「3番目の人生」

3番目の人生」

 

香西 春明

(かさい しゅんみん/ はるあき)

 

「訪問者記入」と書かれたノートは、1週間誰もこの老人ホームを訪れた者がいないことを物語っている。ここでは家族や一族にうち捨てられた老人たちが「自然」の中で余生を全うする。ただ自然と言っても、日常的には開口部の大きく開いた窓から見えるだけの自然でしかなく、何ヶ月に一度行われる遠足のときに感じられる自然でしかない。外出許可は申請制であり、ほとんど申請されたことはない。認知症が進んだ多くの入居者たちをできるだけ効率的に多数収容するという考えでホームの仕組みは組み立てられている。それが入居者の経済的な負担を減らし入居者や家族のメリットになるのだと・・・。老人たちを喜ばせることも日々用意されているが、それはルーティーンの中で、すぐに形式的なものに堕してしまう。住居者募集のパンフレットに載せられることが目的にすり替わる。ここには、生きることに飽きてしまった老人と、仕事に追われ疲れきっている職員しかいない。元気な職員は、数ヶ月の激務の中で元気を吸い取られるか、元気を維持することに疲れ辞めていくしかないのだ。

 

サンライズという名前は、巣鴨プリズンの跡地に出来た摩天楼に付けられた池袋サンシャイン・シティという名前に似ている。米国アリゾナ州に建設された老人のユートピアの名前も「サンシティ」・・・・。太陽の光が降り注ぐ暖かな「イメージ」。

 

入り口のロビーには、熱帯魚の水槽が置かれている。本物ではなく作り物の熱帯魚。年中誰も手入れをする必要がない。そして入居者や職員は、それが何なのかさえ気がつかなくなる。毎日1日分の年を取ること以外、時間は繰り返されている。

 

ロビーの奥には食堂。食堂では静かな日常が時間を重ねている。食事をすることに飽きた老人。介助しながら笑顔を振りまくヘルパー。おとなしく従う老人。食べてくれない老人に苛立ちの言葉を呑み込むヘルパー。食事時は生きていくことの重さや辛さが凝縮されている。テレビがニュースを流している。時の首相が苦渋に満ちた顔で施政演説を行っている。大分前に、祖父に引き続き首相になった男がいたが、その引き際のあまりのまずさから暫くは年を取った首相をこの国は選択していた。そしてそれにも飽きて国民は、また若い男を首相にした。時は繰り返しながら進んでいく。二重螺旋の構造をなぞるかのように。

 

「ダメじゃないの、吉田さん」スプーンを投げつけてしまった認知症の老人に思わずヘルパーが声を上げる。他のヘルパーが片付けを手伝う。それで騒ぎは収まる。泣き顔も笑顔も、ここにはない。

 

気づいてみると、開け放たれた廊下の窓から、ほのかな風と共に外の世界の冬支度をしている匂いが運ばれてくる。

 

「介護の仕事が大変だってことは知っているよね」

「もちろんです。これまで結構辛い経験をしてきたので、大概の・・・何ていうか・・・苦難?、苦労は大丈夫だと思います」所長の質問に優人(ゆうと)は答える。

「この『語らせ士』という資格は一体何?」

「ああ、それは介護ヘルパー教育協会という、財団法人が認定している資格なんです。正確には記憶覚醒促進士とかいうんですけど、分かりにくいんで皆『語らせ士』って呼んでいます。老人たちに気持ちよく話をさせていい気持ちになってもらう。そのことによってボケが良くなってきたり、行動が積極的になってきたりするんです」

「ふーん、そうなんだ。民間の資格なんだね?」

「ええ、まだ創設されて1年にも満たないようようです。でも、資格を持っている自分が言うのもなんですが、凄く効果のあるやり方なんです。なるのも大変で、結構お金がかかるんです。理論よりもとにかく実地での訓練講習が中心の勉強で・・・」

「ネットカフェ難民だったという君が、よくそんな資格を取れたね・・・」

「そうなんです。全くの偶然というか、本当にある人との出会いがなければ、僕は今でも、そしてずっとネットカフェで暮らしていたと思うんです。本当に今思い出してもラッキーでした」

「正社員で採用されたことは一度もないんだよね?」

「はい。・・・・僕らの頃は就職氷河期って言われていて、僕みたいな地方出の三流大学卒では碌な仕事がなくて・・・・ちょっと選り好みをしている内に1年目を逃し、それから引きこもりみたいになって、就職の面接が怖くなり、そうこうしている内に親からの仕送りも途絶えて、食っていくためにコンビニのバイトやガードマンや肉体労働もやったんですけど、どれもきつくて長続きしないで・・・・。そうこうしているうちに、1ヶ月くらい風邪で寝たきりが続いているうちに貯金も底をついて、下宿を追い出されてしまい、あとは日雇いのバイトとネットカフェでの生活が続いていました。1回家がなくなってしまうと履歴書に住所もかけなくなってコンビニのバイトですら出来ないんです。もう本当に暗い、先の見えない日々を3年間位過ごしました。ネットカフェの連中ってあんまり話もしないけど、みんなネットカフェにあるシャワー使って見掛けはこざっぱりして『こんな生活も慣れてしまえばどうってことはない』みたいなことを言うけど、それは表向きのプライドであって、本当はその日暮らしで貯金もほとんどないし、何とか自分を律して生きているけど、辛くて、そういう気持ちも磨耗してしまってきて、どうしようもない気がしてくるんですよ。家賃の敷金を払うだけの貯金とか、保証人とかを探すとか、そんなことがとてつもなく高い壁に見えてきて、もう半分諦めてしまうわけです」

「でも、今は住むところもあるし、多少の貯金もあるんで、そうした生活からもう完全に抜けられたんです」

所長の山元は、優人の顔をじっと覗き込んだ。まあ、とにかく働かせてみよう、人手不足だし。「語らせ士」などという資格は聞いたことがなかったが、とりあえず目の前にいる青年は五体満足で力が強そうだし、少しおどおどしているが真っ直ぐな感じが好感が持てる。それにこの忙しい老人ホームに飽き飽きした身にとって知らない世界について話してくれるのは多少の刺激にはなる。昔はもっと介護と言うものに意義を感じていたのに・・・。

つい時間が経つのも忘れて身の上話に聞き入ってしまう。

 

「君よく見かけるね」それが市川が話しかけてきた最初のきっかけだった。

 

優人はいつものようにシャワーを浴びてネット上にあるゲームを始めようと思っていた。シャワーを浴びる前には、店員から「この前、PCに妙なものをインストールしなかったか」と言いがかりをつけられていた。否定はしたが、キレることもない。情緒が安定しているのは、ネットカフェ生活がもう3年にもなろうとしていることも原因している。誠実に生きることなんか何の意味もないと思いながら、そうせざるを得ない。僕はPCにプログラムをインストールしたって、必ず朝までにはデリートすることにしている。だから、言いがかりをつけられたって関係ないし、平気にしていられるのだ。

