レイニームーン

香西 春明(かさい しゅんみん/はるあき)

異常気象が続いていた。その年の冬は、平年よりも10度も低い真冬日が続きホームレスの人々が耐え切れずに死んでいった。

冬に続く短い春はあっという間に終わり、6月からは猛暑が始まっていた。

通勤電車の中は冷房が効いていたが、ホームに出たときの温度差は耐えがたいものがあった。女性は裸のような格好をエスカレートさせ、男達はハンカチでは間に合わず手ぬぐいで汗を拭き、女性を見ながら得体の知れないフラストレーションを感じていた。女たちも、そんな男たちが今でも全く変わっていないことに失望していた。この国は、今や暑さに絡め取られてしまっている。

 この国で、構造改善が叫ばれて一体何年経ったのだろうと私は思った。キオスクに並べられてある新聞記事の見出しは政府高官と有名政治家の逮捕を報じていた。時折改革をやってくれそうな変わったイメージの宰相が誕生するが、長く続いたためしがなかった。今も、そうした宰相が改革を叫んでいた。その叫びは辞めさせるまでは続くだろう。私は一昨年より、去年の方が確実に物事は悪くなっていると感じている。そして今は、去年よりも今年の方がさらに悪くなっていると感じている。資本主義の崩壊、そんな言葉を大学で習ったことを思い出した。しかし、この国をずっと覆っているのはそんな絶望的な、未来に対する不安心理であった。日本中が、おかしくなっている・・・・。

 

<1日目>

私は、緑色をした電車に飛び込んでいった。いつものとおり電車は満員だった。「うんざりする」という言葉が全てを語ってくれる。しかし、これに乗らなくては、会社に間に合わないのだ。いつもこの駅の、この時間の、この電車の、この場所で乗り込み、体をぴったりと隣の人間にくっつけながら、早く時間が過ぎれば良いとそのことだけを祈っている。肩にかけているショルダーバッグが肩に食い込む。鞄の中には大した物は入っていないはずなのに・・・。鞄が便利だったのはいつまでだったのだろう。いつも持っていなければならないと思っているものが多すぎるのだ。鞄なんか持たなくても朝の通勤はできるはずだった。持たなくてもいいと思っているのにそうできないのは、やはり私の生活の中に何か間違ったことがあるのだと思う。

鞄の中には、一体何が入っているのだろう。良く思い出せない。帰りの電車で読む、雑誌、文庫本。お守り、胃腸薬、メガネ、軽量傘、取材用の小さなカメラ、乗換える駅の時刻表、レストランガイド、アドレスブック、携帯電話、ミニディスク・プレイヤー、英会話のミニディスク、ジャズとヒーリングミュージックのミニディスク、メモ帳・・・・あとは良く思い出せない。機能性に充ち必要最小限のつもりでも、色んなものが集まったとき、その物たちはすごい重さとなってのしかかってくる。「何かが起こった時の用心に」と思っても、その何かはめったに起こらない。便利なものが、いつのまにか、自分を縛って身動きできないものにしてしまうのだ。

私は、公私共にトラブルを抱えていた。いくつもいくつも。そのことを思い出させる満員電車は嫌いだった。うんざりだ。日本の政治も、経済もみんな落ちるところまで落ちれば良いと思った。そう思ってしまう自分も嫌だった。何もかもが中途半端だ。

二つ目のS駅では、もみくちゃになって人々がホームに吐き出される。私は、ここでいつも一息をつき、電車車両の中ほどにささやかなスペースをようやく見出すことができる。

その時、私はその女性を見た。いや、見たという表現は正しくはないだろう。1メートル先でつり革につかまっている彼女に私は出会ったのだ。30歳前の楚々とした彼女は、つり革越しに大きなまなこで私を見つめた。赤い口紅が急に微笑んだ。涼しげな目をした美人だ。薄緑のTシャツと細めのジーンズが良く似合っていた。微笑みには気品があった。私は、彼女が微笑んだときに、何かなつかしいような、不思議な気持ちに襲われた。別に前に会ったはずなど無いのは分かっていた。「感じた」というしかない。

実を言うと、最近の自分は少し変だということを気がついている。「人よりも少しだけ勘が鋭くなっている」と家内や子供や親しい友人に話をしたことがある。本当はよく分からない。しかし実際のところ、自分では本当は分かっているのだ。

 その女性については、思い当たることのあることがすぐ分かった。私にとって彼女が何かの意味があることを、私の心の中ではもう既に受け容れていた。

彼女は、何かを話したそうだった。―――本当にそうなのかは私にはわからない。ただ、私は何か行動を起こさなければならないということだけは分かっていた。

 「この駅で降りますか?」私は、ごく自然に語りかける。自分でもその自然さに戸惑う。でも、しゃべりかけないことよりも、しゃべりかけることの方が自然なのだった。

 「ええ」彼女は頷く。頷きながら微笑む。

 私は、何から話して良いのか、頭を高速回転させた・・・・。とにかく、当り障りのない言葉を言えば良い。彼女は、とんとんと軽やかにスニーカーで歩いていく。時々私の方をちらっと見て、そのたびに少しだけ微笑んでいる。「私について来て・・・・・」彼女の訳ありな目が語っていた。形が良く小さなお尻・・・。

 歩きながら、彼女の後に残っていくほのかな香水の匂いを嗅いでいく。フルーツ系の軽やかで懐かしい匂い。

 道は、住宅街にたどり着く。裏道を何度か曲がる。静かに重たそうな塀が並んでいる。こんな古びた家々が、大きな駅から10分程度のところにあるなんて信じられなかった。

 「どうぞこちらに」ようやく彼女は口を開き、鍵をあけたドアの中に吸い込まれていった。私は、ちょっとだけ立ち止まった。その家は、こんな都心によくまあ残っているといった感じの古びた木造の洋館で、相当大きな敷地に建てられていた。ドアの中には、しゃれた感じの小庭園があったが、しばらく手入れをしていないらしく、荒れていた。しかし、その荒れ方がどこか下卑たところがなく、一度作った人工的で整然とした秩序が、自然に還るために今一度自分を崩しているようなものに見えた。

 門を開けて中庭に入り込む。一歩中庭に踏み込む時に「こんなことするのは、とても妙なことではないか」という感情が頭をかすめる。でも、そんな言葉は05秒で頭から消え去る。彼女が、もう一度後ろを振り返り微笑む。

 会いたいな、と人のことを思い出すと、その人に突然会うことが多くなっている。そしてそんなときに限って、その出会いは自分にとって大きな意味を持つ選択をもたらすのだった。会社の同僚や、友人のことをじっと考えていると、急にその人の未来が見えてくるような錯覚に陥ることが多くなっている。その直観があたるのかどうかは、まだ確かめられたことが一度も無いのにだ。でもその直感がいずれ実現してしまうことが、自分の中では公然の事実になってしまっている。

 人の生き死や運命についての予知能力であれば、「超能力」と言うのだろが、私のはもっと頼りなくてちっぽけで、人に言うのも憚られる「小能力」というようなものではないかと感じている。偉そうに自慢するには迫力に欠けるのである。

 中庭の敷石を踏みしめ、今度は家のドアを開ける。

彼女は、再び「どうぞ」と手招きをした。家のドアはひどく頑丈な造りで、私を威圧した。中へ入ると黴臭い匂いが漂ってきた。その匂いがあまりに懐かしいので、私は、しばし玄関のところで佇んでいた。少年時代は高度成長の時期だった。あの頃過ごした社宅の一軒屋、日本家屋の湿気た匂い。

私が入ると鈍重な音を響かせ、ドアは閉まった。

同時にガシャッという鍵のしまる音がした。旅行先のホテルと同じオートロック。このオートロックのドアが閉まるときは、いつも自分が落ち着かなくなる。そして、ホテルの中に忘れてきた鍵のことを思い出し、あとでホテルの人に開けてもらいにいかなければならない、と少し憂鬱な気分に襲われるのだった。何かが始まる・・・・。

 塀の外から見るよりも、はるかにこの家の中は広く感じられた。お屋敷といっても良いくらいの家で、10はあろうかという部屋には、様々な国から集められた調度品が並べられており、住人の知的好奇心を物語っていた。収集品も、戦国時代の鎧や刀があるかと思えば、アジアの水上マーケットで買ってきたようなレリーフの壁掛けや南欧の陶器人形、べネチアングラスで作られた装飾的な鏡、イスラムのモザイク模様の絨毯、中国の王朝式の箪笥、見事な青色の磁器・・・・それらは、それぞれの部屋で脈絡無く飾られていた。しかし、不調和ということもなかった。そこのあるのが不思議な物たちだった。ただ一つ私の推測したことは、この品々を集めた人間は、相当な年を取っている、あるいは取っていただろうということであった。

