には不自由した事がなかった。映画にも、スキーにも、車にも、もちろん勉強にも、心から打ち込んだ事がなかった。バイトをして四年間を過ごした。就職は、就職情報誌をいい加減にめくり、楽そうな所を三社ばかり回った。国立市の比較的な裕福な家、自由放任主義だった大学教授の父親、いつも優しかった母親、大学を卒業すると上場企業の御曹司とさっさと結婚してしまった姉――。昔の事が、あっという間に頭の中をすり抜ける。

 夢、夢、夢、十回数えて寝返りをうち、もう十回、夢、夢、夢と唱える。夢なんかどこにあるのだ、と思った。こんな暗い気持ちの時、山田逸馬ならどう考えるのだろう。口ではいつも田舎者と馬鹿にしていたが、正美は逸馬の一途な愚鈍さが好きだった。落ち込んだ時は、逸馬だったらどう考えるか、と考えることがあった。

 意識が遠くなり、夢を見た。歯医者へ行って歯を全部抜いてもらう夢だった。抜く時に「本当に全部抜いていいのか。」と歯医者が言うので、「人助けのためだ。」と訳のわからぬ事を言い放った。歯の抜けたあと、歯肉が黒ずんで、黒い部分が猛烈な勢いで広がっていく。後悔した。「元に戻してくれ。」と叫んでいた。みるみる黒い部分が増殖し、まで溶けていく所で目が覚めた。

 

 

(第五章)

 

 前略。

 

 母さんこの前は野沢菜を送ってもらってありがとう。久しぶりになつかしい物を食べた気がした。東京でも野沢菜は食べれるんだけど、田舎の味とは全然違う。

 お蔭で、田口家具に就職して二年目を迎え、何もかもうまくいっている。ようやく仕事の要領も飲み込め、会社の方でも戦力として考えてくれつつあるようだ。まだまだ上司には、馬鹿だ、ノロマだと怒鳴られる事はあるけどね。係長の右田さんはすごく厳しい人だけど、心根は優しい人で、怒鳴った日は必ず、赤提灯に連れていって、なぐさめてくれる。この前も、「仕事だから怒鳴ったけど、あんまり気にするな。会社は人生修行が目的の場所じゃないんだから、お前は自分の欠点ばかり見るじゃなく、自分の長所を伸ばして仕事をすればいいんだ。」と言ってくれた。とにかく尊敬できる上司に巡り合えてラッキーだと思っている。

 経理の仕事には簿記の知識が必要なので、簿記三級の試験を会社のお金で受けさせてもらい合格した。今度は二級にチャレンジしようとファイトを燃やしている。

 思えば、山名のおじさんの紹介で田口家具に入れたこともラッキーだった。コネなんか使わずに正々堂々と試験を受けて就職を決めるって言い張る僕を、強引に母さんが山名さんに引き合わせた。今にして思えば、三流の大学しか出てないし、頭も余り良くなく成績も悪い僕が、こんなの伸び盛りの会社に入れてもらえたのは本当に山名さんと母さんのお蔭だ。あの時は文句ばかり言ってゴメン。感謝している。

 うちの会社は、やり手で二代目の哲夫専務が徐々に実権を握りつつあって将来が楽しみ。うるさ型ワンマンの尚蔵社長と違って、哲夫専務は万事思慮深く、社員全員の名前だって暗記しているんだ。この前エレベーターで「山田君だね。」と声をかけられた時は信じられない気がしたよ。

 会社っていうのは本当にありがたいものだと実感している。独身寮だってあるし、寮には食事だって付いている。美味しくないって文句を言う者もいるけど、学生時代の自炊生活に比べたら栄養のバランスはとれているし、味だってそんなに悪くはないと思う。第一値段がすごく安い。

 この五月から会社のテニス部の幹事をやることになった。テニス部には可愛い女の子が多く、こんな中からガールフレンドが出来たら素敵だろうって思うけどね。夏のボーナスを頭金にして車を買いたいって思うんだ。さしあたりマツダのファミリアあたりでどうかなと思うけど。今度のお盆は車で帰省できれば、と思っている。父さんの墓参りもその時するよ。もちろん母さんが東京に来る時は、乗せて東京見物をさせてあげるよ。

 とにかく今は、仕事もプライベートもバリバリやる気で心が躍っている。三月の決算の時には毎日深夜まで残業して伝票整理をしたんだ。体には自信があるから、この調子で頑張るよ。母さんも体に気をつけて頑張って下さい。仕送りもするから、内職で無理をしないように。

草々。

 一九八九年 五月二十日

                                                逸馬より

 

 

 手紙に封をしてから、ちょっと真面目で前向きすぎたかな、と逸馬は思った。本当はそんなにうまくいくことばかりではない。人手不足で処理未了の伝票がうんざりするほど山積みされているのが実情なのだ。心配症の母親に安心してもらおうといつも思っているので、どうしてもあんな調子になってしまう。

 ポテトチップの袋を開け、ビールを一罐飲み干してから、次の分はライムのシロップを混ぜてみた。これは西川正美に、カリフォルニアでの流行だと教えてもらった飲み方だ。妙な味がしたが、とにかく飲み干した。

 同期なんだから負けたくないという気が無いと言えば嘘になるが、向こうはカッコいいし、なにしろ名の通った大学を出ている。何もこんな中堅企業に迷い込まなくても良かったのだ。

 逸馬は鏡に映った自分のごつい顔がアルコールで赤くなっているのを見た。ポテトチップを太い指でつまみながら、俺だって馬力で頑張れば一流の社会人になれるさ、と自分に言いきかせた。

 頼りになるのは、今までの自分の体験から把み取った自信以外にはない。こんなに豊かになった日本にだって、俺みたいに新聞配達をしてきた人間はいるんだ。バイト、バイトでろくに遊びもせずに、なんとか三流の公立大学を卒業した人間がいるんだ。会社だって利益を追求する所なんだから、仕事を真面目にやって会社に貢献すれば出世できないこともないはずだ。地に這いつくばることだって俺には出来るんだ。

 それにしても、中古にしろ自分の車が持てるなんて夢のようだ。小学校で自転車を買ってもらえなかったのは自分だけだった。母親の内職だけでは、とても自転車なんて言い出せなかった。いつも走って学校へ通っていたあの頃。夏は朝から汗臭いと、女の子に馬鹿にされた。蒲団の中で、自転車の無い悔しさで泣いた事を今でもはっきりと覚えている。

 

 

(第六章)

 菱沼紀江は夕食用のサラダを手早く作っている所だった。かいわれ大根とレタスにドレッシングをかけた簡単なもの。それにスーパーで買った刺身の盛り合わせ――。女一人には、これにご飯と味噌汁で十分過ぎる程だった。かいわれ大根の辛味が強くサラダの味が台無しだった。これだから私は幸せになれないのだ、と紀江は思った。

 田口家具の秘書室に十四年勤めて、今年、一九八九年で三十三才になる。秘書室ではずっと社長の秘書。社長が体を悪くしてからは会社印を保管している。毎日、毎日、会社印申請用紙に部長の決裁印があるのを確かめて、一枚一枚、ずれないように印を押すのが仕事となっている。東京に近いが、千葉の臭いもする市川に、少し広目のアパートを借り、ピーグル犬と「二人暮らし」をしているのだった。

 

 

 本当はすごく寂しい。日本はこんなに豊かになったのに、私はちっとも幸せにならなかった。実家だって一家離散、この家の中にも家庭なんてものはありはしない。管理人の目を盗んで飼っているニコルだけが、今の私の慰めだ。長い耳をいたずらしたりして夜を迎え、ニコルの寝顔を見てから蒲団に入る。

 一目見た時から、名前はニコルと決めていた。可愛いピーグル犬の名前は、ニコルでなければいけないと前から思っていた。雌なのでニコレッタとでも言うのではないかという気もしたが、やはりニコルでなくてはいけないと思い、そう決めた。人に聞くとニコルで良いと言われて安心した。

 

 

 聞いて下さい。私の人生はあの時から狂ってしまったんです。稲毛の浜で父は漁業を営み、母は海辺に出来た潮干狩り場に貝をまく仕事をしていました。私はまだ小学生で、稲毛の駅もまだ見すぼらしい本造りの駅舎でした。

 貧しいながらも幸せな家庭を狂わせたのが埋め立て計画。県と国の都市計画とかで、海辺には一斉に砂利を積んだトラックが入り、海岸線はテトラポットに占領されました。そして私の家も団地の造成計画により、ブルドーザーで押し潰されました。獲れない漁業に嫌気がさしていた父親は、立ち退きの保証金を持ってどこかの女と雲隠れ。残された母は私とまだ五才の弟を銚子にいた親戚に預け、東京に働きに出たんです。ところが、そこで男を見つけ関西へ行ったまま音沙汰なし。東京で働いていた最初の頃は、私と弟を時々呼んでくれていたので、私達は黄色い総武線に乗って窓の外を見ていたものです。

 途中の稲毛で降りると、埋め立て地にはきれいなマンションが規則正しく、たくさん建っていました。私の家族が、あさりの味噌汁やあったかい御飯を食べていたあの家のあたりは、広い道路になっていてとても悲しかった。何もかも失ったような気がして、弟の手を握りしめたのを覚えています。

 高校を出て入った会社が、埋め立て地に大きな倉庫を持っているって聞いて複雑な気がしました。父も母も、家庭も奪った恐ろしい力の胸元に、私自身が放り込まれるような気になったんですね、きっと。