店員は犯人を特定しようとしてなおも攻撃してくる。オーナーに犯人を捜すようにでも言われているのだろう。反論する気も起こらない。戦いたくない。くだらない。これは自分の弱さかもしれないと、ふと思う。それでも構わない。自分は自分の城の中に住んでいるのだから。

 

市川は土日時々このネットカフェに夕方現れる。黒縁めがねの初老のオヤジ。場違いな男。PCを不器用そうに動かしながら周りを伺っていることを優人は感じている。

「フリーメールのやり方を教えてくれないか?30分位教えてくれれば小遣いくらいあげるよ」「お金をめぐんでもらおうなんて思ってないんで・・・・」

優人は聞かれるままにPCの扱い方を教える。最初は簡単なフリーメールの使い方。強引に渡されたのは2千円。会うたびに色んなことを聞かれた。ワード、エクセル、写真の保存の仕方・・・・。30分ごとにきっちり2千円。周りを気にしながら小声で言葉少なく教える優人に市川はいつしか「外で飯でも食いながら教えてくれよ」と言う。「きっと身よりもなく、友人もなく孤独なんだ」と優人は決めつける。ビールはお金のあるときしか飲まなかったのに、市川とは毎回のようにビールを飲む。深い話はない。腹一杯普通の店でご飯が食えればそれでOKだ。自分の身の上は1度話せばそれでおしまい、そんなに沢山の話があるわけではない。市川は自分については「去年定年を迎え、ただヒマにしているだけ」と言う。「子供もいないし、女房も既に亡くなった」と想定内のことを言う。この男にも孤独の影がある。何十年か前に、このオヤジが就職に失敗しネットカフェがあったらネットカフェ難民になっていたのだろうか?優人は自問する。誰もが落ち込む落とし穴なのか、それとも自分だけが弱いのか?田舎の母親が言っていた、「お前は幼稚園の頃から、嫌いな野菜は絶対に食べなかった。キャベツや小松菜みたいな食べやすい野菜を食べてればいいと開き直っていた」。その母親にも3年間連絡を取っていない。

 

ある日市川はにこにこして提案をする。真面目な顔をしている。「実はずっと前から・・・君がインストールの件で店員に言いがかりをつけられたのを見たときから君のことは気になっていたんだ」。市川の眼は、左が二重で右が一重であることを優人は既に気づいている。きょうは二重の優しい眼の方が光っている。いつもは右眼の寂しげな一重が勝っていることの方が多いのに・・・・。

 

優人は市川の提案どおり、ネットカフェを出て下宿に住むことにする。敷金礼金を「貸してくれる」という言葉が気を軽くさせる。「出世払い」というのは良い言葉だと思う。立派になることを願ってお金を出してくれるのだから。それに中古のPCを買うお金も「貸して」くれる。「君も早く日雇いでない仕事をみつけなくっちゃ」と市川は上機嫌で言う。最初に会った日からちょうど3ヶ月が経っている。これまでに10回は飯を奢ってもらっている。この先どうなるかわからないが、とりあえず「人に喜んでもらえるのは、嬉しいことなんだよ。ひたむきな人間が俺は好きだ」と言う市川の言葉をそのまま受け入れることにする。「俺も弱い人間で、いくつも嫌な目を見てきた。だから弱い人間が好きなんだ」といういつかの市川の嘆息のことを思い出しながら。騙されたって失うものはないのだから。

 

「これでもうネットカフェともお別れだ」

その日優人はカフェの自分の指定席とも言うべきPCの画面や側面を綺麗に拭いてやる。出口から道に出ても、振り返らない。そのまま大きなショルダーをコインロッカーから出して下宿に向かう。

畳の上に仰向けになって天井のくすんだ模様を見て優人は涙が止まらなくなる。涙は目尻から下に垂れ、畳を濡らす。畳に寝られる幸せをこの国の人間は忘れているのではないかと思う。母親に連絡できる日が来る日のことを考えて眠りにつく。

 

優人は今では下宿代を何とか払いながらビデオのレンタルショップでバイト生活を送っている。日雇いに比べペイは良い。何よりも明日は仕事があるのかと不安になることがないのが嬉しい。少しの進歩が将来の希望を育んでくれる。人間はほんの少しでも希望があるうちは楽しく生きられる。

市川からは時々フリーメールが届く。もう「一緒に飯を食おう」とも言ってこない。ただ思い出したように正社員の仕事を紹介するメールが届く。「次は正社員だよ」市川は自分のことのように語る。しかし、どの仕事も難しすぎるような気がする。市川は僕のことを買いかぶりすぎているのかもしれない。まともな職業訓練をされたこともない。大学を出てからもう随分長い時間が過ぎている。負け犬根性が染み付いている。細く、ずるく生きることばかり上手になっている。定年退職を全うしたオヤジに俺の不安はわからない。

 

介護の仕事は5番目の市川の紹介メールにあった。「体力があれば、人手不足でとにかく採用される。人にも感謝される」という言葉に久しぶりに胸が躍る。自分のこと以外の他者にどう思われるかなんて何年も考えていなかったのだから。急に世間の同じ年の若者と同じ地平に立ったような気分になる。「市川さん、やってみようかなと思います」素直に優人はメールを返信する。

 

「語らせ士」について教えてくれたのも市川だ。授業料の15万円も市川が「貸して」くれた。市川は「3040万円なんて大人が本気になれば1年で貯金できる金額だよ。そんなのは大きく出世した将来のことでいいんだよ」とメールしてくる。「ただ、厳しいらしいから途中で断念するのは、絶対になしだ」と釘を刺される。優人は、ネットカフェで市川に最後に会った日に、にこにこ笑う顔が急に引き締まったことを覚えている。引き締まったあとで、思い直したようにまた笑顔に戻った。一重の眼は笑っていなかったけど。

 