 「何から聞けば良いのだろう」家の中の散策が終って私が尋ねる。「別にあれこれ考えることなんかないわ」彼女は涼しい顔をしている。二人は、緑の革張りのソファに向かい合っている。

正面から見ると彼女の顔は、驚くほど整っている。眼も、鼻も、口も、一つ一つは何の変哲も無い、良くある形や色をしているのに、顔全体の調和がとれ、眼も、鼻も、口も美しいのだった。口元の気品は、とりわけ私を魅了した。彼女が言葉を発する時の口元に私の目は奪われた。美しい言葉は、柔らかいメロディーのように私に吸収されていった。

「まずは、お茶でも入れるわね?紅茶でいい?」初対面なのに割と馴れ馴れしい言葉使いだった。でもそれは自然なことだった。私も微笑みながら頷いて、「そうだね」私も彼女同様、初対面ではないように答える。

ソファから立ち上がる彼女の、ジーンズに包まれた足の長さに気付く。さりがない服装がとても似合っていた。

紅茶の微妙な渋みは、いつも飲みつけているダージリングの味がした。

「あなたは私の獲物なのよ」

「獲物?」

「そう。これから暫く私と生活を共にして、そしていずれここから出て行くことになる。それまでは、私の願いに従って、楽しく暮らしていくのよ。作業も色々やってもらわなくちゃいけないし・・・」

「作業?」

「うん。あんまり大したことではないの。『物を捨てる』だけのこと」

彼女は、紅茶をもう一杯入れてくれた。いやはや、とんでもないところに紛れ込んでしまった。この女は、暫く私を開放してくれないと言っている。気がふれているのか・・・。「ふざけるんじゃない」どうして私が獲物なのだ。心の中で、むっとした気持ちが広がる。しかし、もっと怒っても良いはずなのに、と思ったときに、全然怒っていない自分に気がつく。気が付いたとたんに怒ることなど意味が無いように思えてくる。

そして同時に、さきほどの彼女の赤い唇と、形の良いお尻を思い出してもいた。面白いことがはじまるなら、成り行きに任せてもいいような気もしていた。シビア過ぎる現実から、少しでも避難できるなら、とりあえず受け容れることが良い場合もあるさ。それが、20年もサラリーマンをやっている、ちっぽけな男の知恵みたいなものだ。それほど疲れているということなのかもしれない。

「さあ、良かった。あなみたいな男の人が現れてくれるのを心待ちにしていたのよ。一目見たとき分かったの。『ああ、この人だって』思ったの。そして同時に分かった。私のこうした感覚、この人も共有しているはずだって」

「共有って?」

「つまり、あなたも救われたがっているってことよ」

「・・・・・」

「さあ、さっそくだけど、居間にある大きなテレビね、家の外に運び出してくれない。それから、電話機の電話線をはずすの。電話線は私がするわ。この日のためにやり方は調べてあるから大丈夫。パソコンのインターネットだけは生かしておくつもりだから、電話線を切ってしまうわけではないの」

私は彼女に言われるままテレビを外に運び出した。彼女のケータイ電話の電源を切り金槌で強く叩いて使えないようにしてから不燃ごみのポリ袋に捨てた。彼女は明らかに、外界との接触を絶とうとしていた。彼女はインターホンも使えないようにした。

それから、彼女は電話会社、ごみの回収業者などにコンタクトしたり、インターネットで注文できる品々をチェックしていた。その作業は結構緻密であり、多岐に及んだ。私は、テレビ以外にも2,3家具を外に運び出したあとは、手持ちぶさたになって彼女のてきぱきした作業を見ていた。いや、見とれていたと言ったほうが良いだろう。気品のある口元から発せられる言葉の美しさに見とれ、芯のある声の表情の豊かさに惹かれた。動き回る時のお尻の動きや足の長さにも目を奪われた。私は正直に言うと、彼女を抱きたいと思っていた。

どの位時間が経ったんだろう。どうやら彼女は、全て話をつけ終ったようである。外はもう大分暗くなっている。

窓から外を覗くと月が出ている。満月。月には雲がかかっている。少し月に見とれていると、雨が降ってきた。ぼそぼそした雨。

新聞は、明日からは来ないこととなった。外に出した家具やテレビは、回収業者が引き取りに来ることになった。そして、こちらがEメールで「もう来なくていい」と言うまでは、毎日外に出してある物を持っていってくれるという。テレビも液晶の高級品、家具もかなり値段の張るものに見受けられた。引き取り値段は、業者次第、代金は自動的に彼女の銀行口座に振り込まれることになる。

食事についても、彼女の手はずは軽やかだった。毎日の惣菜宅配業者が車庫の奥の作業台の上に二人分の食事を置いていく。こちらは、電子レンジなどで温めれば良いだけのこと。食べ終わったら、食器を洗って作業台の上に置いていくのだ。

「まるで、篭城するみたいだね」

「そう、篭城。二人だけで長い時間を過ごすの、誰にも邪魔されずに・・・」

「僕は、拉致されたというわけだ」

「拉致ね、そうかもしれないわね。でも、拉致っていうのは本人が拒絶するニュアンスがあるわ。今回は、私だけのためじゃないのよ」そう言うと彼女は私の目をじっと見て、私に近づいてきた。彼女の爽やかな香りがしてきた。彼女は体を預けてきた。彼女は目を閉じた。私は、応えた・・・・。

ベッドで暫く眠ってから、私はよろよろと起き上がった。終ったあとも彼女のことがいとおしくて仕方がなかった。また、眠りに落ちた。

紅茶をまた飲みながら、横に寝ている彼女が口を半開きにした。この唇にあと何回キスできるのだろうという妄想が私を捕らえた。夜も相当に遅くなっている。

「まだ、あなたがやらなくてはならないことがあるわ。家族や親、そして会社への連絡」起きた彼女が言った。

「どうすればいいんだろう」私は、ちょっと困った声を出した。女はいつも現実主義者だ。

Eメールで今日一日の弁解と今後について説明しておくのがいいんじゃない。あなたの奥さんEメールやってる?」

「ああ、良くやっている。インターネットオークションで、ほら人形、フィギュアっていうのかな、あんなものを集めている。それに、両親も最近Eメールを始めたんだ」

「それは好都合ね。すぐにアドレスの取れるフリーメールってあるでしょう。あれで、あなたのメールアドレス、すぐ取ってあげる。会社の同僚のアドレスも分かるわよね」

「ああ、半角アルファベットで名前にドットつけて、その次に苗字、アットマークに会社の名前、最後にCOMだよ。一体どれくらい、旅行に行っていると言えば良いのだろう?」「とりあえず、一週間でどう?そのうちにみんな、あなたがいなくなっても気にならなくなるかもしれない。私とあなたの方も、一体どれくらいで終らせられるようになるかわからないから・・・」

「『とりあえず』か・・・」私はその言葉を今までどれほど使ってきたことか。そう思うとあの嫌な現実がまた重くのしかかってきた。顔が少し曇ったのではないか、そういう実感があった。「あなたとこのまま一生暮らしていければ楽しいかもしれないね」投げやりな私の言葉に、私の顔をじっと見た彼女は、沈黙のあと私が照れ隠しで微笑んだのを確認して、やはり微笑んだ。

Eメールは、私のこれまでの社会人生活のノウハウを詰め込んだ手の込んだものになった。メリハリの効いた文章は、万人を納得させるのに十分過ぎるほどだった。一週間位ならね。でも、その嘘はやがて見抜かれることになるだろう。それはそれで仕方のないことなのだ。問題山積の状況だったのだから。嘘でほっとする人だっているだろうと私は思った。「とりあえず』、軽く失踪だ。

宅配の食事も悪くは無かった。糖尿病などの食事療法にも使われているという業者の謳い文句にそう偽りはないように思われた。栄養のバランスを良く考え、味の濃さも控えめで、上品な味がした。食器を片付け終わると、グラスを持って彼女が現れる。

 「あなたは何を飲む?私は、ウイスキー」

 「バーボンはあるかな?樽の匂いが好きなんだ。あんまり純粋でないところがね」

 「笑っちゃうわね。アーリータイムズしかないわよ」

 「ああ、それで上等だ」

 「乾杯」彼女も上機嫌だ。たくさんの仕事をこなした余韻にふけっている。

 「乾杯・・・・。無人島生活に。美しい女性と二人きりの無人島に乾杯」ちょっと高揚した気分になる。ここで、彼女がわざとらしく私の目を見て、また微笑み返してきた。何か、言いたいのだろう。