 高校を出たばかりの私を、皆なは可愛いらしいと言ってくれました。着ている物は質素だったけれど、男は、すれ違うと皆なふり返るの。普段は表情が堅いってよく言われたけれど、笑った時は天使の笑顔だって人は言ってくれました。

 美人ばかりえている秘書室に配属され、すぐに先輩二人と社長の担当になりました。秘書と言っても、最初はスケジュールの管理や外部との折衝は、先輩がやってくれていて、私の仕事は電話の取り次ぎとお茶の上げ下げ位のものでした。田口社長はあの頃は、まだまだエネルギッシュで、入りたての私の声を小鳥が唄っているようだと賞めてくれたんです。

 ―――時々、夜になると、こうして誰とはなしに自分の過去を話しかけているのね。私の今の平凡な生活は、過去と今が混じり合ってようやく成り立っているんです。時間はいつでも規則正しいのに、私の頭の中では、時間が伸びたり縮んだりして感覚がぐちゃぐちゃになっているみたい。気がつくと、過去の世界に浸っている自分がベッドの中に横たわっていたり、ありもしない未来の空想を行っている自分がいるんです。まるで犬ね。幸せなんて全くなかったような気になるんです。あの頃を除いては・・・・・。

 世間知らずだったんですね。高校出て、会社へ入って三か月しか経っていなかったんですから。今まで、懐石料理なんて見たこともなかったんですからね。

 着物を着たきれいな人が料理を運んで来ました。社長は上機嫌でした。そして、私の不幸な生い立ちに、一つ一つうなずいてくれました。

 その週末には買物に連れていって、社長の外車が一杯になる位、服を買ってくれたのです。自然な感じで抱かれました。逃げた父の事もあったし、母を奪ったあの太った男の事もあったので、私はそれまで男というものを意識的に避けていたのですが、尚蔵さんは優しかった。あの頃は尚蔵さんの優しさが、私の全てだったんです。

 フォークやナイフの使い方、品の良いしゃべり方、服装の趣味、みんな教えてくれたのが尚蔵さんです。今の私は、尚蔵さんとの十年が造ってくれたのです。

 そりゃ親と子ほど年は違うし、尚蔵さんはワンマンだから。私の我儘は聞いてくれるけど、肝心な事は絶対服従させられました。それでも、いや、それだからなのかもしれません、私は幸せでした。

 いつしか奥さんの知る所となり、会社の中でもなんとなく知られるようになっても、尚蔵さんは平気でした。なんといっても社内では絶対的なワンマン社長でしたから。回りの人達も、バイタリティ溢れる社長の甲斐性くらいに思ったようです。ただ、私の担当は社長担当から、秘書室総務に代わりました。きっと回りへの気兼ねもあったし、自分のスケジュールの全部を私に知られるのが嫌だったのかもしれません。

 私も、どんな陰口を言われても平気な顔をしていました。だって、あの惨めだった少女時代を考えてください。借りてもらった都心のマンションがあり、自分の事を可愛いと思ってくれる人がいるのです。

 ただ、奥さんが時々秘書室にも来て、私の事を意識的に無視するのだけは困りました。耳たぶが赤くなって下を向いてしまいます。高級な服は着ていますが、性格がきつくて、化粧の濃い小太りの女でした。あの女を見て、私みたいな小娘とつきあってみたくなった尚蔵社長の気持ちも、私には良くわかります。

 だけど最近は、尚蔵さんも糖尿病や何やかんやで具合が悪く、会社へ出ても社長室で横になっていることが多いようです。私との関係も切れました。もともと、あっちの方は糖尿病がひどくて、最初の三年位しか続かなかったのです。残りの七年は、一緒に私のマンションでテレビを見たり、私の手料理を食べたりして過ごしていました。

 本当は別れようって切り出したのは私の方なんです。色んな事がなんだか辛くなって―。それからもう四年。私は市川にアパートを借り、相いも変わらず、同じ時間に会社へ出かけ、同じ時間に蒲団に入る生活を続けています。

 衰えたとはいえ、まだ三十三。これでもまだ美人だと言って見合いを紹介してくれる人もいます。でも、なんだかその気になれなくて――。毎日、「田口家具之印」を書類に押しながら、ひっそりと生活しているのです。

 

 

(第七章)

 ドーン、ドーン、ドーン、という爆音。次いで、ガガガガガガガガ・・・・・という轟音と共に壁が揺れ、机の上の書類が舞った。ガガガガガガ、という音は鳴り続けている。

 「おい、何が起こったのだ。社長室長の堀口を呼べ!。」尚蔵は電話口で怒鳴った。

 「堀口です。新社長の御命令です。きょうから、この本社ビルの取り壊しがはじまった模様です。」

 「なっ、なにぃ、新社長だと・・・・・。」

 「昨日の夕方、緊急取締役会が社長の欠席のまま取り行なわれ、社長の交代、かねてから出されていた本社ビル建て替え移転の決議、社名の変更、の三つの決定がなされました。新社長の哲夫さまから、取締役相談役におかれましては、即刻、当ビルを退去していただきたい旨のメッセージが届いています。」

 

 

 「とうとうやりおったか。」尚蔵は心の中でつぶやいていた。

 お腹のあたりが苦しくなって、社長室長に担がれ車に乗せられた。きょうの所は家に帰る他に仕方がない。息子の哲夫はつかまらず、本社ビルには、クレーン車につり下げられた鉄球が体当たりしているのだった。

 「あいつ、思い切った事をしよる。」暫く体調がすぐれず一週間ぶりで出社してみるとこのザマだ。事実上、会社の運営は哲夫に任せていたが、あいつは俺が頑固な事を知って強引に中央突破を図った。堀口の持ってきた昨日付の取締役会議事録には、

一、        田口尚蔵は代表権のない取締役相談役に退き、田口哲夫が代表取締役社長に就任すること。

二、        神田の本社ビル敷地の一部を売却、残りの敷地に、ショールーム兼テナントビルを建設する。新本社は江東区の埋め立て地の倉庫跡に建設したインテリジェントビルとすること。

三、        これを機に、社名を「株式会社、田口家具」から「株式会社、夢屋」に変更すること。

以上が決議されていた。

 

 

 彼は子育てには失敗した。散々、好き放題をした挙句、俺が創り、大事に育んできた会社に入って、遂に病身の父親を放遂しようとしている。なんて、いまいましい事だ。考えるだけでも胸がムカムカし、体中の節々が痛くなる。苦しい。髪の生え際が汗に濡れているのがわかる。もっと静かに運転してくれないか。発進の振動が体に響いてくる。寝ていると体に力が入らないのに、痛い所にだけ血液がたまっていくのが良くわかる。

 あの子は一人息子だったから、美津子が猫っ可愛いがりした。そして、いつも俺に反発して、美津子の肩を持った。やつの半生は、俺に対する反発の歴史だったのかもしれない。

 サッカー狂い、高校中退、アメリカ留学、ブラジルでの放浪―――、みんな俺に対する屈折した気持ちが影響していたのかもしれない。美津子に対する俺の気持ちが冷えてくるにつれて、あいつの俺を見る目は険しさを増してきたように思う。

 それでもブラジル放浪を終えて帰ってきた哲夫は、一皮むけて逞しくさえ見えた。世間の中小企業の親父と同じように、俺も、ひょっとしたらこいつが俺の後を継いでくれるのではないかという期待を待ったんだ。お前も学生時代の斜に構えた態度とは別人のように、「俺、親父の会社で働いてみるよ。」と言ってくれた。本当は俺も、そのひと言で、それまでの全ての尻ぬぐいや我儘を許してやってもいいと思ったんだ。それをこんな形で返してよこすなんて、親不孝者め。

 血は争えないっていうわけだ。俺は人に物事を相談できない超ワンマンと言われた。会社を大きくするためなら、乗っ取り、首切り、あらゆる悪どい事にも手を出した。国際感覚を磨き、知性を身につけたふりをしていても、哲夫、お前には、馬車馬のように道を切り拓いてしまうエネルギーと横暴さの血が流れているのだ。

 いいだろう。どうせ俺が裸一貫、美津子と二人で始めた会社だ。冷たい家庭、病いの身も天罰なら、息子に会社を追い出されるのも天罰に違いない。俺には今まで蓄えてきた貯金も十分あるし、楽しい思いもしてきた。あとはお前に会社をくれてやってもいいだろう。前から思っていた。せいぜい、会社を潰して社員を泣かすようなマネだけはしてくれるな。

 胸も苦しい。右足の関節が死にそうに痛い。病気が束になって俺に襲いかかっているような気がする。俺もヤキが回ってきた。気が弱くなっている。

 特別仕様車のベッドに横になり、目をつむっていると、社員達の表情が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。耳を澄ますと組合委員長中島の糾弾が聞こえてくる。乗っ取った会社の解雇した社員の俺を呼ぶ声――。心がすごく弱くなっている。俺の時代ももう終わりなのかもしれない。この前亡くなった昭和天皇の曲がった背骨が浮かんでくるなんてどうかしている。俺の目の黒いうちは、本社敷地の売却も、本社の移転もまかりならんと言っておいたのに。赤字がなんだ。累積赤字がなんだ。粉飾決算がなんだ。俺はここまでこの会社を発展させてきたのだ。些細な事にとらわれていては大事は成せない。

 頭から急速に血の気が引いてくる。川村木工の吉永社長に間違いない。東京駅の地下道を大手町に向けて、するりするりと漂っている。柱に寄りかかって雑誌をめくる浮浪者。中央公論――。汚れた顔をしていても目付きと顎で見間違うことはない。俺の方を向いても無表情にまた歩き出した。石油ショックで土地に手を出した吉永。運が悪かったんだ。