介護ヘルパー教育協会は四谷にある。住宅街の中のマンションの1室が事務所。「語らせ士」はアメリカにある最先端の介護理論に裏付けられているという。気持ちよく話をすることが認知症治療に目覚しい効果を及ぼすという。笑わせることと語らせることによって脳は本来の機能を思い出していくという。講習では、ひたすら語らせるためのキーワードを覚える。老人のタイプ別の乗せ方、笑わせ方を繰り返し演習する。2ヶ月30回の講習期間の後半15回は、老人ホームへ行っての実地演習。最初は心を開かないお年寄りたちも、元気の良い若者の声や話やゲームや楽器に、直ぐに馴染んでいく。向き合ってくれる経験を思い出させてくれるだけで心は一歩先を行く。「語らせ士」のノウハウは素直である老人たちには効き目がある。自分の半生を語る老人たちの涙は、老人たちを若返らせる。思い出すエピソードは老人たちを若返らせさせる。蘇る怒りや悲しみは、老人たちの日々に意味を思い出させてくれる。思い出した記憶は、語らせ士が丁寧に専用のノートに記録し、それを繰り返し老人に音読させる。音読が記憶をさらに深く覚醒させ、脳への刺激は増幅される。

 

 

「今度の新人は、もしかしたら長続きするかもしれないな」所長の山元が言う。

看護師の杏奈も頷く。「私たちと違ってヘルパーさんはあれもこれもやらなければならないでしょ、でも彼は真面目ですよね」

「普通はまず介護福祉士の資格を取ろうとするのに、彼は『語らせ士』という変った資格を先に取ってきてるよね。結構面白い奴かもしれないな」

「そうですね。お年寄りの前では、いつも笑顔を作ろうとしているようですよ。まだまだ自然にはいかないようですけどね」

「杏奈ちゃんと優人、同じ年じゃなかったかな?」

「そう・・・でしたかね」少しドキマギして杏奈が答える。

「介護士もヘルパーも、男は手っ取り早い職の一つとしか考えていない。それだけじゃ務まらない商売なんだけどね。高邁な考えを持った女も相当に体が丈夫じゃないと勤まらない。庶民に手の届く料金での介護サービス、ということになるとやむを得ないんだけどねぇ」自嘲気味に山元が呟く。山元自身、体は相当にガタが来ている。短期でホームを転勤させられる会社の方針にも辟易している。

 

 1ヶ月を過ぎたある日、優人は山元に「語らせ療法」を始めたいと申し出る。1週間に一人、対象を決め1時間マンツーマンで語らせる。各人にノートを配布し、決められた手順で話を聞いていく。急がせてはならない。老人のプライドを徐々に刺激しながら、キーワードや核心となる記憶を探していく。笑わせることと語らせることのバランスが重要だ。否定の言葉は全てをぶち壊しにする。その老人とその老人の人生を心からrespectし、教えを請うような姿勢を取るのが難しい。優人は、何度も壁にぶつかりながら、そのたびに語らせ士の指導教官の真面目な眼差しを思い出す。それは自分の辛く長かった経験に繋がっていく。語らせ士は、人に語らせながら、自分の過去を語っている。そのオーバーラップした記憶、蘇る過去を丹念にノートに記録している。そのノートに書き込む量が、老人の脳の働くスペースの大きさ押し広げていくように。

 

 いつしか、優人の周りに老人たちが集まってくるようになる。過去を話したがらなかった老人たちが優人の前では堰を切ったように過去を語るようになる。今は家族に捨てられた90歳の爺さんが、昔は工場長として颯爽と工場を率いていた。85歳の婆さんが、若い頃二股愛に困惑していた。70歳の認知症と認定された双子の婆さんが昔芸能界に身をおいていたことを語る。今まで過去を隠していた人々が過去の顔を取り戻す。但し、優人は戒めを忘れない。過去が一人歩きして威張りだす爺さんや、欲ボケで所内の秩序が乱れることを。語らせ士は、語らせることの弊害についても配慮をしなくてはいけない。

 

 「一人だけ、成果が出ない人がいるんですよ。風戸幸夫さんというまだ60歳の壮年なんですが、アルツハイマーが進んでいて、語らせ療法も効果が出ません。アルツハイマーでも語らせ療法はある程度効果が出ることが証明されているのに、全く心を閉ざしています。本当にこれが60歳なのかと思われるほど、老けていて歩き方もヨボヨボしていて、日によっては車椅子でないと動かすのが困難だったりするんです・・・」

 「そうか。まあ、焦らないことだよ。人にはそれぞれ都合やペースがある。きっと手がかりは見つかるさ」優人のメールに市川が応える。千葉の奥にあるサンライズに就職し遠く離れてしまった二人はもう会うことはない。でも時々優人はメールを送る。それが市川に嬉しいことだと優人は感じているから。自分の様子を市川は知りたがっているように優人には思える。もちろん感謝の気持ちでもあるし、メールは借りているお金の利子みたいなものでもある。

 

 幸夫には誰も尋ねてきたことがない。遠い親族から頼まれた東京の弁護士が成年後見人を務め介護給付から月々の入所費用を支払っている。身寄りがないこの男にどんな過去があったのかは誰も知らない。アルツハイマーになってしまってからのことは誰の記憶にも残っていないのかもしれない。アルツハイマー性痴呆は、病理学的には脳組織の萎縮、大脳皮質の老人斑などを伴う痴呆性疾患の一種である。幸夫の症状は既にかなり進行しており、末期に近い小刻み歩行や前傾姿勢などの運動障害に加え、被害妄想や幻覚も現れだしている。足が不自由なので走り回ったり徘徊したりはしないが、ヨチヨチ歩きで隣のお婆さんの部屋に入り込んでしまったりするため、数ヶ月前から、他の階には行けない地下階の部屋に移されている。少し悲しい、夜這い。狭いスペースを行ったり来たりしながら奇声を上げる幸夫は、なぜか自分の部屋にかけられた「風戸幸夫」と書いてあるプレートに「ドンドン」と左手をぶち当てる。サンライズのエレベーターは、細い棒状の鍵を入れないとエレベーターに乗れない仕組みになっている。幸夫には鍵が渡されていない。

 

手も足も不自由なので今は問題ないが、もしも手足が動くならどこかに縛り付けておかなければならないだろう。「そうでなくて、良かった」と優人は思う。老人でも自由を束縛するのは性に合わないのだ。

 

幸夫には大した所持品はないが、額に入れられた絵が一枚部屋に飾られている。絵は白を基調とした民家の風景画で、Kazatoとローマ字のサインがされている。時々記憶の戻るときに「トレド」という言葉を発したのを優人は聞いたことがある。絵は堂々とした油絵。幸夫が書いたのであれば、それなりの絵心があったことを示している。あるとき一人のヘルパーが額を壁からはずして見ようとしたとき幸夫は大きな声をあげてやめさせようとした。そのあとも大事な子供を抱くように寝るまでその絵をずっと抱きしめていたという。

 