 「さあ、そろそろ始めなくっちゃ」

 「始めるって何を?」

悪戯っぽい顔で彼女が話を続ける。

 「身の上話に決まっているじゃない。あなたとここで二人きりになるのは、話をするためよ。過去を捨てて生まれ変わるために話をするの。あなたはそんな私のひとときのパートナー。そして、あなたにとっても私は身の上話をする大事なパートナーになるのよ」

 「えっ。そんな話は聞いていない」

 「聞いているも聞いていないもないのよ。身の上話をし合うのよ。それがあなたの暫くの仕事の一つ」

 「あんまり、強制されるのは好きではないんだ、ガキの頃からね。もし、拒否したら?」

 「拒否って?何のこと?」

 「分かっているじゃないか。パートナーになることだよ」

 「あなた拒否するの?」

 「すると思う?」

 「ううん、しないと思うわ」

 ちょっと私は沈黙した。少し疑問を持たなさ過ぎではないかと思ったからだ。しかし、Eメールも打って、こうして流れに身を任せてしまっている。もう、俺は決めてしまっているのだ。するもしないももう、どっちでもいいではないか、私の中の私が囁いた。私には、生来、人が重要だと考えるようなことでも、それほど深刻にならずに決めてしまうところがある。そんな性格が嫌いではなかった。この性格のお陰で救われたこともたくさんあったからだ。

 「ああ、身の上話を互いに話し合うゲーム、僕も参加することにするよ」少し照れながら私が言う。彼女の後ろの窓には、今度こそくっきりと月の影が映っている。

 「それがいいわ。人と人の出会いは、やっぱり身の上話よ」

「出会いの王道というわけだ」

「ふふふ、そういうわけね・・・」

 

「私は、この家である男に囲われていました」

彼女は突然話し出す。戸惑う。もう話は始まっているらしかった。

「ちょ、ちょっと待ってくれないか」直球の速さに面食らって、私は叫ぶ。

「何秒待てばいいのかしら?」

「せめて30秒・・・」

30秒ね、わかったわ」

彼女はじっと考えている。少しの沈黙が流れる。30秒経つ。そして突然再開される。

「私は海の見える港町で生まれて、ずっと潮の満ち引きの音を聞きながら育ちました」

そしてまた、暫しの沈黙。遠くを見つめるような目をして、彼女の口調は知らないうちに、「です、ます」調になってしまっている。文学少女がイタコになったみたいな風情である。

「潮風の匂い、水平線の彼方に消えていく漁船・・・・父は、漁師でした。節くれだった父の漁師の手を子供ながら誇らしく思っていたものでした。漁で何日も戻らない父、父の帰りを待ちわびる母。採った魚のうち家族のために必ず何尾かは家に持ち帰るのです。その時の食卓のにぎやかさ、母のうきうきした表情を私は忘れません。小学生だった私にとって、『男らしさ』とは、すなわち漁師のことであり、父のことだったのです」

「でも我が家の幸せは長続きはしませんでした。『紀美子、また大きな魚を持って帰るからな』そう言って水平線の彼方に消えていった父は、その日からもう戻らなかったのです。私は、小学校の4年生でした」

「父の船は、突然の時化に襲われ行方不明になり、3日後に遠く離れた沖合いに現れました。船体は崩れ、乗組員たちは結局誰一人発見されませんでした。母も私も妹も、ずっと父の帰りを待ち続けました。もう戻らないなと半分理解しているのに、いつでも『おい、帰ったぞ』と大きな声でドアを叩く、あの音が聞こえるのではないかと信じていたのです。そして、1ヶ月が経ち、2ヶ月が経ち、3ヶ月が経ち、6ヶ月が経ち、1年が経ちました。私たちは、下を向くようにして暮らしていました。来る日も来る日も父の帰りを待ち焦がれ、時間ばかりが過ぎ去っていきました。その間、母は生活費を稼ぐために近くの缶詰工場に働きに行くようになっていました。2年が経ち、3年が経ち、私も中学生になっていました」

「ある時お母さんが、夜帰らないことがありました。それまでそんなことは一度も無かったのに、いくら待っても帰ってこないのです。心配する妹を寝かしつけ、私だけ夜が白んでいくのをじっと見ていました。お母さんは、酒臭い息をして帰ってきました。上気した顔をして、少しはにかんでいました。私が『どこに行っていたのよ。ずっと待っていたのよ』と怒った声で言うと、『ごめんね、ちょっと断れなくてね』と言いました。私は、母親の幸せそうな表情が我慢ならなかったのです。お母さんの女の部分が耐え切れなかったのかもしれません。私は、お父さんが帰ってくればいいのにと思いました。今思えば、お母さんだって、まだ37,8で、太ってもおらず、美人だと言われていましたから無理も無いことでしょう。でも私には、そうして何度も朝帰ってくるお母さんが許せなかったのです。お母さんは、男を家には連れて来ませんでした。連れて来られなかったのです。隣の笠原のおじいさんが教えてくれたのです。工場長とお母さんが出来ているって。工場長は、50歳位でもう孫がいるという噂でした。東京にある本社から派遣されており、東京には品の良い奥さんと立派な家があるということでした。『不倫っていうんだよ』笠原のおじいさんの発した『不倫』という言葉は私を苦しめました。中学校で、友達に『あの子のお母さんは、工場長と不倫をしているらしい』と陰口を叩かれました。私の心は傷つきました。そしてそのころから、食卓にはそれまでにはなかったようなご馳走が並ぶことが多くなりました。それは決まって、お母さんが朝帰りをした次の日のことでした。お母さんが洗濯するする自分の下着も絹みたいなものに変わっていきました。そんな下着を見るのは何か汚らわしいものに思えました。今から思うと、あんなに毛嫌いする必要なんてなかったと思うけど、あの頃は幸せそうなお母さんが見てられなかったのです。私は、一度言ってやりたかったのです。そして、ある時カールした髪の形でお母さんから注意されたときにとうとう言ってやったのです。『お母さんは、お父さんを忘れたの?奥さんも子供も孫までいるという男といちゃついて、お金もらって私たちにご馳走してくれたって、私うれしくない』って。お母さんは、私を凄い顔で睨みつけ、ドアをばたんと閉めて外へ出て行きました。そして、普通の顔をして2時間後に帰ってきました。私もお母さんも何も言わずに、その日の夕食を食べました。いつもの魚の煮付けでした。でも、その日私が夜目を覚ますと、お母さんは居間にいて忍び泣きをしているのです。その日から、お母さんは何となくだらしなくなりました。朝起きるのも時間がまちまちになり、工場も行ったり休んだりという感じだったように思います。朝帰りの時には、今までよりもずっとお酒の匂いがきつくなり、時々は何かぶつぶつ言うようになりました。その頃からお母さんは凄く怒りっぽくなってきたように思います。怒ると物を投げつけるようになりました。そして、ある日、朝帰りの時に玄関で倒れてしまったのです。私と妹は、玄関までびっくりして出て行きました。お母さんの目は真っ赤に泣き腫らしていました。『もうおしまいだ』と言って、泣き崩れました。『東京へ帰ってしまう』と言って夢遊病者のように、空の方を見上げました。髪の毛を掻きむしりました。『もうおしまい、もうおしまい、あたしはどうなるの、どうなるの』酔っ払って母は叫んでいました」

 

「こんな話、あなたには興味がないかもしれないわね」

「いえ、そんなことはないけど、僕はあなたとはさっき会ったばかりで、どこの誰かかも知らないんだ」

「あなた、そう言うけど、別に私がどんな人間でも、どうでもいいんでしょう」

私は、図星だと思った。彼女の話は十分面白かった、多分嘘の話だろう。でも、嘘であろうと本当であろうと、私にはどうでも良いのだ。私もたくさんの難問を背中に抱え込んでおり、そして、一つ一つの問題に対峙するのはものすごくエネルギーの要ることだと知っていた。ただ、話が面白いことが、今の自分には救いのような気がしていた。彼女の語る「私」が不幸でいる様を聞き、不幸であればあればあるだけ、自分は聞く気がするのだった。

「いいですよ、あなたが誰だって。僕はあなたの話を約束どおり聞いているんだから・・・」自分でも、約束という言葉出てきたのが不思議だった。さっきは、適当に「話を聞くこと」に同意しただけなのに、今は「約束」したって良いという気になっている。

「母親は、強い性格だったから、私や妹に哀れみを強要することはありませんでした。『お母さんの気持ちも分かってよ』とでも言えば済むことを、お母さんはそういうタイプではありませんでした。それからもお母さんはいつもつまらない男とくっついたり離れたりしていたようです。女で一人で生きていくことがお母さんにはできなかったようです。そういう女の生き方を選んでしまったということなんだと思います。結局、お父さんがいなくなってからというもの、お母さんと心を通わせた記憶はありません。高校生になると私はもう早く家から出ることを考えていました。そのことばかり考えていました。どうやってあの家から出て行くのか。お母さんだってきっと私が家を出て行こうと狙っていることを感づいていたんだと思います」