 他にも昔からの事業仲間が消えていった。俺と田口家具が生き残ってこれたのも何かの奇蹟なのかもしれない。社長と呼ばれることの快感、社長と専務しかいなかったスタート時、社長と呼ばれることが辛いほどの業績悪化――。そのたびごとに神風が吹き、金策をして生き永らえた。

 薬のせいだ。ちょっと気を許しと、頭の中に妄想がひっきりなしに広がってくる。何か楽しい事は思い出せないか。

 秋田にある地場の家具屋でのまずまずのサラリーマン生活。思いたって昭和四十二年の暮れに、自宅の六畳の子供部屋をカーテンで二つに仕切って商売を始めた。あの年は景気が悪くて、会社の人も友人達も回りは皆反対したけれど、何か胸騒ぎがしたんだ。今、独立しないと後で必ず後悔するというインスピレーションがあったからサラリーマン生活には未練も湧かなかった。

 独立することだけは決めたものの、何をしていいかさっぱり見当がつかない。とりあえず馴じみのある、家具の販売を始めた。ところが、信用がないので、家具の仕入れが出来ない。いざ商売となると厳しいものだと思った。会社発足時までに女房と貯めていた五十万円ほどの現金を元手に、商品を買ったり売ったりした。

 ところが昭和四十三年の中ば、商売がようやくわかりだした矢先に、不渡り手形をつかまされて一文無し。銀行へ行っても公庫へ行ってもお金を貸してもらえない。もうこれで一巻の終わりかなと観念しかけた時に女房が学校に勤めている義弟から話を聞きつけてきた。義弟の退職金を担保にすれば家の修理という名目で学校が金を貸してくれるという。

 ―――そのお金が起死回生となったわけですね。

 体の線がくっきり浮き出す黄色いワンピースを着た業界新聞のインタビュアーが、テープレコーダーを回しながら質問してくる。今まで人前で何度も話をした。創業時の苦労話。俺は得意になって続ける。

 「それを聞いて私はすぐに書類をでっち上げ、女房に学校の共済組合へ持って行かせました。十万円を借りて、それで仕入れを再開しました。義弟は事後承諾だったので少し怒りましたが、しぶしぶ了解してくれました。それほど私の気持ちは焦っていたのです。資金が十万円しかないので、仕入れた家具はすぐに売らないと次の仕入れが出来ないのです。売っては買って、少しずつ資金を増やし、信用も出来ていったのです。」

 ―――商売が大きくなったきっかけのような事があったのでしょうか?

 髪が長くてスタイルのいい若い女の子は、先が聞きたくて仕方がないらしい。ネクタイをしてこうしてインタビューを受けていると普段の罵声も忘れて好々翁になり切ってしまう。男もいい加減なものだ。

 「始めはスチールのデスクや折りたたみのイスを扱っていました。ところがある朝、新聞を読んでいたら、秋田市の教育委員会が生徒の通学時にヘルメット着用を義務づけるのに合わせて、ヘルメットをしまう格納棚を学校に設置する、という記事を目にしました。記事ではそれを木で作ると書いてありましたが、私はスチールで作ったらどうなるかなと思いついたのですね。スチールは安く出来るし、清潔で耐久性もありますから。さっそく義弟を通じて教育委員会に申し入れをしました。すると、すぐに試作は出来るかと言われ、ある鉄工所に頼み込んで大至急作ってもらったんです。

 出来上がってみると木製の半分の価格だし、見た目もきれいで、すぐに採用ということになりました。秋田市全部の小・中学校に納入しましたので大変な儲けになりました。当時は交通戦争という事が言われており、秋田県の他の市町村や岩手・福島、そして東京の一部の区でも採用してくれる所が出てきました。それまで木で作っていたものをスチールで作る、こんな簡単なことを当時は誰も考えつかなかったのですね。

 ―――それからの事業展開は、どんな具合いだったのでしょうか?

 「ヘルメットの棚も納入が一巡してしまえばそれでおしまいだということは十分承知していましたので、次の展開を考えました。やはり、これからは東京だ、物流の中心は東京だと思いましたので、儲けた金で神田に本社を構え、まだ安かった江東区の埋め立て地に広大な倉庫を手当てしました。地方の小さな木工所や鉄工所のために倉庫を提供し、お客さんからの注文を当社で取ると倉庫からすぐに配送できるようにしました。倉庫を提供することによって仕入れの資金負担をしなくて済んだわけです。地場の安い家具がすぐに手に入るということで田口家具の名前も評判になりました。」

―――東京での商売は仲々厳しいのではありませんか?

 つらい所を突いてくるインタビュアーだ。会社のバランスシートも既に見ているに違いない。最近は、過当競争で利幅が極端に縮小している。安いだけでは売れないし、大手の配送体制も比べものにならないほど整ってきている。どこかに活路を見出さなくては三百人もの社員を養っていくことは出来ない。

 「そうですね。当社は広大な倉庫を持っているという強味を持っているわけですが、種類が豊富だ、配送が早いといった程度では他社との差別化が難しくなっている。ですから、最近ではイタリアなど高級輸入家具の販売と病院向け家具の開発に力を入れています。」

 ―――輸入家具と病院向け家具に目をつけられたきっかけは?

 「実は両方とも不肖の息子が提案したものなんです。息子には専務をやらしているんですが、海外生活をさせていたもので、輸入家具がやりたいと言いますので。やってみると、日本にはない素晴らしいデザインで、これはイケると思いました。病院向けの方は、私が糖尿病で入院した時に息子が言い出したもので、手間ヒマかかりますが、将来性は十分です。」

 

 

 うん、また妄想していたようだ。ほんの五分位の間に何年分もの体験が通り過ぎていく。可愛い息子、憎たらしい息子、そして会社のことを考えていたのだな。

 哲夫、そうかもしれん。お前の言うように、俺は体を悪くしてから気が弱くなってしまったのかもしれない。事業に前向きに取り組む体力不足、お前の言う通りだ。確かに、会社は常に新しい事に手を出して転がっていかなければ段々腐っていくのかもしれん。

 過去に安住している――。お前の表現はいつも適確だな。でもな、俺の中には二十年以上も染みついた過去の体験が詰まっているんだ。苦しみを分かち合っていた頃の美津子のけなげな働きぶり。スチール棚が採用された時の美津子の満足そうな顔。義弟への誇らしげな電話――。

 お金が出来て、会社も自然に回りだすと、美津子は自分を主張しだした。ワンマンで威張るしか能のない冷血漢と俺を馬鹿にした。紀江との仲が発覚してからは、俺と美津子は単なる同居人だ。金の縁が無くなったら、美津子はさっさと飛び出していくに違いない。どうせ家事一切は家政婦がやっているのだ。

 俺はもう会社へ行く必要ですらないのかもしれない。これからは新築した家の自分の書斎で、完璧な空調と看護婦の手厚い世話を受け、毎日妄想を繰り返すのだ。庭をながめ、大きな活字の本をゆっくりと味読し、若いうちは見るヒマもなかったテレビをボーとながめるのだ。写経をするのもいいと松田製作所の松田会長が言っていた。「あなたはもう十分稼いだじゃないですか。そのまま働き続けたら地獄へ行きますよ。」説教臭い言葉が蘇える。「あなたの息子は立派になった。きっと会社を発展させられる。」松田の言葉は、複雑に胸に響いた。任せたい気持ちと任せるのが心配な気持ち、そして本当は任せたくない気持ちが交錯する。

 「社長。こんなすごいマンション見た事ないわ。夢みたい。トイレに換気扇はついているし、バルコニーに屋外テーブルも置けるわ。」紀江の声がする。俺には女の素直さしか理解できないのかもしれない。ガキの頃からお山の大将で、人の意見が聞けなかった。

 「あたし、ぬいぐるみで寝室を埋め尽くすの。それからクローゼットを服で一杯にして女子高の友達を見返してやるわ。」あの子は心の素直さと若さが取柄だった。俺は与える事が嬉しかったし、紀江は生まれてはじめて与えられる喜びを感じていたのだ。彼女はいつも父親の影を追い続けていたのかもしれない。それでも俺には十分だったのだ。

 薬がそろそろ効いてきた。もうすぐ何も考えられなくなるだろう。廻り燈篭のように次から次へと言葉が俺を責めつける。熱い。熱い―――。熱い―――。

 「親父は卑怯だよ。隠れてないで家の外へ出て、組合の人と話すべきだよ。」「パパって呼んでも言い――。」「この部屋の真ん中にカーテンを付ければいいのよ。この三畳が二人の新しい城になるの。」「社長、取締役会の決議には背けません。このビルももうすぐ瓦礫になるのです。」「新しい年号は平成と決まりました。世が平らかになるという願いが込められています。」「頼りないと思っても仕事は任せないと人材は育たんよ。田口さん、人はね、他人が思っているよりはるかに優秀なものじゃよ。」意識が混濁してが目の前で回り出した。もう、ぐっすり眠るのだ。夜明けまでぐっすり眠るのだ。

 

 

(第八章)

 「すべてうまくいきました。鉄球の三発でさすがの父上も観念したようです。容態が一段と悪化したらしく、専用車で横浜の自宅まで送らせました。時々、眠りが浅くなるらしく、聞きとれないようなうわ言を、ひっきりなしにつぶやいていたとの報告が入っています。」

 「ちょっとやり過ぎたかな。まぁとにかく御苦労様、堀口君。引き続き社長室長の任を全うして下さいね。これからは僕のための企画立案と、それから親父の面倒も見てほしい。」

 

 