ホームの中は凄い勢いで変りだした。

優人のお陰で老人たちに笑いが蘇ってきている。重い認知症のK川さんが過去を思い出した。「しじみの味噌汁を食べたい」入所以来初めて食事に注文を出す。ヘルパーが驚く。今までのようにいい加減な介護では見透かされてしまうような気がして、介護に心を入れる。夜になるといつも5分ごとに「ヘルパーさん、ヘルパーさん、おしっこ」とヘルパーコールを呼びっぱなしで、皆を辟易させていたO田さんがスヤスヤと寝ている。静まり返っていた施設全体に一本筋が通ってくるような感じがする。他の介護士やヘルパーたちも優人のやり方を学びたいと申し出る。優人も、今の運動が施設全体に広がることを期待して、話の聞き方を教える。これまでどこの職場でも馴染めず最後に介護施設のたどりついたような若者たちも、その素晴らしい効果に驚き、優人の指示に忠実に従う。

 

杏奈の優人を見る目も、それまでの好奇の目から、あこがれに似た目に変る。「優人君、今度食事にでも連れて行ってよ」杏奈がそっと優人に言う。「えぇ、僕でいいんですか?」優人が応える。しかし、優人には女性と交際した経験がないので、誘い方ですら良くわからない。わからないことの中で何も出来ないでいる。わかればわかるだけ、わからくなってくる。

 

「市川さん、ホーム全体が凄く良く変ってきました。語らせ療法がこんなに効き目があるなんて正直驚きです。特に、笑いの中で実践していることが成功の原因かもしれません。僕も自分なりに工夫したくって、この前テレビで見た、笑わせて笑顔で歌を歌わせる介護法も一緒に取り入れるようにしています。但し、上手くいけばいくだけ、例の幸夫さんのことなんだけど、一体どうしたらいいのか僕にはわからなくなります。アルツハイマーだって、語らせ療法で少しは効き目があるはずなのに、あの人だけは心を頑なに閉ざしているんです。アルツハイマーが原因ではなくて、あの人の性格が問題なんだと思います。それとも今まで本当に悲しい経験をしてしまったのかもしれませんね。ああいう人の前だと僕もすっかり自信をなくしてしまいます。どうしていいかわからないんです」

 

何とか考えよう、という市川の約束は、数週間後に実現する。治験の対象者を募集するメールが転送されてくる。新薬開発のために患者自身が実験台になるのだ。市川は、この会社の薬は信用がおけそうだと言う。優人は所長に相談を持ちかける。成年後見人にも話をし、半年を期限とするとうことでOKのサインが出る。

珍しく降った雪がようやく溶け出したその日、治験が始まる。幸夫は薬を吐き出してしまう。だからアルツハイマー薬としては名高いアリセプトも飲まなかった。元々治療薬というより痴呆の進行を遅らせることしかできない薬ではあるのだが・・・・。優人は新たな考えを実行する。

 

幸夫の好きなプリンは、これからは朝晩出されることになった。エスペラント語の希望と言う言葉から取られた顆粒薬エスペラートンが必ずプリンには混ぜられている。プリンの回数が増えたことに幸夫は気づかない。

 

「優人さん、薬、効くといいね」

「ああ。実は僕は凄く不安なんだ。効かなかったらどうしよう、とか、あるいは逆効果で症状が急に悪化したらどうしよう、とか。生まれつき心配性のところがあるんで・・・」

杏奈は、優人のことを壊れ物のような人だと思う。支えてあげようとも思う。あんなに頑張っているんだから。去年までネットカフェ難民だったなんて信じられないような、仕事のできるような男だけど、でもやっぱり自分の結婚相手には向かないと思う。無理に食事に誘うことは止める。でも、彼のやっていることはサポートしてあげたいと思う。自分だって銀行の一般職の仕事を辞めて看護の勉強をゼロから始め、こんなことをしているのだから・・・。老人ホームの職員で、悪い人はいないと思う。ただ、悲しいことに、良い人ほど続けられないものなのだ。

 

投薬が始まって3日が過ぎる。

1週間が過ぎる。何も起こらない。

2週間が過ぎる・・・・。

 

いつものように、優人が幸夫の部屋で質問した。「幸夫さん、プリンを最初に食べたのはいつでしたっけね。美味しかったですよね・・・・」

その時、「クレ、クレヨン。クレヨン。赤、青、黄色、緑・・・・」と呻くような声がする。「風戸さん、クレヨンですね」優人は直ぐに事務所へ走る。「杏奈さん、クレヨンないかな?」「集会所の本棚の上にあるわよ」。優人は走る。クレヨンはほとんど誰にも使われずに新品同様にそこにある。「紙を調達しなくっちゃ」優人は一目散に地下の幸夫の部屋に帰る。幸夫は夢見るような目つきで右手を動かしている。背筋が伸びている。青のクレヨンを握らす。幸夫は、白いA4の紙に何やら線を引き出す。何の線なのかは誰にもわからない。青に飽きると赤のクレヨンで線を引き出す。縦に線を10本ほど描いたところで疲れて眠りだす。信じられない光景に優人は立ち尽くす。毎日涎を垂らし、眼をとろんとさせていた老人がすっと前を向いてクレヨンで線を引いた。その場に立ち会ったことを無性に誰かに報告せざるをえない気になる。優人の中では、杏奈のことがまず浮かぶ。そして、市川にも知らせないといけないと思う。

 

市川の変化が急に起こったのと並行して、他の老人たちの語らせ療法の効果が静かに少しずつホームの空気を変えていった。幸夫だけの運動が介護士、ヘルパー全体の運動に移りだしている。元々、そんなにノウハウのある療法ではない。ただただ愚直に話を聞き、聞いた内容をきっかけに話を作り、尋ね、ノートに記録する、音読する、そして老人にも音読させ、それを誉める。誉めて誉めて誉めちぎる。嬉しそうに笑う老人をまた誉める・・・・。老人たちは毎日1日ずつ年を取り、そして療法のお陰で毎日2日ずつ若返る。この先どういうことになるのか、優人ですら想像がつかなかった。

 

一方、エスペラートンの効果は正に劇的、夢をみているようだった。

 

「市川さん、正直言ってエスペラートンは凄いです。あんなにボケの進んでいた幸夫さんが本当に急に元気になりました。投薬開始後3週間で、油絵を描いています。市の教養講座で教えている芸大の先生が企画したツアーで教え子、というか老人ばかりでトレドに写生に行ったことを話してくれました。まだちょっと言葉が思い出せないところがありますが、絵の腕前は相当なものです。歩くスピードも早くなりました。部屋を地階から普通の2階に移しました。他の入居者の方々にも良い影響を与えています・・・・」

 

優人は、廊下の窓から外を見つめている。突然、ここに来て数ヶ月ずっとまともに休みを取っていないことを思い出す。そして、ネットカフェにいたときも、考えてみれば休みなどなかったことを思い出して、不思議な気になる。休みなんか取りたいと思わずにがむしゃらに過ごしてきたこの数ヶ月の歳月を思い返す。休みを取りたくなるなんて、本当に幸せに働いていることなのだと思う。夢のように物事が好転していき、その度ごとに苦難があり、慎重に考え行動し、今が存在する。