「少し、休憩させてもらっていいかな」私は、話に引き込まれながらも、話に苦しくなってつぶやいた。この話が嘘でないことを知っていたからだ。

「そうね、これから、じっくり話を聞いてもらわなくっちゃいけないものね」彼女も答える。

「名前も知らないんだよ」私が、少し不満そうに話す。

「そうね、分かった。私の名前は紀美子。さっき話した通りよ」遠くを見るような目で彼女が言う。

「俺の名前は、田口。田口恭介。他はいい」

「他はいいって?」

「今は、かったるくてしゃべりたくないということだよ」私は少しちゃらけて悪ふざけっぽくする。意地悪をするのが心地よいように。

「どうせ後で一杯話さなきゃならないのだろ。そういうゲームだと思うことに、僕は決めたんだ」このゲームは案外面白いのではないかと私は思い始めていた。嘘か誠か、訳のわからない女と自分のことをそれぞれ話しつづける。普段だったら身も知らずの人間の与太話をじっくり聞くことなんかないのだが、私は、きょうはしばらく付き合っても良いような気がしている。そんなことだって少しは自分に足しになるような気がしていた。

「ある日、私はその日が来たことを悟りました。私に優しくしてくれていた一人の男が、『一緒に行こう』と言って町を出ようとしたんです。でも、本当は私が彼を焚きつけていたんです。「紀美子ね、誰かにこの町から連れ出してもらいたいんだ・・・」なんてわざと言って・・・。学校に通うのが嫌いな高校三年の先輩でした。東京に出たいと言っていました。私とは、一つ違いの高校2年生。スポーツバッグに着替えを入れられるだけ入れ、家にあるお金を1万円だけ残してみんな持ってきてしまいました。確か、8万円くらいあったと思います。お母さんはきっとその時つきあっていた男から、いざとなったらお金をもらえるだろう、と自分に弁解しました。でもそれがそんなに簡単でないことも知っていました。何よりも妹のことが気がかりでした。書置きには、『お願いだから探さないで、私は一人で生きて行くから』と書きました。お母さんは私のことを探さないと思っていました。私の芯の強さを知っていました。あるいは、厄介払いが出来たと思ったのかもしれません。今も私には分かりません。あれからお母さんに会っていないし、その時の気持ちを聞けるわけでもありませんし・・・・」

「今から、何年前のこと?」

10年前のこと」彼女は少し考えてから答えた。そして少し笑った。きっと年が分かってしまったとでも思ったのだろうか。今、20代後半ということになる。落ち着いて見える。

「彼の名前は淳也。気持ちの真っ直ぐな男。彼は私に『東京で一緒に暮らそう』って囁いてくれたんです。最初から純情な彼を利用しようと思ったわけじゃない、でも今思えばきっと本当は、彼は東京なんかに行きたくなんかなかったのだろうし、ただ私と一緒にいられること、私の望むことをかなえてくれることだけを考えていたんだと思います。彼、そのとき、私に夢中だったから。二人で東京に住もうと語り合った。鈍行列車を乗り継いで東京に着いた時には、もうぐったり疲れきって次にどうすれば良いのか分かりませんでした。でも東京駅について、駅の中を忙しそうに歩いている都会の人を見たときに、なんだか頭の中が空っぽになって、それまで希望と一緒に頭にこびりついていた後悔の気持ちが跡形も無く消えていくような気持ちになったのです。急に開放感に体が満たされていって、前向きな気持ちが体の芯から湧き上がってきたんです。とにかく、まず泊まるところを確保しなければならない。そう思ったら、中学校で東京に出てきている女友達のことを急に思い出したんです。中学校まで、結構仲良くしていたのに、電車の中では全く思い出さなかったのに、それが突然思い出したんです。不思議ですね。淳也と二人で彼女、真知のアパートに行きました。彼女は随分驚いていたけど、『私はね、紀美子はいずれ東京に出てくるって思っていたわ』と言いました。ちょっとすまなそうな顔をして『この部屋狭いし・・・・・あなただけなら、1ヶ月ここに寝泊りしていいよ』って彼女は言って。そのとき、突然淳也が『俺、本当はすごく後悔していて・・・・、もう帰ることにしたい』と言い出すものだから・・・・。結局、彼とは一緒に暮らすことはありませんでした。

彼も私と本当に暮らすことなんか考えられなかったと思います。彼を恨む気持ちなんか、これっぽっちもありませんでした。私のことを案じて、自分は帰ると言ったのか、今でもよく分かりません。ただ、私は真知の部屋にただ転がり込むことしか考えられなくなっていました。今なら、もしかしたら彼一流の優しさで身を引いたのかもしれないと思えるのですが・・・・。」

「じゃあ、その彼とは別に何にも無かったわけだ?」

「そう、電車の中で抱き合うこともできず、とにかく逃げることばかり考えて夜行電車を乗り継いで2日がかりで東京に着いて、それで急に現実に引き戻されてしまって・・・・」

「彼とは、その後会う機会はあったの?」

「いいえ、もうあれっきりです。私は二度と郷里には帰っていないし、母にも、淳也にも会っていません。何度か妹の比呂と会ったことぐらいです」

 

彼女の話に引き込まれてしまっていた。

私は大きくため息をつく。やっぱりこれは、本当の話のような気がしてくる。だとしたら、なんと重い話なのだろうか。

「ちょっと休もうか?これからずっと長い時間をかけて話を聞いてもらわなくてはならないし、あなたからも話してもらわなくならないから」

「どうして僕なんだ、他の人でもよかったのだろう?」心の重みに耐えかねて、悪態の一つも出そうになる。

「私はずっと探していたのよ。この3ヶ月ばかり、あなたみたいな人を。ずっとずっと探していたのよ。そしてきょうようやく出会った。あなたも、私に会ったときに、何かを感じたはずよね」

私はこの時も否定はしなかった。

 

「今あなたが座っているそのソファ」

私は、緑のフェイクレザーに覆われているソファに目をやった。

「そのソファにギーが座って、彼の膝の上に私が座って、私たちは良く話をしたわ。ギーっていうのが、彼の呼び名。義雄というのが本名。でも25歳も離れた彼を、ちょっと照れて私はギーってよんでいたのよね。膝の上に乗った私の背中に手を回して・・・私は彼に支えられ、包まれている実感をいつもこのソファと一緒に感じていたの」

彼女は、独り言を言うように言葉を重ねた。

「私には、ギーが全てだった」

なぜそんなに話を急ぐのか?彼女は、ずっとしゃべりっぱなしだ。

「ごめんなさい。しばらくまともに人と話をしていなくて・・・。言葉が溢れてきてしまって・・・」

「私、このソファを捨てなければいけないと思っているの。これで、ようやくこのソファーともお別れが出来るんだわ」彼女のソファーを見る目は、少し寂しげに見えた。

「お願い、一緒にこのソファーを家の外に出してちょうだい」彼女の声は、既にぴしっと厳しかった。

「随分急いでいるんだな」 私はつぶやく。

「そう、決心が鈍らないうちにと思って。本当に良かった。あなたに来てもらって、本当に良かった。もうあの人は生き返らないのだから、早く捨ててしまった方がいいの」

そう言った後、紀美子はまた少し物思いにふけるようなそぶりを示していた。

「ギーは家にいるときは、いつもこの椅子に座って、葉巻をくゆらせていたわ。19歳で私がこの家に住むようになった時、私には父親みたいな気がしていた。昔甘えられなかった分、ずっとずっと甘えていたような気がしていた・・・・」

そして、また再び眉間に皺を寄せて「でもやっぱり、捨てなくてはならないのよね、どうみたってね。これから私、一つ一つこの家にある物を捨てていくのよ。ねえ、田口さんっていったわよね、あなた私が思い出のものを捨てていくのを見届けて欲しい。宜しくね」彼女の言葉は弾んでいた。

「あなたも捨てたいものがたくさんあるんでしょう。だから、あなたがここにいるのよ。あなたも私が物を一つ捨てるたびに、一つ何かを捨てるの。それがルール。捨てる前に、そのものの話を私にも聞かせてね。私たちは、傷を舐めあいながら、過去を一つずつ、ごみ箱にすてていくための。そうパートナーみたいなものなのよ」

「ということは、僕も話をしなければならないっていうことだな」

「そうよ。まだそんな気持ちにはなれないと思うけどね・・・」ここに来てから、図星ばかり言われて、疲れてしまう。

しかし、少し妙なことを思いついた。なぜ彼女はあんなに晴れ晴れとした顔をしているのだろう。それに比べると、言葉を抱え込んでいる自分はなんて不自然な感じなんだろう。

時計は、既に夜の12時を示していた。随分長い間話をしていたことになる。私の中では、既に牧野紀美子という人間が大きな位置を占めている。全ては必然である、そうした思いが私を支配しつづけている。一つ一つの事象は繋がっているのだ。