 晴海新本社の窓から外をながめると、空地と建設現場が交互に入り混じっている。

 ここならば親父の影にもおびやかされずに仕事が出来る。俺も平成元年の今年で三十八才になった。

 体の衰えた親父に、あんな手荒なまねはしたくなかった。いくら独裁的な言動が我慢できないとしても、大好きな母親にひどい仕打ちをした男だとしても、血のつながった正真正銘の父に違いはないのだから。自分がこれまで好き放題生きてこれたのは、父親が怒鳴りながらも経済的に援助してくれたからだ。

 

 

 会社での尊大さを家に持ち込むようになった父。怒ると母をなぐるようになった父。そんな父の影から逃れたくて、学生時代はサッカーに明け暮れた。勉強は嫌いではなかったが、成績が上がるのは父を喜ばすような気がしてテストはいつもわざと間違えた。やがては日本を脱出したいという漠然とした希望を抱いていたから、英語にだけは力を注いだ。近くに住んでいたイギリス人家庭の子供と仲良くなって、しょっちゅう家に出入りした。サッカーをやっている事でイギリス人の父親とも仲良くなって友達をたくさん紹介してもらった。実地で英語を磨いていたので、英語の実力は高校でもナンバーワン。しかし、テストの出来の悪さに先生は首をかしげていた。親に内緒で英検一級を受験し、一発で合格した。どうせ父親は猛烈に働くばかりで、ろくすっぽ家にはおらず、俺が一生懸命英語を勉強していることなど知る由もなかっただろう。

 しかし、入った公立高校の自由な雰囲気は、片意地張っていた俺の考え方や性格に微妙な影響を与えだしていた。当時依然盛んだった学生運動。サッカーで昼は汗まみれになり、夜はマルクスの本をめくった。社会改革の熱い心は、それまでの屈折した心情にはとても新鮮に映り、感動した。

 そしてある時、ひょんなことから制服廃止の運動に首をつっこみ、わからずやの先生との口論、ストライキの組織、そして退学処分――。得意な英語を使って社会に出てもいいや、という漠然とした思いを父は、甘いと頭ごなしになじり、勝手にアメリカの高校への入学手続きを済ませてしまった。

 フィラデルフィアから三十キロ程の田舎町、俺はそこで、自己主張と楽観主義、そしてキリスト教を基調とする理想主義のにおいを嗅いだ。アメリカには、俺の弱くて満たされない何かを潤おわせてくれる何かがあった。

 そして、そのまま成行きでフィラデルフィアの大学に入学、今度はスペイン語を学ぶ。別に何を学んでも良かったのだが、近くに住んでいたスペイン人のガールフレンドの事が気にかかっていたのかもしれない。かなりいい加減な気持ちだった。

 とにかく父から離れていられるだけでも良かったのだ。アメリカの大学は日本と違ってテストが厳しく、ここで俺は勉強の厳しさと友達の有難さを学んだ。英語がネイティブでない人間はより多く予習をしなければいけない、という日本的な考えでなく、俺は日本人で英語が劣っているのはあたりまえなのだから授業の進め方も俺の存在を考慮すべきだ、と言える自由さが、その大学にはあった。

 大学に入った時から、親の仕送りはストップしてもらった。自分に合った奨学金を見つけ、足りない分はアルバイトで稼いだ。主に、スポーツ店の売子をやったが、応対がアメリカ人に比べて丁寧だし、商品知識にも勉強熱心ということで評判になった。

 大学を卒業し、アルバイトを転々としていた俺に転機を与えてくれたのがサッカーのワールドカップ中継。アメリカ人はサッカーには冷淡だったが、世界中からの移民たちはテレビに釘付けとなった。結果はアルゼンチンの優勝だった。アルゼンチンの攻撃サッカーとブラジル人の華麗な足技。忘れかけていたサッカーへの情熱が急に蘇ってきた。南米へ行こう。心はすぐに決まった。

 ブラジルはまずサンパウロの日本人街を振り出しに、リオデジャネイロ、マナウス、ベレンを転々とし、トラックの運転手、プランテーションでの農業、サッカー場の切符切り―――あらゆる職業を経験した。

 ブラジルでの放浪にピリオドを打たせたのは一夜の出来事。昼間に、イグアスの滝を観光し、旅行会社の手違いで野宿することになった。深い緑に抱かれて朝まで一人ぼっち。日本から見るとちょうど地球の真反対にあたるこの地で、一人の日本人が消えてしまったとしても誰も気付かないだろう。むしろ、こうして生きていられるだけでも何かの偶然なのだと。所詮この世の全ては仮りの姿、自然の怪奇さと奥深さにたち打ちできるものではない。生きていることが神秘でもあり、生きていることを神に感謝しなければならないのだ。ザーという滝の水の音を聞きながら朝が明けていった。早く日本に帰って普通に生きてみたい、そう思った。足を地につけて目標を掲げ毎日を生きる。いてもたってもいられず、有り金はたいて日本行きの飛行機を予約した。

 日本行きのヴァリグ航空の飛行機の中でアマゾンの光景を思い出した。昔、アマゾンのゴム景気で大富豪になった西洋人が、アマゾンの奥地にオペラ座を建てた。残念ながら、そのオペラ座を自分の目で確かめる事は出来なかったが、随分突飛な事をやったものだ。俺も日本に帰って事業に成功したら、オペラ座みたいなでっかい物をこしらえたい。結局、アマゾンのオペラ座がゴムブームの終焉によりうち廃てられたように、いつかは人々から忘れ去られてしまうのだとしても・・・・・。

 

 

(第九章)

 田口哲夫が社長に就任した平成元年からの五年間、日本経済は好景気に浮かれ、経済の構造改革の象徴として、ウォーターフロントの開発具体化が連日、新聞紙面を賑わした。従来の高度成長期ほどの熱気はないものの、今度こそは真の意味で豊かになろうという人々の願いが、若き世界の経済リーダー日本を押し上げていったという見方も出来よう。

 マスコミや学者達は旧来価値の崩壊、経済偏重へのいましめ、経済構造の脆弱さを再三再四に渡って警告したが、日本経済は、そうした警告をあざ笑うように着実に躍進した。かつての高度成長期にジャーナリズムやアカデミズムは成長から来る歪みについて批判するばかりで、将来の発展を全く予見することが出来なかったのと同じ様に。

 日本経済の発展というのは政府や財界によって一糸乱れず統制されて進んでいくというよりも、制御不能なアメーバ―が無秩序に増殖し、拡張を繰り返しては失敗して縮小、休憩してからまた増殖するという形をとった。ダイナミックな無秩序さが、あたかも神の手によって導かれていったかのようであった。

 平成時代のこうした経済発展について、あるソープギャルが「平成のインダストリアリズム」と名付けた。ソープギャルが時代のコピーを考えたところが今日的だった。そのソープギャルは、平成のインダストリアリズムについて次のように語っている。昭和時代六十三年間の大変動のあとの安定―――世の中の刺激が強すぎて性欲も弱くなったのよ。一九六〇年代への回帰―――色々やってみたけど正常位が一番いいということに落ち着いたのかしら。底流での構造変革―――セックスのあり方も、昔とは全然変わってしまったのね。と表現した。

 事実は小説より奇なり。国際政治の分野でも人々が予想もしなかった事が起こった。ソ連共産党書記長による共産主義否定宣言、共産党から自由民主党への名称変更。金日成の死を契機とする南北朝鮮統一へのうねり。そして東西ドイツの中立的でゆるやかな形での連邦結成、国内でのナチズムの隆盛。ドイツの動きについて言えば、将来のドイツの強大化を懸念して米ソが防衛体制を検討しているというスッパ抜きの記事が出て、議論がやかましくなっている。経済的に破綻したソ連は既に東欧諸国の民主化を黙認しており、経済発展により存在の重みを一段と増しているアジアの各国もまじえ、世界政治の枠組みは、二極、三極構造から多極構造、戦国時代に突入した。

 また地球温暖化をはじめとする世界的な異常気象は一段とひどくなり、太陽黒点に関する共同研究など世界レベルでの環境、自然問題討議が活発となった。

 世界の緊密化は一層進み、二十四時間放送し続ける世界ニュースのお蔭で、旅行に行かなくても旅行をしたような気になることが出来た。人々は最初は事実の面白さに気付きはじめ、人の内面を描き出す小説のような物は全く売れなくなった。事実の重さが、小説のマンネリズムをノックアウトしたのだった。しかし、事実もあまり過剰になると、人々はニュースに不感症になって、やがて再び、小説や宗教などにも帰っていった。

 ここで目を日本の社会に転じると、世界秩序の変動の中で日本の舵取りには、常に世界の厳しい目が光ることとなった。世界の模範となるような哲学を育てる歴史を持たなかった経済大国は、既に世界一、二を争うほどに膨張してしまった巨体ゆえに様々な批判にさらされた。経済的な発展ばかりを追い求め、文化的には無意味な醜態をさらしているウォーターフロントが象徴しているように。古くは捕鯨を続ける無神経さ、象牙の乱獲批判、東南アジアからの木材の大量輸入が問題とされていたが、これらの問題はもうどうにもならない位の批判を浴びた。ついに政府は、象牙製の印鑑の製造禁止、割り箸の使用禁止を宣言せざるをえなくなった。また、水や電気の使い過ぎも大きな国際問題となり、国内の製造業メーカーは再び省資源投資を余儀なくされた。国語諮問委員会もこうした事態に鑑み、従来の「湯水のように」という表現を不適当なものとして全国の学校に勧告した。また、世界ニュースで日本女性の「朝シャン」の習慣が放映されてから、水不足に悩む第三世界の女性大統領が反対大キャンペーンを張った。日本人の潔癖な衛生観念さえも世界的な批判の的となったのである。日本の野党党首が国連で証言を求められ、「私はそんなにきれい好きじゃありませんよ。洗髪だって週に一、二度で、ほら髪だってこんなににおいます。」と発言する一幕もあった。しかし、政府としては国際世論を考慮して何らかの手を打たざるをえず、結局、「朝シャン自粛要請」を布告した。某フランスの香水メーカーは、石鹸のにおいのするスプレーを開発し、日本の若い女性の間で爆発的な売れ行きとなった。一説では、キャンペーンの先頭に立っていた女性大統領に対して、その香水メーカーから香水一年分が届いたとのことである。