 

老人たちの表情に明るさが出てきた。職員の言葉に反応して笑顔を作る。それに伴い驚くべきことも起こる。離職率の高かったヘルパーや介護士がほとんど辞めずに働き続けている。決して労働時間そのものが短く、楽になったわけではない。むしろ、老人が元気になったがために頼まれることも多くなっている。なのに、職員たちの表情にも余裕が出ている。職員たちも職員同士で飲みに行ったりする機会が出来てくる。彼女、彼らも酔っ払うと自分の過去をしゃべりたくなる。老人たちの、過去を話したあとの晴れ晴れとした表情、涙がそうさせる。

 

更に1ヶ月が経って幸夫のアルツハイマーは、もうそれとはわからないほどに改善している。窓の外には春の息吹が見えている。今年の梅は例年より早く花をつけるのだろう。花は人の目を楽しませる。花が枯れれば実をつけ、実は種になるのだろう。植物には終わりがない。

幸夫はホーム内絵画教室を始める。全く経験のない老人たちに、絵筆の握り方から教える。教える人間は、さらに前に進むことが出来る。幸夫の顔の色艶も健常者と変らないくらいになる。老け切った印象が、年齢に相応した精悍な壮年のものに近づいている。一人だけ年齢が若く壮健な幸夫に女性の入居者が色目を使いだす。幸夫は取り合わない。しかし、女性が男を感じ出すと場の雰囲気が変る。華やかになる。

 

過去のことはしゃべりたくないんだと、頑なに語らせ療法を拒んでいた幸夫が、優人にだけは心を開くようになる。優人に言われて過去の出来事を鉛筆で書き記す。文章は凄い勢いで溜まりだす。優人は、ここぞとばかりに語らせ士として幸夫に水を向ける。

それからというもの、1週間優人の夜の時間は幸夫との対話だけで過ぎてしまう。幸夫はバケツに入りきれずこぼれずにはいられない思い出を仔細に吐き出す。吐き出すたびにアルツハイマーの症状は消えていく。それと引き換えに言葉を獲得していく。幸夫は喋りながら「このノートは誰かに見られることになるかもしれないんだね」と呟く。

幸夫の過去を記したノートは3冊にまで増殖している。幸せと哀しみが3冊のノートに溢れている。内容を知っているのは、優人と幸夫だけ。話を始めた最初の約束どおりに。

優人は、幸夫の半生の深さと振幅の大きさに深いため息をつく。ドラマチックという表現がぴったりだな、と優人は思う。幸夫の哀しみに比べたら自分の体験など取るに足りないと思う。自分が老人になったときにどんな過去を語れるのだろうか。

 

ホームへ来てから初めて、優人は休みを取った。2駅離れたターミナル駅にあるデパートで杏奈と落ち合う。ケーキセットを食べながら杏奈が一つ年上であることを知る。「私に語らせ療法みたいな聞き方しないでよ。こんな年になっているんだから、私だってこれまで恋の一つや二つはしているに決まっているじゃない」笑いながら話す杏奈の言葉に優人はぞくっとした。若い女性と二人きりでゆっくり話したのは大学以来のことかもしれないと。いや、そうではないのかもしれない、でも思い出せないくらい前のことではあるはずだ。その日、優人は自分からは何をしていいのかわからず、結局杏奈のいうがままになった。優人にとっては杏奈が喜んでくれるだけで嬉しかった。

 

その日は突然やってきた。

治験中止の連絡が製薬会社から入ったのだ。

その通知はあっけなく、事務的な形で行われる。会社の人間が説明に現れる。エスペラートンの副作用として脳卒中のリスクを飛躍的に高めてしまうことが挙げられた。3ヶ月以上の使用でかなりの確率、それから6ヶ月にかけて確率は急カーブで上昇する。他の場所での治験で、副作用を緩和させる様々な試みが行われたが実効性がない。もうこれ以上治験を続けるのは危険という製薬会社の判断だった。

優人は珍しく感情的になって「こんなに良くなっているんだから、ここでだけは使わせてくれないか」「例え寿命を縮めても本人が使いたければ使えばいいではないですか」「あと1月でいいからなんとかならないですか・・・」懸命に食い下がる。幸夫の涎を垂らした姿は見たくない。その一心で訴え続ける。製薬会社の担当者は首を振り続ける。「出来ないものは出来ないんです」。一瞬の静寂が部屋を支配する。

それでお終い。

薬を投与することはもうできないのだ。

 

優人は暫く食事を摂ることが出来ない。ショックで元気がない。死神のような顔つきをしていると杏奈にからかわれる。反論できない。幸夫には所長から説明してもらう。優人は何と言ってよいのか検討がつかない。同席もできない。怖い。

所長は幸夫に直接事態について話しをする。幸夫はじっと黙って話を聞いていて、『そうですか』と一言いって、直ぐに一枚の絵を描き出した。

優人は幸夫の部屋に行くことに躊躇する。もしかしたら、一度開いた門はずっと開いてくれるのではないか、優人は思い込もうとする。自分の語らせ療法で、今の幸夫の状況がもしかしたら保てるかもしれない、と思いこもおうとする。

幸夫は大人の女性のポートレートを描きかけている。これまで風景画や静物画しかかかなかったのに。それもマンガチックなデフォルメの効いた平面的な絵。優人には謎のように思えた。

 

劇的な回復の結末は劇的な症状の悪化。坂を転げ落ちる。幸夫の痴呆はもの凄い勢いで進行する。回復の何倍ものスピードで。良いことは少しずつ築きあげるもの、そしてそれが崩れるのは一瞬だ。神は不公平だと優人は思う。あんまりしょげ返っている優人を見て、杏奈は、良くなるのに時間がかかるのは、改善していく過程をじっくり味あわせてくれるのよ、と慰める。しかし優人は納得できない。

 

幸夫の記憶は、戻ったり戻らなかったりする。もう歩けない。投薬前には少し歩けたのに。ほとんど昼も夜も眠ることが多くなる。時々目覚める、ただそれだけ。

 

「も、もう駄目だね。ぼ、ぼくは」

「もうすぐ桜も咲きますよ、幸夫さん」

「ふーん。桜?君誰?」

「優人ですよ」

「あっはー、どこのおにいさんかと思った。遊び人のおにいさん・・・・」

苦笑いして優人が尋ねる。「今の季節はわかりますか?」

にやにやしながら幸夫は答える。「ん、季節?わからない」

目は死んでいる。でも、きっとこの人は幸せなのだ。寝ているときも笑うときがある。「幸夫さん、きょうのシャツ格好良いですね」ととにかく誉めると、わからなくても嬉しそうな顔をする。家族のいないアルツハイマー患者自身ほど幸せな者はいないのではないかと優人はふと思いつく。