「もうきょうはおしまいにしよう。僕は寝るけど・・・」彼女は、思わせぶりな表情でうなづいた。

彼女は、細身の体に似合わず大きな胸をしていた。人間にはそれぞれの匂いがある。彼女の匂いはすえた甘い匂いだった。その匂いがいい匂いに思えた。人間は、気に入った人間の匂いは、どんな匂いでもいい匂いだと感じてしまう。いや、独特の匂いほど忘れられなくなるのかもしれない。そして、嫌いになるとその匂いが今度は耐えられなくなる。匂いと一緒に恋愛は終わり、始まるのだ。

彼女の髪を胸に抱きながら、この女となら、ずっと一緒に暮らしてもいいと思っていた。そんなことは叶わぬことだと知っているのだけれど。

寝室のカーテンをゆすって見た夜空には、月が出ていた。雨はまだ降っていた。月が雨に濡れている。

 

2日目>

朝、いつものように6時に目が醒めた。

紀美子の力の抜けた寝顔を見て体の向きを変える。また睡魔が襲ってきた。心の中で「どうにでもなれ」とつぶやいた。投げやりな気持ち。でも投げやりながらも、そのことを楽しもうと思い直した。これから始まるゲームを楽しむこと、それを前向きな気持ちというのなら、もうすっかり前向きな気持ちになっていた。

その日はだらだらと時間を過ごした。体と頭とそして心に溜まっている「滓」を排出するかのように時を先に行かせる。芯まで疲れているのだ。

3時のアフターヌーンティーを終えると彼女が言った。

「今日は、あなたからの話よ。あなたにも話をして欲しいのよ」

「一体何を話せばいいって言うんだ。」

「何って、あなたの話したいことを話せばいいのよ。あなたは過去を捨てたがっている。生き直したいんでしょう。私には見えるわ。私の心はあなたに共振しているのよ」

「そう言われても困るんだけどな。・・・・・何かヒントはないのかなあ?」

「そうね、きのう私は、ソファを捨てることにしたでしょう。あなたも何かを捨てればいいのよ。そんなに難しいことではないと思うわ、ふふふ」きのうの夜から二人の言葉にはよそよそしさが消えていた。

「捨てる?」

「そう、あなたが今大事にしていて、なくすと困るものって何かしら?捨てるのよ。捨てる時に話をする。話をすることによって、あなたは捨てられるのよ」

「別に、この身一つがあればいいような気もしているけど・・・。今持っているのは、この会社鞄一つだけどね」

「そうよ、その鞄よ。その中には何が入っているのかしら?。結構重そうに見えるけど」

「この鞄か・・・・」私は、きのうの朝にこの鞄の重さを呪ったことを思い出した。確かにこの鞄の中には色々な代物が入っている。

「わかった。過去から自由になるために、思い出は捨てなくてはならないということだね。やってみるか」別に失うものなど何もない。話をして、気持ちが良くなるなら、いくらでも話をすれば良いではないか。

「その気になってくれればいいのよ。あとは私があなたを夢の中に連れて行ってあげる。そしてあなたは夢の中で話をするだけ。あなただけの話。あなたの優しい心を私は知っているわ。優しさゆえに、今のっぴきならない事態に追い込まれていることも、私は感じているわ。話をすることによってあなたは救われるのよ」

私は鞄の中から一つのお守りを引っ張り出していた。心の中を痛みが一瞬貫いた。

千春。強い女。そして優しい女。そう思ったとたん、濃密な時間が蘇ってくる。

「私は結婚には向いていないわ、やっぱりね。結婚しちゃダメなのよね」彼女が明るい顔をしていた。ズケズケ物を言う。いつものこと。

「そうだよ。どんなに愛し合っていても結婚しない方がいいような気が最近している」私が答える。本当は違うのだけど、二人とも納得しているふりをして、別れ話を飲み込んでしまいたいと思ったのだ。「結婚しない方がいい」なんて言葉を嘘でもいいから言ってくれる彼女は自立した女性だと思った。しかし同時にそれが不憫だった。結局、エゴを通しているのは私の方じゃないか・・・・。彼女は私と少しでも長くいたがった。それなのに・・・・。お守り袋の中にはお守りと一緒に彼女の写真が入っていた。写真の中の千春は、鏡の前で笑っていた。大分前に撮った写真だった。「写真ぐらいないと嫌」と彼女が言って渋々撮った写真だった。丈が短く、体の線を浮き立たせるお気に入りのTシャツを着て、その夜の彼女はとても明るかった。今から一ヶ月前に包丁を出してきた日の切迫感も、凄まじさもその写真を撮ったその日には無かったのに。

千春はソープランドに勤める女だった。焼き鳥屋で出会った。私がMと青山近くの焼き鳥やのカウンターで酔いつぶれているときに、声をかけてきた。

「アルジャーノンの話ですよね」千春はためらうように、でも言わずにはいられない様子で話しかけてきた。千春は一人で酔いつぶれていたのだ。Mが話の比喩としてアルジャーノンと言ったあとだった。

「あなたたちは、アルジャーノンが正気になっていく方のことしか本当にはわかっていないんだと思う。成功物語は誰にでも理解できる。正気になってから、また頭が弱くなり、落ちていく、あのときの悲しみについては分からないんだわ」千春は私たちの会話をずっとカウンター越しに聞いていたのだ。

「私には分かるのよ」それ以上飲ませるわけにはいかなかった。彼女の家は、私のタクシーでの帰路の途中にあった。

彼女は一度も「店に来てね」と言わなかった。店ではどんな顔でしているのか、想像しても私にはよく分からなかった。とにかく、彼女は普通だった。ソープの前は上場企業のOLだったと言った。会社の名前も聞いたが、忘れた。忘れるような、有名ではない名前だから、本当のことなのだと思う。彼女には、水商売の女性にありがちな崩れたところが無かった。あるいは、崩れたところを「店の外」の人間である私には、出さないように緊張していたのかもしれない。いや本当は元々崩れてなどいないのだ。サラリーマンの方がずっと崩れているのだ。

時々私の手の爪を見た。「私ね、爪を見るとその人の健康状態が分かるのよ」最初のデートの時だった。

「それで、俺のはどう?」

「そうね、大きな病気はないわね、でもほら、皮膚との間がギザギザしているでしょう。きっと、随分疲れているんだわ」私の目をじっくりと覗き込んだ。触れた彼女の手は、しっとりしていて、ドキドキした。

「それからね、爪を見るだけで、その人の心の暖かさも分かるの」

「俺の爪はどうかな?」

「そうね。心は超がつくほど優しいわ。煮え切らなくて、優柔不断で・・・優しいからいつも人を傷つける。最後には必ず女を泣かせるわ」私には返す言葉が無かった。ただ笑うことしか出来なかった。いつもそうだ。顔の筋肉を少し緩め、口元を柔らかくして笑う、それしか出来ない。

ただ時々会っているときは良かった。美味しいものを食って、寝て、慰めあう。彼女は、派手な商売のはずなのに、まともに人生を楽しむ術を知らなかった。「そんなものなのかな」と驚く私に、「お金の使い方を知らずにホストクラブにいれあげる女も多いのよ」と彼女はつぶやいた。ちょっとしゃれたイタリア飯屋へ連れて行っただけでも喜んだ。「あんまりこんな所に来たこと無いのよ」という。今の時代にもこんな可愛いことを言う女がいたんだと思った。あんな職業の女性に純な心の持ち主がいたことに驚いたのだった。私は次第に癒されていった。

でも、彼女は3カ月前のある時言ったのだ。「あなたの子供が欲しい」その一言がどれほど二人を隔てることになるのか、それでも彼女にとっては、言わずにはいられないことだったのだろう。「あなたの子供が欲しい。別に結婚してくれなくったっていいんだから」。そして、続けた。「別に結婚してもらわなくったっていいって本心なの。心からそう思っているのよ。あなたとの子供がいて、時々会えて、そしてたまにはエッチが出来て、それだけで私は幸せなの」

私もそのとき、出来た女だなと思った。

 「それで、あなたは何て言ったの」

 「駄目だって言った。産んじゃあ駄目だって言った」

「それで、子供を作りたくないって言ったあなたに、彼女は怒ったり、泣いたりしなかったの?」紀美子が突っ込んできた。

「暫くはね。しなかったからこそ、困ったんだよ。泣いたり、泣いたりすれば、男の方だって、あんな女、って言って軽蔑することもできるじゃないか。でも、彼女の心が痛いほど分かって、それでまた惚れて、そしてもっと不憫になったんだ。どうしようもなかったんだ。捨てられなかったんだ、なかなか・・・・。それから色々あって、結局気まずくなって彼女が別れてもいいって言っているのに、僕の気持ちがまだふっきれていないんだな」