 こうした日本に対する様々な批判は、大体において経済大国への期待感から来るものではあったが、一部は明らかにアジアの大国への妬み、嫌悪感から発生していた。

 日本人のライフスタイルそのものが批判の対象として世界の注目を集めるにつれ、新たな摩擦を防ぐために政府は極秘裡にプロジェクトチームを組織し提言を作成させた。あるルートから暴露された資料によると、約十年という時間をかけて段階的に日本人のライフスタイルを西欧化していくというものだった。提言内容に、車の左ハンドル化、和式便所の禁止、日本語と並んで英語の公用語としての使用許可などが含まれていたため、国家主義者達の猛烈な反発を買い、政府は否定声明を出さざるをえなくなった。

 一度火のついた大衆の消費熱には拍車がかかったが、物を置く場所が無いため、物は買われてはすぐ飽きられて捨てられることとなった。今や満たされぬマイホーム願望は疑似体験で済ますしかなく、ある玩具メーカーの発売したマイホームミニチュアままごとセットが爆発的に売れ、資産家を主人公としたホームドラマも一つの流行となった。

 ある評論家は、内需振興、消費奨励の風潮について、世界が日本に課した罠であってパニッシュメントだと看破したのだった。

 経済的な発展とは裏腹に、人々の心の荒廃は著しく、新たな宗教も続々と登場した。新宗教の特徴は、科学的な裏付けをまとっていた事であろう。各宗教は競って天文学者、地球物理学者、量子力学、中国易学の権威を顧問として迎え入れた。

 心の問題と言えば、若者達の価値観の変化は筆舌に尽くし難く、旧世代とのギャップは手がつけられない程となった。学校では漫画の教材を使って、なんとか大人達の価値観や道徳を教えようと試みた結果、授業の評判は良かった。しかし評判が良かったのは、生徒達が「最高に笑えるジョークの時間」と考えたためだった。

 

 

(第十章)

 「なかなか、堂々とした演説だったじゃないか。夢の会社か、奴さん、したたかだな。」

 週刊ビジネスマンの村本がチェアマン誌の畑中に話しかける。

 「したたかっていうと―――?。」と畑中。

 「そりゃそうさ。文鎮型の組織って聞こえはいいけど、要するに社長独裁の組織だろ。口では理想主義を言ってるけど、あの社長、やり手だよ。団塊の世代はしぶといっていうけど、転んでもただじゃ起きないっていう感じだな。」

 ワインのアルコールがいい加減回ってきたらしく村本の舌はますます滑らかだ。

 「それにだ、聞きたいかい、夢の基金だって。うまいネーミングだよ。」

 「あぁ、そうだな、最近、夢屋に対する世間の風当たりも強くなってたもんね。オペラ劇場で大衆の気嫌取りと言えないこともないなぁ。君の言う通り―――。」

 「まぁ、チェアマンは経営者の生き方や主張を美化するのが目的の雑誌だから、上っ面の見方でもいいかもしれないけど、週刊ビジネスマンは読者も多いし、ライバル誌の追い上げが急だからね、通り一遍の記事じゃ読者を満足させられないんだ。五年前の社長交代後の病院向け家具への傾斜。本人は、病人が少しでも楽になるようになんて言っているけど、一番の狙いは儲けの大きさだと俺は当初から睨んでいたんだ。案の定、出るわ出るわ、病院サイドから出た夢屋の儲け過ぎ批判、医者みたいな高額所得者相手だけの高級家具販売、イタリアメーカーからのデザイン盗用訴訟―――。」

 「それはそうだけど村本さん。僕は田口社長についてはそんなに悪い人間だとは思ってないよ。床ずれがせずに、しかも心臓病患者には最適なウォーターベッドを病院に普及させたことや、足の不自由な人が看護婦の助けを借りなくとも車椅子から滑るようにベッドに入れるようにした、すべり台付きベッドの開発についても、立派な功績じゃあないか。夢の基金の創設だって、結局は社会のためになることじゃあないかな。」

 「畑中さん、君はまだ若いね。でも、まあいいや、チェアマンはチェアマンの編集方針があるし、うちにはうちのやり方があるからね。とにかく、あの社長はやり手だってことに間違いはないさ。病院や医院向けのベッドや家具が遅れているのに目をつけて、機能面やデザインを改革し、病院や医院のインテリアを明るくしたんだからな。そして、儲けた金で、せっせとウォーターフロントに土地を買い増した――。」

 「そうそう、普通の新興企業は担保がなくて、業績が悪くなるとすぐに会社が傾くものだからね。」

 「ウォーターフロントの将来性にも目が入っているし、担保を増やして借りた金で新製品の開発にも力を入れている。恐れ入ったもんだよ。」村本は、かなわないという感じでおどけて見せた。

 「今じゃ、医者向け高級家具のイメージで夢屋の名前は知れ渡っているし、業績だって毎年、倍々ゲームだものね。このオペラ座を使って、今度は、庶民向けウォーターベッドへの進出か。これは、また大評判だな。」畑中も、首を回してぐるっと劇場内を見回した。

 

 

 井田豊の設計によるオペラ座は軽快なコンセプトでまとめられていた。従来の重々しくて堅牢なイメージとは違い、灰色の色調で統一され素材にもふんだんに新素材が取り入れられている。ピラミッド型をした天井部分はガラス張りになっており、晴れた日には野外劇場の雰囲気を味わえるのだった。井田によると、日々変貌しているウォーターフロントを象徴した柔らかさと劇場の持つ華やかな仕掛けを表現したかったとのことである。

 

 

 「社長、いよいよ社長の理想である、夢の会社の実現ですね。」

 「堀口さん、そうだね。あなたにも更に頑張ってほしい。」タイミングの良い社長室長の言葉に、哲夫の返事も弾んだ。(そうだ、この日のために俺は必死に働いてきたのかもしれない。きょうからは親父の作った田口家具ではなく、名実ともに俺の作った夢の会社が始まるのだ。)

 この四月に入社したばかりの藤井康友が、「週休三日制って本当ですか。俺、やっぱりこの会社に入って良かったって思ってますよ。学閥もないし、職場に活気はあるし、やっぱり最近の学生に人気があるのも実感できますね。」と言いながら、ちょっと顔を赤らめた。若い者は素直でいい、俺達が言うと、重くなったり、白々しくなると堀口は思った。

 「週休三日も、株式による給料分配も、言うのは格好いいですけれど、週休三日で仕事が本当に片付くとお思いですか?不況になったら配当が出なくなるのではないですか?」哲夫の提案で数年前に解散した組合の元委員長、「座り込みの夏夫」こと、中島夏夫が口をはさむ。

 「大丈夫だ。心配いらないよ。五年間じっくりと考えてきたんだ、失敗はしない。今度の新しいウォーターベッドには自信があるんだ。もっとも、会社を今後、生かすも殺すも皆なのやる気次第なんだけど・・・・・。新提案のやり方については、ゆっくりまた相談させてもらうよ。」一応余裕をもって答えながら、哲夫は改めて口元を引き締めた。

 「社長。」調子の良い事で知られる常務の大田垣が口をはさむ。

 「いやぁ、結構ですな。週休三日にキャプテン制度。私は本当は、週休三日なんて言わずに、休日も返上して働きたい口なんですがね。ところで、文鎮型組織っておっしゃいましたけれど、役員の処遇はどうなるんでしょうね。」

 「太田垣さん、それも、ゆっくり相談させてもらうよ。」哲夫は軽くいなした。

 「本当の事を言うと、この五年間でこの会社も大きくなったし、給料も増えて、俺も社長の言う通り組合を解散して良かったって思ってるんですよ。うちの中学生の息子だって、この前親父の会社の社長がテレビに出てたって―――会社の発展がね、そのう、我が身の発展みたいでね、嬉しいんですよ。」嘘のつけない性格の中島が頭をかいた。

 「社長さんは、いい社員をたくさんお持ちですのね。」ローランサン誌の川端女史が、哲夫に話しかける。週刊ビジネスマンの村本が、ここぞとばかりに続ける。

 「社長のおっしゃる従業員持株制度について、もう少し説明していただけないでしょうか。」

 「まず、とりあえず考えているのは、ボーナスの半分程度を現金ではなく会社の株式で割り当てます。また、その期に優秀な業績を挙げた人にも特別ボーナスを割り当てます。年功に応じて持株が増えていきますし、また割り当てとは別に、自分で株式を買い増したい社員には株式の買入れができるようにします。株式の配当率は利益の水準によって変動しますから、社員の皆さんは持株制度を通じ、働くことで会社の利益を増大させ、配当金として利益分配に参加できるわけです。」

 「業績がいい時はいいんでしょうがね・・・・・。」村本はニヤッとする。

 「それに、いくらキャプテン制度といっても、業績について誰かが人事評価しないといけない点では他の会社と同じでしょう。」村本の追及は厳しい。

 「そこの所が一番難しい所ですね。会社である以上、人事評価という問題を抜きにしては考えられないでしょうね。だけど、投票制にすれば、公平な評価をしないチームリーダーは次からはリーダーに選ばれなくなる。私だって最初からうまくやれるとは思っていませんよ。投票制を繰り返すことによって、公表でしかもリーダーシップのある人間を作っていく――そんな風に思っています。」