テレビで録画したテレビ番組を見せる。印象派の絵と、画家たちの一生を描いたドキュメンタリー。幸夫の好きだったモネの睡蓮を見せる。「モネです。睡蓮ですよ」。幸夫の目にかすかに生気が戻る。「モネ・・・・。睡蓮・・・・」。ルノアールの人物画。ピアノを弾く二人の娘。「ルノアールですよ」。「?ルノアール?。ああ、ルノアール」。幸夫は複雑な顔をする。

突然「会いたい」幸夫の口から搾り出すように希望がこぼれる。

「誰にですか。幸夫さん」

「アドレス。アドレス。絵の中に写真。写真だ。あーあ・・・すまない、すまない、すまなかった」

 

優人は、幸夫の部屋に飾られてあるトレドの絵の額縁を空ける。中には写真が1枚入ってる。美しい紅葉に囲まれて、幸夫と女の人が楽しそうに写っている。50歳くらいだろうか。微笑みかけた清楚な奥様のような写真。写真の裏にはメールアドレスが記入されている。優人は、合点がいく。語らせ療法で記入したノートにある美智子の名前が浮かぶ。「美智子さんですか?」「そう・・・美智子」。苦しそうな幸夫の顔が少し穏やかになる。「会いたいんですね」。幸夫は「うーん」と頷き、涙を溜める。

 

優人はふと考える。幸夫がただ1枚描いた女性の肖像画。あれと、この写真には似ているところがない。マンガチックな30歳くらいの肖像画と、奥様然とした50歳くらいの写真。娘はいないはずだし・・・・。またもや謎。

 

いずれにせよ優人は迅速にことを運ばなくてはいけないと思う。意識のあるうちに美智子にメールを打ってホームへ来てもらわなければならない。幸夫さんが自分から切り出して離婚したという美智子さんに。

 

ホームの中では幸夫のことが話題になっている。「まあ、可哀想に」と意識のしっかりしている老人たちはそっと語り合う。そしてもう一つ最近のホームでの話題は鼠。一人のお婆さんが夜に鼠を見たというのだ。真偽のほどは定かではない。それ以来鼠の姿を見た者は誰もいない。

 

美智子はホームに来ることに同意しない。理由を聞いても返信メールには、理由はどうでもいいと書いてあるばかり。何度かやりとりをするうちに、幸夫の痴呆症状はさらに転がるように悪化する。もうほとんど物事がわからなくなる頃にようやくホームへの来所が決まる。治験と語らせ療法によってノートに過去が記されたということを書いて、ようやく来ることとなった。

 

優人はもしかして、美智子の顔を見て、幸夫の症状が改善するのでは、と淡い希望を持つ。桜は既に散ってしまっている。

 

美智子が来所する日。優人は落ち着かない。杏奈もそんな優人を見ていて同じ気持ちになる。会えたからと言って、何になるのか。それでも「会いたい」と言った幸夫に報いてあげたかった。正直、奥さんがどんな人かと言う興味もないではなかった。ただ、思い出のノートに書いてあることが現実とダブってくることの底知れない怖さもある。

 

「えっ、そんな馬鹿な・・・」

言葉にならない言葉を優人は発する。

介添者に連れられて現れた美智子は、30歳位の若い女性であった。写真の女性には全く似ていない。

そしてもっと驚いたことに彼女は車椅子に乗り、体中に管を巻かれている。首が横に傾いている。

 

美智子は筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っていた。ALSと言われても、ホーキング博士が罹患していることぐらいしか優人には知識がない。優人は頭の中が真っ白になる。

美智子には人口呼吸器が装着されており、声は既に失われている。目の動きでPCを操作し、メールを打つ。メールの文章は音声読取器で言葉に変換される。

 

車椅子に乗せられて涎を垂らしながら目を閉じている幸夫と、現れた車椅子の美智子が対峙する。

 

「もう3年も経ちました」美智子のPCから金属的な音が発せられる。

幸夫は何も反応しない。既に言葉に反応する段階を超えてしまっている。ほとんど昏睡状態が前日から続いている。「もっと早く来てくだされば、もう少し元気な姿を見ていただけたんですけれど」冷静な杏奈はさりげなく言う。

「こうしてわからなくなってから会った方が良かったかもしれません」美智子はゆっくり言葉を重ねた。

 

「ノートを見せていただけないでしょうか?」

「は、はい」優人は我に返って答える。

 

幸夫の人生は、山谷のある起伏に富んだもの。大概の人間がそうであるように。

 

45歳までの前半生はいたって平凡々だった。子供には恵まれなかったけれど奥さんと二人きりの人生をエンジョイしていた。学生の頃から絵心はあったけれど、絵を描きたい気持ちを封印して、大手のフィルムメーカーのマーケティング担当として世界中に営業拠点を開設した。アフリカや中南米にも進出して日本製のフィルムを売って歩いた。デジタルカメラに移行してフィルムが売れなくなってからは、今度はデジカメや精密機械を世界に輸出する仕事に打ち込む・・・・そんな日本のビジネス戦士としての日常。優人には新鮮だが、どこにでもあるありきたりの日常。見込まれて翔いた若き日、そして必ずある挫折、中年期の倦怠。パノラマのように時間は蘇り、今に続く。

45歳で展開が変る。倦怠期を起承転結の承とすれば、物語には必ず転が来る。幸夫の場合は45歳に一度目の転職がそれにあたった。それからは坂を転がるような加速度のついたビジネスマンライフ。

一度目の転職は外資系の機械系輸出商社のマーケティング責任者だった。「やりがいのある人生に賭けてみませんか」というヘッドハンターの熱心な誘いに心が動いた。子供がいなくてそろそろマンネリ気味の生活を変えたい気持ちが強かった。その外資では結局100人の会社の副社長にまで上りつめたが、タイトルが上になればなるだけ仕事は大変になりリスクも飛躍的に拡大する。

90年代の折からの不況にぶちあたりリストラクチャリングの憂き目に遭う。でも生来楽観主義の幸夫はメゲない。奥さんもサポートしてくれる。しかし浪人生活は半年続く。役員には失業保険は出ない。失業生活が長くなると、スーツを着ていない自分が恥ずかしくなる。電車の中で疲れて夕刊新聞を読んでいるサラリーマン丸出しの人間が羨ましくなる。一日1通も来ないEメールが無性に寂しくなりそこら中のメーリングリストに登録する。最初はサポートしてくれた奥さんも疑心暗鬼になる。「やっぱり転職しなければ良かった」。女は現実主義だ。男は永久に夢を見られる。