「彼女、千春さんって言ったっけ、彼女と、まだ続いているの?」

「いいや、彼女はもう心を決めてしまっているみたいでね。1ヶ月前までは、なんとか部屋には入れてくれるんだが、いつも最初は険悪なムードさ。『なんで来たのよ』って責める。話していると昔の良かったときのことを思い出してきて、楽しい気持ちになることも多いみたいだけれど。行為が終って、朝起きると、能面みたいな顔になって、『早く出て行って』って言っていた。それがダラダラ2ヶ月ばかり続いてね」

「やっぱり捨てた方が良さそうね、そのお守りと、そして写真・・・・」

「いつもらったものなの?」

「ごく最近だよ」

「なんでお守りなの?」

「正確に言うと、僕があげたお守りを返してきたんだ。写真も添えてね」

「なるほど、そういうことだったのね」

写真を撮るつもりなんか最初は無かったのだ。付き合いだして最初の頃は、女房にばれたときのことを警戒して、書き物や写真なんかを残さなかった。もともと、不精者で自分から手紙を出すことも無いし、写真だって、女房に言われなければ自分の子供の写真だって撮ることは無かった。だから、千春の写真を撮りたいなんて、自分から思ったことは無い。

「ねえねえ、あたしたちって写真を撮ったこと無いよね?」春の代々木公園の陽だまりの中で、千春が言ったのだ。

「あたしさあ、売店で使い捨てカメラ、買ってくる」

それまでの自分なら、「よせよ、そんなこと。俺は嫌いだよ」って言ったと思う。でも、その時の千春は強硬だった。

「いいじゃない、あたしだけ写してくれればいいから」と言って強引に私にカメラを持たせ、ついにははしゃぎながら通行人にツーショットをねだった。その時、私はそれ以上拒まなかった。でも、千春は私のそうした消極的な態度が気に入らなかったらしく、それ以降はもう写真を撮りたいなどとは言わなかった。

「いつお守りをあげたの、あなたは?」紀美子の言葉で我に帰る。

「半年前かな、一番千春と一緒にいたかった頃だね。写真を撮ったのもあの頃さ。あの頃は女房とは本当にもう別れる寸前までいって、だから千春とやり直してもいいって考えていたんだ。僕の方からそういう方向に仕向けていたくらいなんだから。本気だったかどうかは今でもよく分からないけどね。でも彼女は『あなたとは今の関係を続けていければいい。妙なことを考えたら、あなたはどこかへ行ってしまうわ。私は、あなたと時々一緒にる時間がありさえすればいいのよ』そんな風にいっていたんだ。子供を産みたいと言い出す前までは」

「ふーん、つまり半年前には寂しかった、そしてこちらになびくように仕向けていた。それで3ヶ月前に『子供を作りたい』と言われた、ということね。その前までは、『時々一緒にいられればいい』って彼女は言っていたのに、どうせあなたの方が『もっと長く一緒にいたい』とか『一緒に住みたい』とか言ったんでしょ」

「まあね。ずるいよね男ってやつは・・・」

「男がみんなずるいんじゃ、ないのよ、いい。」紀美子はきまずくならないように、わざとふざけた感じの言い方をした。

「あ・な・た・が、ずるいのよ」

「・・・・そうかもしれない」私は口篭もった。

「そうかもしれない、じゃないの。そ・う・な・の」

ズバっと切り込む紀美子の言葉に険はなかった。私は素直に自分が悪かったと思った。

「ひどいわね。そう仕向けておいて、『子供を産みたい』って、彼女がその気になったら、理屈をこねて出来ないというわけね。まあ、あなたには出来すぎた女だったってことかもしれないわね。自分と比較して、自分の馬鹿さ加減が嫌にでもなったんじゃないの?」

私はため息をつく。全くその通りで、反論の余地がない。仕方がないので、言葉をつなぐしかない。「まいったな」と。

「あのさ・・・・包丁を出してきたってさっき言わなかった?」

「そんなこと、言ったっけ?」私はちょっと戸惑う。今まで誰にも言ってこなかったこと。

「言わなかったっけ?なら、あなたが心の中で思い出したのを私か感じ取ってしまったのね、きっと。ほら、空港の手荷物検査で金属探知機を使うじゃない。金属は、よく反応するのよ」

「そうだね、このお守り、もう捨てなきゃいけないってわかっているんだ。どうせ捨てるんだったら、話してしまってからにしよう。誰にも話したことがなかったんだ、これまで」

私は、彼女なら別にどんなことをしゃべっても大丈夫だと直観していた。私は自分のことを人に打ち明け話をするのが得意ではない。時には、全部しょいこんでしまう。それはそれで悪いことではないと思っているのだが・・・・。

「そりゃ当然別れ話の時だよ。ちょうど1ヶ月前の話さ。あの時から本当に心が離れ離れになった」

私は続けた。

「女ってのは敏感だよね。男の心が冷えていくのがすぐ分かる。分かればあとは彼女の中でフラストレーションが広がる。そして、彼女の理屈が表れてくる。『あなたはやっぱり冷たい人だった。奥さんの気持ちが分かるわ。あなたは他人を愛せない人だわ。』そして、落ち込んで、苦しんで、そしてとたんに、すごく不健康な顔になって・・・・。『こんな私にしたのは、あなただ』それが彼女の理屈だった。『許せない。あなたがこの世にいなければ、あなたと出会うことが無ければ・・・』そして、包丁を出してきたんだ」

「ちょっと待ってよ。彼女は別れたかったのに、あなたが煮え切らなかったのよね。彼女は、はっきりさせたかったんじゃない?」

「まあ、そういうことだ」

「包丁を見たとき、殺されると思った?」

「いいや。でも、数%でもそういう可能性があるのは怖いよね。ずぼっとやられたらお終いだから・・・。でもさ、人間って不思議だよね。言い争って、死の危険を少しだけど感じて、でもそのあとすぐ眠くなって、グースカ寝ちゃったんだよ。現金なものさ」

「その時に、お守りを返してもらったの?」

「ああ、まあね。そういうことだね」そう僕が言ったとき、彼女は少し怪訝な顔をした。

「ところで、そんなあなたを彼女はどう思って見てたんでしょうね?」

「彼女とは、あれから会ってないのでまだ聞いてないけど、恐らく呆れたんじゃないのかな。で、きっとこんな男と時間を共にしてきたのを後悔したんだ」

「一度聞いてみたいものだわね。呆れたんじゃなくて、馬鹿みたいな顔して寝ほうけているあなたをいとおしく思ったかもしれない。あるいはこんな男と一緒に時間を過ごしたことを心から後悔したのかもしれない。ただ吹っ切れたことだけは確かかもしれないわね。あなたも彼女も。でもあなた、別れた女から返してもらったお守りをこれからずっと後生大事に持っていくつもり」

「さあ・・・でも、何かお守りを捨てるのは嫌な気がしてね」

「見ると心が疼いたりするんでしょ?」

「ああ、でもこのお守りがなくっても時々思い出して心が疼くんだな、これが。だけど、男にとって女の事で心が疼くのは、けして嫌じゃないんだよ。一つの思い出だからね」

「女は違うわね。嫌な思いでは、忘れたい。つまらない男のこともすべて・・・」

それから、ちょっと考えて、紀美子が尋ねる。

「それで、奥さんは、一部始終を知っているの?」

「ああ、千春と付き合いだした時から。感づいていたようだ。時々『きょうは女の所に行くのね』なんて嫌味を言われた。でも本当だから反論できなかった。あんなことがあった今も、女房はまだ疑っている。付き合っているときも、別れたときも、はっきりさせなかった僕が悪いんだ」

「ねえ、あなたまだ隠していることがあるでしょ」

私はどきっとした。

「そのお守りもらったの、本当に包丁を出してきた時? あれから会っていないって本当?」

「そうか、何でもわかってしまうのか」

私は、観念した。

「実はね、その、あれから彼女に会いに行ってしまったんだ」

「会いに行ったって・・・」

「正直に言うと、彼女の家ではないんだよ」

「じゃあ、どこなのよ、はっきり言わなきゃ、楽になんかなれないわよ」

「彼女の仕事場だよ」

「ってことは、ソープね。客として行ったのね。客なら拒めないものね」

「まあね」

「でも彼女寂しそうにしていなかった」

「うん、最初びっくりして、でも淡々と他の客にやっているようにしたんだと思う。その時に、お守りと写真を返してきたんだ」

「ということは、仕事場にも持ってきていたということね」

「そういうことになるな」

「そして、それで終ったということね。どんな気持ちだった」

「哀しかったよ。とても哀しかった。もう取り返しがつかないって思い知らされた。お金払って会いに行った自分も間が抜けているし、もうそれまでの関係は終ったということが・・・僕にも、分かってしまった。だから、もう絶対の会いには行かない。だから、やっぱり君の言う通り、このお守りは捨てた方がいいんだ」