 「キャプテンが他の人より給料が多くなるってことでいいんですか?。」チェアマン誌の畑中も聞いてみた。

 「キャプテンって言葉はね、スポーツ―たとえば私はサッカーをやっていたんですけど――のキャプテンを考えてもらえばいいんです。年令やプレーのテクニックとは必ずしも一致しない。リーダーシップがあれば若い人でもキャプテンをやる。ですから、給料や株式の配当はキャプテンが多いとは限らない。仕事に必要ないくつかの才能のうち、たまたまリーダーシップのある人がキャプテンに選ばれるのですね。だから、営業の才覚が抜群だとか、特殊な製品開発技術を発揮しているというような人は、リーダーでなくとも当然利益分配が多くなりますよ。さぁ、きょうの所はこの位にして、あちらのテーブルに移りましょう。あちらにはイタリアから特別に取りよせた、赤ワインの極上物がありますから――。」

 哲夫達は隣のテーブルに移る。ここでも、アルコールに上気した若い社員に囲まれて、さっきの演説の内容、オペラハウスの事など語り切れない思いを語るのだった。もうこの頃には正美たちのジャズバンドも演奏を止め、人々の談笑の渦に取り込まれていた。パーティは絶好調、社員の若い熱気がオペラハウスのステージに満ちている。

 

 

 仲の良い者たちのグループがいつくもの輪となって、話がいよいよ盛り上がった頃、急に人々の笑いが止まり、一斉に視線が入口の方へ向けられた。

 入口には―――。両側をダークスーツを着た二人の男に支えられ車椅子に座った元社長――五年前に息子に社長の座を追われた日から病状が悪化し、今では歩く事もままならなくなった田口尚蔵がいた。今では取締役の肩書きもはずれ、相談役の名前ばかり。出社することもなくなっていた。

 静まりかえった人々が固唾を飲んで見守る中、尚蔵の車椅子はそろりそろりとステージの方へ向かっている。メタリックな素材の客席、明るく軽やかな証明――その間を縫うようにしてダークスーツの男二人と、車椅子に体を埋めた老人が無表情に進んでいくのだ。そして――――、ステージの直前でゆっくりと止まった。沈黙。誰もが生唾を呑みこむ。

 「何をしてるのかね。儂を早くステージまで運びあげてもらえないかな。」尚蔵のきっぱりした声がオペラ座にこだました。髪はもう真っ白。顔色も優れない。五年前と比べて、衰えはひどいものだ。

 「は、はい。」両側の男が車椅子を両側から持ち上げる。ステージからの助っ人を加え、八段程度の階段からようやく上に上がることが出来た。

 「階段ではなくてスロープの方が具合いが良かったな。それはさておき、きょうは呼んでもらって・・・・・。立派な建物、立派な会社になったものだ。皆さん、年寄りが一人昔を懐しがって来ただけだ。儂など気にせず、楽しく続けてくれんか。儂も夢屋の車椅子用ベッドの愛用者でなあ。あれは良く出来たものだから、あの世まで運んでいきたいくらいに思っておる。」最後の一言で人々の緊張が一気にほぐれた。

 「父さん、来てくれてありがとう。暫く会いに行けなくて御免よ。」哲夫は尚蔵のそばへ駆け寄り声をかける。成功した社長としての余裕をさりげなく示そうとするのだが、やはり少しぎこちなく、言葉が芝居がかってしまう。目をつぶって何やら考えていた尚蔵は、哲夫の背後に見えるガラスの天上を指して、

 「自然の光が入ってくるきれいなガラスだ。きれいな物は素適だが、きれいな物に囲まれて人間、外の事がわからなくなったらおしまいだぞ。」尚蔵は一言だけ哲夫に言って、車椅子を隣のテーブルに進めた。そして源次と何やら昔の事でも話し出したようだった。

 紀江は体を堅くして尚蔵の一挙手一動を見つめていたが、思いは複雑だった。初めてあった頃の自分と尚蔵、そして今の自分と尚蔵、この二つの関係の余りの距離に唖然とするばかりだった。そして今の哲夫が、昔の尚蔵に、体つきも、仕草も何もかもそっくりな事に驚くのだった。

 「オイ、逸馬。いつまでいるつもりだ。ここを出て飲みに行こうぜ。俺のマンションにうまいバーボンがあるんだ。あしたは日曜だし、たまにはいいだろう。」正美は逸馬の背中をポンと叩いた。逸馬はちょっと躊躇したが、「そうだな。」と明るく同意した。

 

 

(第十一章)

 正美の部屋はきれいに整頓されていた。フローリングの床にはワックスがほど良く光り、手入れの良さを物語っている。何の変哲もないワンルームに白い留守番電話ひとつで暮らしているのだ。何でもかんでもゴチャゴチャと狭い部屋に詰め込んでいる逸馬の部屋とは全然違う。

 「逸馬、俺たちも社会に出て六年が経ったんだなあ。入社して二、三年は、こうして夜良く飲んだけど、最近は――。久しぶりだよな。」

 「あぁ、この六年間、実に色んな事があったよ。」逸馬が答える。

 「俺たちが会社に入った頃は、新人類、宇宙人なんて言われたものだけど――。それが今は俺も部下が五人っていうんだからな。」正美は笑った。

 「俺も部下が二人。時々、今どきの若い者は、なんてつい口にしてしまう。」

 「そうそう、あいつら本当に何を考えているのかって考え込んでしまうことがあるよな。」正美は無駄のない手つきで、冷蔵庫から氷を取り出しバーボンの水割りを作った。

 「それにしてもあのオペラ劇場は見事だったな。久しぶりにサックスを吹いて気分が良かった。いい加減な気持ちで入った会社だけど、六年でびっくりする位に大きくなったよね。」

 「正美はどう思ったか知らないが、哲夫社長というのは、頭の後ろの方から次から次へとアイデアの出る人だと思わないか。」

 「あぁ、そうだね。ブラジルにいたり、学生運動もやっていたっていうし、俺たちには理解しがたいって感じだね。」

 バーボンの一杯目をぐいっと飲み干し正美が続ける。

 「俺さ、最近とてもモヤモヤしてたんだけどさ、今日のパーティで何だか気持ちがすっきりしてきたような気がする。」二杯目のバーボンを作ってから、正美は語り出した。

 

 

 入社した頃は、言葉で自分を表現するのが苦手だった若者も、今では目を輝かせて自分を語れるようになっていた。窓の外では時折車が通る音がする。「きのう源さん定年だったろ、俺を可愛いがってくれてたから、最後に面白い物を見せてやる、って言うんだ。」正美は遠くを見つめるような目をして、一気に話し出した。

 

 

 定年を迎えた遠山源次が正美に見せてくれたのは昔の社内報のストックだった。

 十年以上も前からの社内報を源次は丁寧にファイルして保管していた。古い物は紙が黄ばみ、表紙の文字やレイアウトがやけに古めかしくて懐かしかった。ざっと見て、正美が一瞬手を止めたのは、ちょうど十年前の五月号。「十年後の田口製作所」という討論会の記事があり当時広報課長だった源次の司会で、苦手社員が将来の会社像について激論を交わしているのだった。

 四人のメンバーの一人は水森良雄。かっては可奈子の上司で、今は正美の直属の課長。今では頭が禿げ上がり、腹が出て二重をぶら下げる水森課長が、細かい細かいと言われながら、会議ではいつも穏健妥当な意見を述べる良識派の水森課長が、興奮した面持ちで映っている写真。写真の中にいる十年前の水森は、今の正美であり逸馬だった。会社の将来を熱っぽく論じている青年水森の表情には、ナイーブで傷つきやすそうな若者の生気が満ちている。正美はその写真を食い入るように見つめ、水森の言葉を繰り返し読んだ。「僕は誇りを持って仕事をしたいんです。たとえその仕事が一見意味のない仕事のように思えても、どんな仕事にも何かの意味があるのです。そう思って前向きに仕事に取り組まない限り、自分の成長も会社の発展も望めないと思います。」自分の成長、という文字に目が貼りつき今の水森の顔と二重写しになった。何を考えているかわからないと評される水森にも、こうしてストレートに物を言った時代があったのだ。職場で悩み、考え、時が経ち、そして今の水森がいるのだ。そう思ったとき、怒鳴られたことも、彼の世代の会社に対する絶対的な忠誠心も、すべてが許せるような気がした。

 それに源さんの言葉だ。定年を迎えたきのう、送別会の会場へ向かう途中、源さんは回り道をして表参道の駅を通って行くと言ってきかなかった。両手一杯にもらった花束をかかえて、「ちょっとここで待ってくれ。」と言い、ホームの売店に寄った源さんは、花を一輪売り子の女性に手渡した。「きょうで僕は定年なんだ。毎朝、新聞を買う時に明るく声をかけてくれてありがとう。」と言うのを正美は立ち聞きした。

 地下鉄を待つ二人きりのホームでの源次の言葉を正美は将来忘れることがないだろう。「会社は劇場だ。」と源次は言った。「大道具、照明係、切符切りといった裏方もいるし、ステージの上の役者にだって脇役や役がいる。皆なで主役の役者を肩に担いで、千秋楽に向け芝居を続けるのさ。劇場の中にも悲しみや喜びが渦巻いている。皆な平気な顔をして自分の役割をこつこつ、こつこつ果たしていくんだ。俺はな、もう長い間やったから、役者を引退して今度は客席からステージにいる君達に拍手をするのさ。」