本当は大手に再就職したい気持ちもあったが結局ベンチャー企業に転職する。外資でぐっと増えた給料もベンチャーでは激減する。でも本人は凄く満足していた。全てを一から立ち上げる快感、物凄いスピードで処理されていく仕事。当初20人ほどの小さな会社が50人になり、皆熱病に冒されるように働いた。土日もメールで仕事を回し合い、夏休みも年末年始もなくなった。帰りの遅い幸夫に奥さんは不満を言えない。日々は過ぎる。

しかし、ベンチャー企業は一度歯車が狂いだすと修正が難しい。競争相手の新製品に市場が食い荒らされ、収益が減ってくると人間関係が微妙になる。CEOの独断専行と自分の立ち位置が上手く保てなくなる。退職。

その頃から物忘れが激しくなり、医者に駆け込んで「若年性アルツハイマー」と診断され一旦治療に専念することにした。医者から進められて絵を描くことを始め、暫く絵を描いて日々を過ごす。「自分の人生は楽しかった。転職して良かった。それまでに味わうことの出来なかったことを沢山、本当に沢山味わうことが出来たんだよ。だから悔いのない人生なんだ」何度も何度も幸夫は繰り返した。

 

「奥さんとはどうなったとか、言っていましたか?」

優人は「奥さん」という言葉が美智子から発せられたことに違和感を感じながら、「いいえ、何も」と答える。

 

「本当は、ベンチャーを退職してアルツハイマーと診断された頃に奥さんと離婚したんです。本当はと言うか、リアルライフの中では」優人には「リアルライフ」という言葉にも同じく違和感を感じる。美智子が続ける。優人には全く合点がいかない。美智子の話は続く。PCからの音声は無機質で人の匂いがしない。

「その頃なんです。私と出会ったのは」

「ということは、前の奥さんとは離婚して、アルツハイマーの療養中に再婚したということですか?だから幸夫さんの話に出てくる『美智子さんとの楽しい日々』ってのは仕事を辞めてからということなんですね」

「はい私と幸夫さんは結婚しました。でもそれは『2番目の人生』の中のことなんです」

 

きょとんとした一同に美智子が畳み掛ける。

「ウェッブ上の仮想世界のことですよ。当時『セカンドライフ』というウェッブ上のサービスアメリカから入って来て評判になったけど、日本だけのちょっと違った仮想世界として『2番目の人生』のサービスがスタートしたんです」

2番目の人生では、大概リアルライフと同じ名前を名乗ります。それで、各自が自分の状況を定義して、仮想世界の中で経験したり、他の人と交流するんです。ビジネスよりも仮想世界での交際の方にに重きがあったように思います。私のようにリアルライフは何も出来ない人間は、2番目の人生で空も飛べるし、美味しいものも食べられるし、陸上選手になって世界記録に挑戦することだってできるんです。仮想世界の中には色々なサービスがあってリアルライフに負けないようなことができます。結婚式を挙げることもできるし、旅行も出来る。体の動かない人間は皆2番目の人生で自由なことをやりました。幸夫さんもそうだったと思います。若年性のアルツハイマーの初期症状の中で途方に暮れて2番目の人生に入ってきた。病気持ちで先に大きな不安を持つもの同志、二人は急速に親密になったんです。もちろん、仮想世界の中でですけどね」

「ある時私、彼に提案したんです。リアルライフのことは忘れて、これから二人の関係はこうしようって。あなたは今のあなたの年で若年性のアルツハイマーで寝たきりになる。私はあなたと同じ年になってあなたと結婚してあなたを介護することにする。あなたはアルツハイマーが悪化した将来をシミュレーションしながら一人の女性に守られた仮想生活を送る。そして私は、介護されなきゃ何も出来ない今のリアルライフとの裏側に、私の介助を必要とする夫を持つことにする、ってね」

「彼は最初は嫌がっていたんです。そりゃそうですよね。リアルライフもアルツハイマーへの怖れ、そして仮想世界でも同様・・・っていうんじゃ息も抜けませんよね。でも最後には、私の我侭を聞いてくれました。私は、その頃人口呼吸器を付けるために声を失ってむしゃくしゃしていたのかもしれません。ちょっと残酷な気持ちだったのかもしれないと今は思います」

ここまで話して、美智子は遠くを見つめる。消耗した体力のことを考え、失った過去のことを考え、変わり果てた幸夫の姿を見つめている。優人も、所長も、杏奈も、介助の女性も、誰も言葉をかけられる人間はいない。

 

3分位の沈黙が過ぎた頃、また美智子が声を出す。

2番目の人生での二人の夫婦生活、介護生活は私にとっては、それはそれは満ち足りたものでした。ウェッブ上での医者通い、投薬、近くの公園での散歩・・・二人で時間をたくさん共有しました。互いを慈しみあいながら。幸夫さんは、こんな結婚生活が理想だったんだと言ってくれました。別に遠いところに行かなくても、もちろん2番目の人生でなら遠いところにも行けたのに、私たちは二人の時間を共有するだけで満ち足りていました。私は結婚の経験がなかったので、男の人と親密になることの良さも悪さも初めて知りました。高校生で発病して、もう全くあきらめていたことを仮想世界の中ではありますけど、経験できたことは、もう恐らくそんなに長く生きられない自分にとっても本当に貴重な体験でした。それにリアルライフでは人に迷惑をかけっぱなしの自分が、他人を介助するなんていう気分を味わうことが出来たのもネットのお陰です。介助する側の苛立ちや苦労も少しだけわかったような気がします。一つだけ自慢できることは、私が毎日、仮想世界の中でのことですが雨の日も風の日も、毎日です、彼の入っている病院に看病に訪れ、時には外に連れ出し、一緒の時を過ごしたんです。一日のかなりの時間を幸夫さんと過ごしたことになります」

 

美智子が言葉を止めたとき、介助者が「美智子さん、もうそろそろ帰りましょう。体力が持たないわよ」と促す。「わかったわ。それじゃ、もうちょっとだけ」

 

「本当はここに来た理由は幸夫さんに会うためじゃなかったんです。あの人とは、最初から絶対会わないことにしようって約束していたし、それにこんな風に意識も朦朧としている状態も見たくはなかったんです。きょうここに来る気になったのは、彼のノートに二人の別れがどんなふうに書かれているのか、ただそれだけを確かめてみたかったからなんです。もちろんもう長くない二人なんだから、私も一度彼を本当にこの目で見て、後で後悔しないようにした方がいいって迷ったこともありますけど・・・」

 