紀美子の意味ありげな口元は、優しく微笑んでいた。

紀美子は、ずっと家の外に出なかった。そして、わたしにもそうさせた。テレビもラジオもとうに捨てられ新聞も止めてしまっている。インターネットも業者とのやり取り専門だから、私はもう世間で何が起こっているのか、まったく分からなくなっていた。そして、それが嫌ではなかった。日経を毎日読まないといけない生活なんて、異常だとこの時気付いた。本当は、もっとずっと前に気付いていたのだけど・・・。

 

<3日目>

次の日は、嵐のような天気だった。多分台風だったんだろう。テレビもラジオもないし、敢えて調べる理由もなかった。ただ、風が強く、雨の激しい天候だった。それ以上の意味はない。大雨の後に快晴が空を覆った。

紀美子は、きのうよりも明るくなっていく。一昨日よりもずっと明るくなっていた。大事にしてきたものを私にめがけて放出できることが気持ちが良いのだろう。そして、きょうもまた物を捨てていける。

 「きょうは、ギーの本を処分しようと思っているの」

 「蔵書を全部捨てるということかな?」

 「そうね・・・そういうことになるわね」

 「ほら、これギボンの『ローマ史』、白州正子の陶磁器の本。プルーストの『失われた時を求めて』、小林秀雄の『モーツアルト』、カミュの『異邦人』。みんな私のためにギーが説明してくれた本よ」

 「結構インテリっぽいのが好きだったみたいだね」

 「ギーは、もっとややこしそうで、訳の分からないものを読んでいたわ。歴史書とか哲学書とかがお気に入りだったみたい。今言ったようなような本は、無学な女の子に最低限の知性を持ってもらいたいって私に読ませたのよ。最初はちんぷんかんぷんだったけど、ギーは話術の天才だった。彼にかかれば、どんな難しい本も私にわかるようなただの知識の宝庫にかわってしまうようだった。今私が映画や美術、それから文学や歴史なんかにも興味を持てるのはみんなギーのお陰なの。本とギーの言葉を通して、私は知性を獲得することができたのよ。今思えば、田舎にいたとき、私は何にも知らない田舎娘だった。自分の感情もコントロールできずに泣いたり騒いだり。母を恨んだり、自分の身の上を嘆いたり、そんなことしかできなかった。でも今は違う。私は、私を客観的に見つめることができる。『知性があれば、人生楽しく生きていられる』いつもギーが言っていたわ。そして、私に強い直観力、つまり霊感があることを教えてくれたのもギーだった。世界のことを知れば知るほど、私には直観力があることが分かってきたのよ」

 「どれ位強い直観力なのかな」

 「まあ、霊媒ほどのものではないわ。人の心が人より良く読めるということみたいだし、時々、『こういうことに違いないわ』と訳もなく納得することがあって、そのとおりに行動すると、予想されていたことが起こるのよ」

 「そうか、僕にもその感覚は良く分かるさ。ところでギーって、どんな男だったの?」

 「さ、そろそろきょうの私の話はおしまいにしなくっちゃ。きょうは話すことよりも物を捨てることよ。彼のことは、あなたにどうやって話すか、今頭の中で整理しているところ」

 「分かった。それじゃ、書斎とあなたの部屋にある夥しい量の本を、家の外にある例の場所に置いておけばいいんだね」

 「そう、そういうことよ」

 「本当に全部捨てていいのかな?これからの人生で、どれかの本をまた引っ張りだしたくなる時があるんじゃないのかな?」

 「いいの。私の頭と、心と、体に、ギーのやり方が染み付いているわ。セックスしている時もギーの教えてくれたやり方でやっている自分に気付くわ。でもね、私は私。これからは自分のやり方を作っていかなくてはならないんだ。本なんか、今の私にしてくれた栄養でしかない。毎日取る栄養素は、今の自分に大事なのであって、明日は明日にふさわしい栄養を取るしかないでしょう」

 その日は、本の整理が大変だった。紀美子は、インターネットでダンボールとガムテープを注文していた。私は、手当たり次第書棚から本を抜き取っては、ダンボールに入れ込んだ。本を入れてあった本棚も捨てるのだ。彼女の言うように、夥しい数の哲学書、宗教書、歴史書、洋書、そしてそれらに混じって経済・金融の本が結構あるのに驚いた。このギーという人物は一体何者なのだろうか?

 「田口さん、その部屋の本棚は作りつけだからそのままでOKよ。それ以外の部屋の本棚は重いけど、やはり外に出してくださる?」

 「了解」

 3日目は、捨てることで過ぎていった。私の腕の中で抱かれながら彼女は私のするがままにまかせていた。それまでのやり方を捨てて、新しい自分を見出そうとでもするように。

 満月は、少し欠けだしていた。月も久しぶりにじっくり見ると、表面に表情があることがわかった。このまま何日ここにいるのだろうと、私は思いながら寝てしまった。

 

4日目>

 今度はまた私の番だ。

アフタヌーンティーを飲んだ頃から、何の話をしようか考え出した。

鞄の中からは、お守り一つをようやく捨てたに過ぎない。私は、とにかく鞄の中身を検証した。コンタクトの補助用に使っているメガネ、食べ過ぎたときのための胃腸薬、キズテープ、駅に時刻表、ロマンスカーの時刻表、経済雑誌、スポーツ雑誌、今読みかけの文庫本、歩いているときに英話を聞くときのMDプレーヤー、英語のニュースの入っているMD、経済新聞を朝読むときに聞くヒーリングミュージックのMD、夜の電車の中で聞くジャズのMDMDの充電用電池のスペア、コンパクトなレストランガイド、小さな東京マップ・・・・。機能とそして、ビジネスマンとして何とかサバイブしていくためのグッズが一杯溜まっている。そして、そのグッズが集まって、重さが倍加され私の行動を制約していく。一つ一つは便利なのに、本当に必要な物なんか一つもない。そのことに思い至ると、また馬鹿馬鹿しくなった。何にも要らないのだ、本当は・・・。

 「でも、もっと違うものが入っているでしょう」紀美子が私の目を見る。

 「奥さんと子供さんの写っている写真がはいっているんでしょ」

 「どうして分かるんだ」

 「勘よ、私にはあなたより幾分強い直観力があるのを忘れないでね」

 「その写真は困る。捨てたくない」

 「いいから、まず捨ててみなさいよ。探せばネガがどこかにあるんでしょ。まず捨ててみれば分かることだってたくさんあるんだから」紀美子は悪戯っぽい目をしている。

 「はーあ、仕方がないな」私はため息をつく。

 「家はね、別にそんなに変わった家族じゃないって思うんだよね。30代半ばの何の変哲もない専業主婦と小学校4年生の一人娘だよ。どこにでもいる3人家族だと思うんだ。少なくとも、あの男が家にちょくちょく来るようになる前はね・・・・・・」

 「あの男?」

 そう、あの男だ。名前は片瀬一郎って言った。

 ある日、私がまだ千春と付き合っていたときだから、4ヶ月前のことだったろうか。

 「あなたが中途半端に彼女と付き合っていて、まだ彼女も戸惑っていた頃よね」

 「相変わらずはっきり言うよな・・・」

 「あたしね、結構容赦ない性格なの。でも、あなたにはそうされることが必要なのよ。はっきりとあなたの過去と今を整理することが・・・」

 「はいはい、分かりました。・・・・・そんなある日、いつものように家に深夜12時頃帰ると、男がいた。それで、僕の寝巻きをきて、ソファで、いつも僕が座っているところに座っている。それで、『ああ、始めまして、片瀬一郎と言います。ちょっとご厄介になっています』とか言っているんだ」

 「僕もね、君と同じで単刀直入な男だから、家内にすぐ聞いた。片瀬の目の前でね。『一体この男は何なんだ』とね。恭子、いや僕の名前は恭介、偶然同じ漢字の似た名前の女と結婚したということなんだけど、その恭子がね、こういうんだよ。『この人ね、Eメールのメル友の弟さんなのよ。頼まれちゃって、暫く預かることにしたの。性格が良くてね、料理も出来るし、家事は何でも抜群、子供の面倒見たり勉強教えたりも上手なのよ』恭子が言うんだ。でも俺はね、彼女の表情の中に、少しだけど、してやったりといった気持ちを感じたんだ」