 会社というものに対する考えが最近少しずつ変わってきているのを正美は感じていたのだ。責任を与えられるようになったからかもしれない、気持ちが大人びてきたのかもしれない。はっきりとはわからないのだが、仕事が楽しくなると体の調子も良くなってきた。そんな時に源次の言葉を聞いてひらめく事があったのだろう。それに、週休三日、祝祭日や有休休暇も入れれば会社に拘束されている時間は、全活動時間の半分にも満たなくなる。自分の全人格が奴隷のように会社に繋がれるわけでもない。会社だって愛着を持ってやれば、そんなに嫌なところでもない。正美は、これまでのように会社とは距離を置いた考え方でなく、夢の会社のために少し頑張っても良いような気がしていた。

 

 

 自分の思いを淡々と語った正美に、一つ一つ軽くうなずいていた逸馬がやっと口を開いた。

 「そうか、正美、それは良かったな。君がそんな気持ちになれた事を俺は心から祝福するよ。六年間という時間は無駄ではなかったというわけだ。俺にも、もう一杯水割りをくれないか。」逸馬の声はとても静かだった。

 「あー。」ため息をついたのは逸馬だった。今度話すのは逸馬の番だった。

 「俺の方はね、君とは反対なんだ。最近考え込む事が多くなってしまってね。時々、夜も良く眠れない。昔は、蒲団を見ただけでいびきをかき出す男、なんて言われていたのに・・・・・。もしかして、俺、会社を辞めるかもしれない・・・・・。」

 「えっ。どうして・・・・・。残業は俺の趣味だって言って頑張っていた君が。それも、よりによって会社がもう一段の飛躍をしようという矢先に――。」

 最近沈みがちな逸馬の事が、実は正美も気になっていたのだ。馬鹿だ、間抜けだと、人に何と言われようと気にせずガムシャラに働いてきた逸馬が、肩を落として今、会社を辞めるかもしれないと言っている。

 「この所、目の調子が悪くて・・・・・。」逸馬は語り出した。

 

 

 毎晩遅くまで伝票の整理や帳簿の収支合わせで働いてきた。仕事に対する使命感、与えられている責任が嬉しくて、残業も辛くはなかった。それに、頭もそれほど良くない自分が、給料に見合うだけの仕事をし、回りの人に太刀打ちしていくためには努力しかないと自分に言いきかせてきたのも確かだ。人の嫌がるばっちい仕事、面倒臭い仕事、ため息の出るような割りの悪い仕事、みんな笑顔で引き受ける、そんな事に優越感を感じていたのかもしれない。

 だけど、経理の仕事ももう六年になる。正美や他の同期が、仕事を覚えるたびに職場を代えキャリアを積み上げ、広い視野で回りを見れるよう考えてもらっているのに、自分ときたら、来る日も来る日も、食事の時間も惜しんで帳簿とにらめっこをしている。六年も経てば色んな事が見えてくる。夜、自分の部屋で寝っ転がっているとこんな事を考えるんだ。今まで、自分がこの手で把み取ってきたと思ってきたものが、実はみんな誰かがレールを敷いていて、知らないうちにその上を走らされて得たものだったって。こうして毎日あくせく働いて、上司か誰かの勧めで見合い結婚でもして――、子供が出来て――、ローンを借りて家を建てて――、ローンを返すためにまた脇目もふらずに働いて――――。経済的には豊かになったけど、何だかすごく大事なことが不足しているような気がして。

 会社の人が俺の事を何と言っているか、俺もよく解っているよ。「山田君は良く仕事をする。とても『便利』だ。」ってね。便利って何だ。俺はあんたらを出世させるための部品じゃないんだよ。この前、トイレで上司達が話しているのを立ち聞きした。「海野部長は休む時はちゃんと休んでいる。やっぱり偉くなる人は違う。それにひきかえ、うちの山田みたいに有休休暇も取らないで、それを誇りにしているような奴は鉄砲玉だ。」ってね。そこまで言われると残業するのも馬鹿らしい気がしてね。だけど、俺が残業するのはあたり前だと思われてるから、仕事量の割り当てがすごくて、いつも火の車。嫌でも残業を止める訳にはいかないんだ。

 目の調子が悪くて、時々焦点が合わなくなる。きのうも、地下鉄のエスカレーターの前で足が前に出ていかない。後ろの人達が先を急いでエスカレーターに殺到するのを見て、自分は今まであんなに急いでいたんだって思い知らされた。このままでは俺はきっと失明するような気がする。そして、また社会の隅っこに戻って社会を呪うんじゃないか、そんなことばっかり考えてしまってね。今のうちならまだ間に合う。一回会社を辞めて、自分の腕や自分の足や、自分の力を試してみたいような気がするんだ。会社の事は正美みたいな要領のいい人間が切り回していけばいいんだ。

 それに経理というのは会社の金の流れがわかるだけに、会社の色んな嫌な事が目に入ってきてね。ここだけの話だけど、病院チェーンへの献金、厚生省への働きかけ、社長をはじめとする役員達の使途不明な接待費―――あんまりいい気はしないんだ。

 

 

 「君は少し疲れているんだよ。学生時代だって会社に入ってからだって休んだことがなかったから。会社を辞めるなんて考えるの、よそう。どんな会社へ移ったって、何をしたって、みんな結局同じさ。俺の友達で会社を辞めた奴を何人か知っているが、みんな君みたいな漠然とした気持ちで辞めているんじゃない。その仕事が、嫌で嫌でたまらなくて辞めているんだ。もう少しゆったりして、ゆっくり考えてみよう。俺で力になれることなら何でもするよ。」正美はテレビドラマに出演してセリフをしゃべっているような気がした。いつかどこかで見たストーリーに沿って誰かが書いたセリフを自分の分身が語っているのだった。

 目の前には、しゃべりながらアルコールをしこたま飲んだ逸馬が、だらしなく寝そべっていた。

 正美は朦朧とした頭で可奈子の事を思い出していた。三日前の電話での言葉が心に残っていた。「私、そんなに仕事に執着ないの。やっぱり私にはキャリアウーマンなんて似合わないみたい。今だったら、このまますっと家庭に入っても、幸せにやっていけるような気がする。」きょうのパーティでの白いワンピースはとても良く彼女に似合っていた。

 

 

 こうして長かった土曜日は終わった。正美も逸馬もすっかり今晩は酩酊してしまった。五月の夜更けから朝にかけては一年中で最も優しい空気があたりを支配している。静けさはいつものように若者をその手で包み込み、そっと頭を撫でてくれる。

 早朝の新聞配達にも気がつかず、正美と逸馬が目を覚ましたのは、太陽が既に昇り切った正午近くの事だった。

 

 

(第十二章)

 近くのイタリアレストランでニンニクと赤唐辛子のスパゲティをたらふく食べた後、正美の提案で二人はオペラ劇場を見に行くことにした。きょうは日曜日、オペラ劇場がオープンする。午後六時の開場を控え、あたりは報道関係者、オペラ関係者、招待客でごったがえすことだろう。可奈子たち総務課の連中は、今頃もう集まっているかもしれない。

 赤のフィアットで都心をドライブする。最近ではすっかり週休二日制が定着し、土日の都心は道がスカスカ、格好のドライブウェイなのだ。住宅も周辺に徐々に追いやられ、山の手線の内部に住んでいる人間が激減している。

 「やっぱり俺のファミリアとは走りが違うよな。」

 「お前の年代物と比べちゃ、この車が可愛いそうだよ。いくら外車が国内車並みの値段になったとはいえ――。」正美の運転はいつも適確。逸馬の車が傷だらけなのとはエラい違いだ。生来の勘と運動神経のせいもあるのだろう。

 晴海通りを銀座に抜け、歌舞伎座を通り過ぎる。万年橋を越えると目指すウォーターフロントはもうそこだ。大昔には開閉していたこともあったと聞く勝鬨橋で一服し、川の臭いを嗅ぐ。規則正しく区画整理された広い舗装道路を行くと右手前方に埠頭が見えた。

 「おい、ちょっと待て。今、追い抜いた女の人、あれ紀江さん、秘書室の菱沼紀江さんじゃないか。」正美がめざとく見つけ急ブレーキを踏む。逸馬はふいを突かれ前のめりになった。

 「菱沼さん、もう少しだけど、乗っていきませんか。逸馬ちゃん、後ろの席へ行って下さい。助手席はやっぱり美人の方がいいですからね。それとも、こいつをここに置いて二人でドライブしましょうか。」

 「あら、いつも西川さんは女性に優しいのね。ねぇ、それならまだ時間があるから、三人で埠頭へ行きましょうよ。きっと気持ちがいいわ。」

 「えぇ、別に僕ら用事があるわけでもないし、オペラ劇場にちょっと寄ってみたかっただけだから。構わないですよ。なぁ、正美。」逸馬はドアを開け、ゴソゴソと自分は後ろの席へ移り紀江を乗せた。

 

 

 紀江がタクシーを使わずに地下鉄の最寄駅から歩こうとしたのは、歩いている間に自分の気持ちを整理したかったからだ。正美の事も逸馬のことも、若者らしくさっぱりしていて好きだから、こんなモヤモヤした気分の時に会えて本当はすごく嬉しかった。

 きのうのパーティで哲夫に言われた事が心に残っていたのだった。

 「紀江さん、昔の事はすべて忘れて出直したらいかがですか。あなたみたいに美人ならあなたさえその気になれば、男はいくらでも寄ってきます。私が十人でも二十人でも、あなたの気に入る人が見つかるまで、いい人を紹介しますよ。もうひと花咲かせて、あなたに幸せになってもらいたいんです。」哲夫の真剣なまなざしは心に響いた。