「そうすると、あの肖像画は?」優人が尋ねる。

2番目の人生の中で使った人物のアイコンですよ。各人が好きなものを選ぶんです」

 

「もう少し続けさせてください。私、本当に我侭で・・・わかっていただけますよね。学生でこんなことになってしまって、人以上に自分で気丈に振舞うことに慣れてしまって、明るく、普段は過ごしたいと思っているんで・・・だから、2番目の人生では思いっきり我侭で、本当は年上の幸夫さんと対等に過ごさせてもらって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

美智子は涙に詰まる。

「・・・別れは私の方から切り出したんです」

「えっ、でもノートには」

「そう。幸夫さんはノートに自分の方から切り出したと書いてありました。介護する妻を見て、あんまり可哀想だから自分の方から、新しい自分だけの人生を始めて欲しい、自分は老人ホームにでも入るから、とノートには書いてあります。でもあれは嘘なんです。嘘じゃなくて、ただそう思い込もうとしたのかもしれない。でも別れの真実は私が2番目の人生での介護に疲れてしまったからなんです。当時本当に何もかも嫌になって、その上仮想世界でも重荷になるような幸夫さんを支えきれなくなった。ままごとみたいに介護する側になりたいっていう思い込みにも限界が来たのですよね。彼は、別れないで欲しいと言いました。どうせ二人とも長くはないのだからメールをやり取りできる限り、このままで行きたいと言うのが彼の気持ちでした。でも私はもう我慢できなくなった。だから、本当に今考えてもひどい、ひどすぎる言葉を吐いて別れました。自分の中で自分を引きとめようとする気持ちを振り払うように。多分あれで、彼の痴呆の症状は進行したんだと思います。私の心にも大きな傷を負いました。リアルライフで、そんな経験がないだけに私には本当に一生に一度あるかないかのような心の傷です。だから、この傷をかかえてあの世に行くのも自分に課せられた罪なのではないかと思うほどでした」

 

少し休んで、美智子が続ける。介助者はもう何も言えない。

「でも、先ほど読ませていただいたノートには、全然違う人生が刻まれていました。女房と別れたのは自分が彼女を自由にさせてあげたいと一人で意図して、嫌がる妻を説得して老人ホームに入ることにしたと書いてありました。毎日毎日介護のために病院を訪れてくれたことに感激してるって書いてありました。有り余るような愛の言葉と感謝の言葉が一杯ノートを埋めていました。どうして現実と、いや正確に言うと2番目の人生における現実ですね、違ったことを書いたのかは知りません。でもきっと彼はそういう風に思いたかったのだと思うし、私への思いには偽りはなかったんだと思います。私にとっては32歳になった今までにあんな温かい気持ちで長い間一人の人と過ごしたことはなかったし、もう今となっては懐かしい思い出で一杯です。そこにいる本当の幸夫さんがどんな状況であれ、私の中の幸夫さんは2番目の人生の中で私のことを頼りにし慈しんでくれたあの仮想世界での幸夫さんなんです」

 

美智子は車椅子を介助者に前に進めてもらって幸夫に近づく。介助者に頼んで、これ以上近づけないという距離に二つの車椅子を移動してもらう。

「幸夫さん、これで本当にさようなら」

 

「きょうはどうもありがとうございました。自分のしでかしたことで心に傷を負い、自分を責め続けたことからもどうやら開放されるように思います。あともうそんなに長くは生きられないと思うけど、ずっと何年もあれからふさぎこんでいた私も、明日からはまた少し元気にしていられるように思います。私も幸夫さんも・・・生きられるだけ生きて・・・・」PCを打つ手が震え、もう後を続けることは暫く不可能だった。

 

帰り際に優人はどうしても一つ美智子に聞いておきたいことがあった。これまでなら躊躇して聞けなかったことも、これからは自然に聞けるような気がしている。

「美智子さん、一つだけ教えてください。この写真に写っている人は誰なんでしょうか?」

 

少し回復した美智子が答える。

「ああ、それ。知らないけど、多分彼の心の中にある理想の奥さん像じゃあないかしら。私のイメージ像だったのかもしれません。これまで会ったこともなかったし、本当の写真を交換したこともありませんでしたから、勝手にイメージを膨らませたのかもしれません。多分あの写真に写っている風景は紅葉の八幡平だと思います。行ったことがなくてずっと行きたいって言っていたから。だから前の奥さんと一緒に写っているんじゃないと思います。2番目の人生のサービスの中には、たくさんのオプションサービスがあって、記念写真なんかを注文に応じて作ってくれるんです。好みの顔を背景を説明して、全くリアルなものを作り出すんですよ」

 

「写真の二人は、2番目の人生の、さらにもう一つ仮想の『3番目の人生』の二人ってことですね。リアルライフに2番目の人生が継ぎ足され、そして別れのときや写真はまた別の3番目の人生が語られたと言うことですね。何が本当かは問題ではなく、きっと幸夫さんには全てリアルなものだったんでしょう」一同は「3番目の人生」と言った優人の言葉に、何だか心が軽くなったような気がした。

 

ホームを出ようとする美智子の車椅子が幸夫の車椅子の傍らを過ぎて行くときに、眠っているはずの幸夫の口元がかすかな微笑に開いたように優人には見えた。

 

 

帰宅した美智子は消耗し尽くしており、目を閉じたまま深い眠りに入った。娘を迎えた父親は強く娘の手を握り締めた。一部始終を介助者から聞いた父親は深く溜息をつく。そして少しだけ明るい顔になる。これで娘もかってのように明るく生きていけるのだと。

そして、PCを立ち上げメーラーの下書きのファイルに1週間後に送るメールのドラフトを記憶させた。ある若者を宛名とするそのメールには、「このメールアドレスも潰すことにしました。ところで、もう出世払いのお金は返さなくてもいいです。君は見つけた道を大事にして生きていきなさい」と書かれていた。父親の黒縁めがねの下にある左眼の二重瞼と右眼の一重瞼もうっすら涙でくすんでいる。

 

優人は、少し晴れ晴れとした顔をしている。きょうも杏奈と一緒に、今はもう寝たきりになった幸夫の体をさすりながら、あの日の美智子の言葉を思い返している。幸夫にもしものことがあったらあのノートは自分がもらえないかと思っている。これからたくさんの人から話を聞き、ノートを作っていく。自分がこの仕事を続け、一生かかって一体何人の記憶を蘇らせ、ノートに書き込むことが出来るのだろうかと思った。それを一つの自分の希望、仕事のやりがいにしていこうと思う。優人は、そろそろ母親に連絡したいな、と思った。    (完)


ALL RIGHTS ARE RESERVED.Copyright(c)1996〜2000 伊藤 洋一