 「えぇ。」といつものように曖昧に返事をしたが、そのあとで

 「その気になったらお願いします。確かに私も生活を変えたくて・・・・・。習い事でも始めて外の世界に出ようという気にはなっているんです。」と続けた。

 ニコルも最近は少し年をとって元気がなくなっているのだ。目に目ヤニが溜まり、一日中しゃがんだまま動かない事もあった。自分にはまだまだ若さが残っている。待っていては何も起こらない。

 それに、年老いた尚蔵を見たのも決定的だった。もう昔の事にこだわっているのは自分だけではないのか、自分を不幸にしているのは自分ではないのか―――。犬ではなくてこれが自分の本当の子供だったらどんなに可愛いだろう。私だってまだまだ子供を産める年なのだ。ニコル、私はどうしたらいいの?何か言って、ニコル―――。

 

 

(第十三章)

 埠頭から見る人工島にはいくつものビルが建っている。ビルの谷間の広場には、回りを緑の樹木に囲まれてピラミッドの屋根が美しいオペラ劇場が空の青と木々の緑の中でそのハイテックなグレーを際立たせている。

 正美に逸馬、そして紀江の三人は、人工島へ乗り入れる前に車を埠頭に停めた。海風がちっぽけな人間の存在を笑う。アスファルトが埋め立て地一杯に広がっていて、車のない生身の人間の足は遅い。いくら歩いても目的地は前方に見えるだけでたどりつかない。埋め立て地では違う距離感覚、違う時間感覚が支配しているのだ。

 埠頭には「やまと丸」が繋がれていた。かっては日本有数の豪華遊覧船として活躍してきたが、老朽化は著しく数日前最後の航海を終え、廃船として解体される日を待っているのだ。褪せた赤のペンキが痛々しい。打ち棄てられた巨体が物も言わず静かに浮かんでいるのだった。

 入口には鍵がついていたが、逸馬が押すとドアは簡単にあいた。

 「正美、入ってみようぜ。」逸馬と正美は好奇心に輝いた目と目を確認し合った。

 「私もいくわよ。面白そうじゃない。」紀江が後ろから声をかける。

 「そう、そうこなくっちゃ。」恐る恐る体を滑り込ませた逸馬に、正美と紀江が続いた。かっては走る豪華ホテルと言われただけに、床には重厚な絨毯が敷きつめられている。低い天井の室内には香ぐさいにおいが滞留していた。三人は何段もの階段を一目散に駆け上がり甲板にたどり着いた。

 

 

 甲板ではまず潮風の洗礼を受けた。暗い船内から一遍に水平線に対峙させられる。しかし水平線だけではなかった。先客がいたのだ―――。

 

 

 「ワン、ワン、ワーン。」三人が驚いて振り返ると、そこには一人の中年男が犬の鳴きまねをしているのだった。

 「なんだ、あれが犬の正体か。」と正美。

 「博学な先生方にご挨拶申し上げます。」中年男は三人の方に向き直り一礼をし言葉を続けた。

 「ハッ、ハッ、ハッ・・・・・。耳をすましてごらんなさい。風が、風が震動しているのです。私は常に否定するところの霊なのです。それも当然の事、なぜといって、一切の生じ来るものは滅びる値打ちのものですからね。人間という馬鹿げた小宇宙は、通常自分を全体だと思いこんでいるのです。津波、暴風、地震、火事、いろいろやってみるけれど、結局、海も陸も元のままの平然としたもの。あの忌々しい人間ときたらどうにも手のつけようがなくて――。」

 五月だというのにその男は厚手のオーバーコートを着こみ、安ウイスキーの空瓶に囲まれて甲板にうずくまっているのだ。伸び放題の顎髯が精悍さを引き立てている。

 「海は滅びの臭いに充ちているのです。木は正直者。航海の果てに水にやられて朽ちてゆくのです。誰も逆らうことは出来ない。全ての物は朽ちていくのです。」

 「おい逸馬、なんだか気味の悪い中年男だな。どうする。」と小声で正美。

 「まぁいいじゃないの。面白そうだわ。たまにはオジさんの話も聞いてみましょう。」紀江が言った。

 「ただの酔っぱらいにしては妙に重たい事を言っているよね。」逸馬が答える。

 「創り出すことは古い物を破壊することです。ギリシャの哲学者は燃える蝋燭を見て、消える、消える、と言いました。人は死ぬために生きているのです。私には見えます。崩れてゆくコンクリートの塊りが、砕け落ちる窓ガラスの破片が、滑ってゆく地盤の液状化現象が―――。すべてはやがて忘れ去られ、廃てられていくのです。この船のように。ここいら一面、アスファルトの下をのぞいてみれば良いのです。みーんなゴミだ。ゴミで出来ているのです。「夢の島」と呼ばれ、ゴミが海を埋め立ててきたのです。何が夢だ、夢は滅びの象徴なのでしょう。厚いアスファルトにおおわれていても私には、ゴミの腐った臭いが嗅ぎ分けられます。地底に埋められたゴミたちが、少しずつ時間をかけて発酵し、人間に復讐しようと狙っているのです。気をつけた方がいいですよ。」中年男はウイスキーをラッパ飲みし、芝居がかった身ぶり手ぶりで語りかけてくるのだった。

 「おい、そこの日本人。驕っちゃあいけませんよ。あなた達の世界はまだまだ砂上の楼閣だ。」男は三人に向かって指をさした。

 「それに引きかえ、この琥珀色の真実よ。樽の中で炭の香りに抱かれて長い年月、ゆっくりと醸成され、お前はいい味になっている。お前だけが、今の私の友達だ。」

 そう言うと男は急に表情を緩め、三人に微笑みかけてきた。

 「さぁ、もう芝居ごっこはおしまいさ。ゲーテだよ。俺は酔っぱらってなんかいない。甲板から海を見ていただけさ。」

 「あなたはいったい誰ですか。」逸馬がたずねた。

 「俺はね、数日前までこの船の航海士をやっていたんだ。最後の航海が終わると同時にクビになって、今じゃ、ただの文学好きの中年男さ。ところで君たちは?。」

 「僕たちは、あそこに見えるオペラ劇場を見に来たんです。」正美が答える。

 「そうか、あのオペラ劇場か―――。」少し考えてから男はニヤっとした。

 「どうせこの船ももうすぐ廃船になる運命だ。あたりには都合のいいことに誰もいないし、この船を少しだけ動かしてみようか。あのオペラ劇場に近付けるかもしれない。」

 「そんな事が出来るんですか。」

 「さあ、もし燃料が残っていればね・・・・・。」男は船首の方へ歩いていった。正美が男の背中に言葉を投げかける。

 「どうしてこんな所にいるんですか?。」

 「あれをごらん。マストについたあの五角形のマークを。外へ向いている一つの角が消えかけているだろう。」男はちょっと振り向いてウインクしてみせた。

 

 

 「少し霧が出てきたみたいね。」紀江がつぶやいた。突然、ガーという音が続き、ウインチで錨が巻き上げられていった。そして機関室の方から轟音が聞こえ、船体がするすると前へ動き出した。

 「わぁ、本当に動いている。」逸馬が叫んだ。

 船はふらふらと海の中を漂い出した。オペラ劇場や人工島が少しずつ大きくなっていくような気がする。

 「おい、みんなで乾杯しようじゃないか。」正美はウイスキーの空瓶のキャップを三つ外し、男の残していったウイスキーを注いだ。

 「乾杯!。」と三人が声を合わせた瞬間、オペラ劇場の方から鳴りひびく鐘の音と復活祭の合唱が聞こえてきた。紀江は驚いてウイスキーのキャップを床に落とした。心が自然に澄んでくるような歌声。船が水を切り拓いていく水の音――。

 「わぁ、きれいだ。俺たちの夢――。」正美が声をあげる。霧にかすむオペラ劇場に燈りがともったのだ。暮れてゆく空、霧のたちこめる空気。井田豊の設計したオペラ劇場は、超伝導の力を借りてピラミッドの天井部分が回転するのだ。赤と黄色と緑のライトが劇場の三底辺から天井に照射されキラキラ光った。そして、光が霧に反射し、さながら光のファンタジーが繰り広げられていた。三人は立ち尽くすばかり。

 「きれいね。本当にきれいね。生まれてからきょうまで、こんなにきれいな物は見たことがないわ。」紀江の声が浮わずっている。

 「正美、俺はあの光を見ていて心の踏ん切りがついたような気がする。俺はこれから自分の心のおもむくまま自由に生きていくんだ。」

 「逸馬、それもいいだろう。でも俺はね、体の中に何か湧き上がる物を感じるんだ。たとえすべてが、あの男の言うように滅びていくのだとしても―――。壊れたらまたすぐ造ればいいのさ。俺は、この手で夢を進めていきたくなった。」正美の言葉に逸馬はもう一度、劇場の方を向いた。

 「本当にきれいだ―――。」ふり向く逸馬の耳が紀江の目に入る。耳たぶが大きくて耳が上下逆についているように見える。

 逸馬の大きな耳を見ながら紀江も心に決めた事があった。もし結婚して子供が出来たら女の子が出来るような予感がする。女の子だったら夢子という名をつけるんだと―――。紀江の心にずっと忘れていた熱い物が蘇えってきた。霧のスクリーンに映った三色の光が涙で滲んでわからなくなった。

 「SLOW(ゆっくり) AHEAD(進行)。前方障害物に注意して!。」正美が戯けた。

 

(了)