 「でもね、何だか狐につままれたような気がして、とりあえず『君は一体何歳なんだ?』と聞くと『28歳』、『仕事は?』と聞くと『プータローです。家事をやりますから、食事と寝る所だけは貸してください。本当は、映画の脚本の通信教育受けていて、3ヶ月に一度課題を提出し、将来は、映画のライターになりたいと思っています』って言うんだよ」

 「で、どんな性格の人?ハンサム?」

 「それが、爽やか系の男でね。そんなにハンサムでもなく、男臭さみたいなものは微塵も無いんだ。それで、自分というものがしっかりあって、あまり他人に入り込んでいかない、今時の若者っていうことかな」

 「そう、要するに、家猫みたいなもの?」

 「そうだね、色々と気がつく男でね、女房が『家付きプータロー』って呼んでいた。家猫って言葉あるじゃない、全く、良く言ったものだ」

 「女房によると『失業して、私のメル友の女の人、・・・つまり、片瀬のお姉さんのところに転がり込んできたんだけど、そこの夫婦仲が今最悪でね、旦那がとにかく追い出せ』って言ったらしい。もう両親も早くに亡くし、姉と弟二人だけの係累だっていうんだ。『うちだって、夫婦仲良くないじゃないか』って言いかけて、言葉を飲み込んだよ。女は容赦ないよ、『外に女がいる亭主の女房が、家に男を入れちゃいけない?瑠璃の教育だって私一人じゃ不足だし・・・』とか言って押し切られてしまった。脛にキズがあって、強く言えなかっのさ」

 「『おい、夫婦の寝室だけには入れるなよ』という約束を女房と男にさせるのが精一杯だったんだ」

 「その男、片瀬って言ったっけ、田口さんは嫌な奴だと思った?」

 「それが結構いい奴なんだよ。人が疲れて帰ってくると、ビールは出すし、おつまみの一品も作ってくる。ちょっと話し相手が欲しいなというと、ちゃんと合いの手入れて聞いてくれるんだ。気が利くって言うか、優しいっていうか、あれが女だったらきっといい奥さんになったと思うよ」

 「奥さんは、家事をしなくていいっていうわけね」

 「もともと家事が嫌いで、子育ても面倒、っていうタイプの専業主婦だからね。渡りに船っていう感じかな。子供も遊んでくれるっていってなついているし・・・」

 「ふーん、何か聞いていると彼が来てから家庭がうまくいっているみたいに聞こえるけど・・・」

 「そういう面もあるけどね」

 「奥さんと一緒の屋根の下にいて、出きちゃったっていうことは?」

 「さあ、わからないね。でも、片瀬にしてみれば遊びの域を出ないと思うよ。20代後半で、10歳も年上の女と真面目につきあうかどうか。それに、脚本家として、映画作りをしたいっていう夢もあるみたいだし。そうだ、この前なんか、夫婦でさ、夫婦喧嘩をしていたらね、片瀬の奴、ノートにメモ取ってるんだよ。僕が気が付いて、『何やってんだよ』って追求したら、シナリオに是非使いたいって言うんだよ。夫婦喧嘩も、ちょっと拍子抜けしてね」

 「それで、何が問題なの?」

 「家庭でね、だんだん俺のいる場所が無くなっていくような気がするんだ。車の運転も上手だし、電気製品が壊れても器用に直してしまう。朝のゴミだしだって、前は俺が嫌々とは言えやっていたのに、今じゃ片瀬がやってくれる。子供の勉強の教え方だって、相当にうまいんだ。なんでも、早稲田を出ていて塾の先生を相当長い期間やったらしい。僕だったら『なんだ、そんなことも分からないのか』ってつい怒鳴ってしまうことだって、丁寧に教えているよ」

 「それでも、あなた、このままじゃいけないって思っているわけね」

 「もちろん、このまま行ったら、家族崩壊だよ」

 「いいじゃない、崩壊するものなら、崩壊させればいいじゃない」紀美子は悪戯っぽく言い放った。

 「何を無茶苦茶なことを言っているんだよ」

 「ちょっと貸して・・・」そういうと紀美子は、置いてあった家族の写真をつかみ上げ、びりびりと破いてしまった。

 「何するんだ、毎日この写真を見ているんだぞ」

 「そういうのがいけないのね。たかが、写真じゃない。捨てればいいのよ。写真だけじゃない、家族だって、一度捨ててみればいいじゃない。そう、捨てるのよ、一度捨ててみるのよ、捨ててみなければ分からないことだってあるはずよ。あなたが、今ここにいるのは、捨てるためにいるのよ。私があなたをここに連れて来たのよ。田口さん、あなた一度すべてを捨てるのよ」紀美子は、この時だけは真顔だった。

なんだか写真が無いと、家族の実感がなくなったような気がしていた。一緒にもいないし、写真も無くて、どうやって記憶をたどればよいのか、少し分からなくなっていた。この家に来て初めて寂しい気がした。

月には、相変わらず雲がかかっていた。一点の曇りの無い満月は間抜けな気がする。適度に雲がかかっていたり、欠けていたりする方が月らしいのではないか、と思った。

 その日は、紀美子と寝なかった。なんだかそんな気になれなかった。家族の写真を破かれたことも癪に障っていた。でも本当は寂しかったのだ。素直のそう考えることにした。なかなか寝付けなかった。でも、朝まで眠れないということは無かった。「捨てる」「捨てる」という言葉を何度も頭の中で唱えていた。しかしその内「捨てる」が「捨てられる」に変わっていった。自分が捨てるのではなく、家族の方が自分を捨てることだってあると思い始めていた。そう考えると、今まで家族のために自分がやってきたことが途方もなく悪いことであるような気がしてきた。

そんなことを思い巡らしているうちにいつしか眠りに落ちていた。ここに来て初めて恭子と瑠璃が夢に出てきた。

 

5日目>

 その日は、朝から私は口数が少なかった。物事というのは、少しずつ沈殿させていった方が良い場合もある。プロの小説家などは毎日骨身を削るようにして文章を重ねていくのだろう。私は、ただのサラリーマンである。毎日、こうして物語のように過ごしていくのは慣れていないのだ。

 午後になって、私はできるだけ軽い口調で紀美子に話しかけた。

 「ところでさ、ギーは今どこにいるの?」

 「そうね、きょうはその話をしなければいけないと思っていたのよ」

 「どっかに行っちゃったのよ」

 「失踪?」

 「さあ、分からない。連れ去られたのか、自分の意思で消えたのか」

 「何か、残さなかったの?」

 「きょう捨てる最初のものは、これ・・・」

  紀美子は、押入れからちょっと古びた手紙を出してきた。

 私は、手紙の文面がいかにも作り物みたいに思えてきた。この体験自体ゲームみたいな気もするし、ただ彼女に遊ばれているのかもしれないと思うことは何度もあったが、これはあり得ることだという自分の実感を信じてきた。疑おうとすればいくらでも疑える。彼女がキツネで、私を化かしている、と言われればそうかもしれないと思えなくもない。半信半疑という表現がぴったりだろう。手紙には、走り書きで、こんな短いことが書かれてあった。

 

 <手紙の文面>「紀美子へ  私は、訳あって身を隠さなければならなくなった。急で悪いが、暫く遠いところへ行っている。一応、半年以内には戻るつもりだが、念のため君の銀行口座には3年間遊んで暮らせるだけのお金を入金しておいた。警察や友人には一切連絡を取らなくていい。いや、警察や友人には絶対に連絡は取らないで欲しい。ただ『暫く海外へ行くといっていました』と言っておいて欲しい。万一、3年間経っても帰らないときは、私はもう帰らないと思って、この家と土地や家のすべてのものを売り払い、そのお金で新たな人生を初めて欲しい。君も知っている弁護士には、私の方から連絡しておく、きっと困った時に力になってくれるはずだ。寂しい思いをさせてすまない。君と会ってこれまで、私は今までの人生で本当に幸せな時間を過ごすことができた。感謝している。   愛する紀美子へ、YN

 

 「本当の話なの?」

 「うん、そう。3ヶ月前にね、3年経ったのよ。私はギーがいなくなってから、ずっと泣いていたわ。来る日も来る日も、忠犬ハチ公みたいなものね、家の周りをうろうろしたり、あの人が勤めていた会社へ行ってみたり・・・」

 「会社勤めしてたの・・・。意外だな、何かもっと大きなことをしていたのかと思った」

 「証券会社よ」

 「証券会社かあ・・・」

 「いなくなる3年くらい前まではね。X証券の系列経済研究所で調査の仕事をしていたわ。バブルの頃にすごく有名になったみたいね」

 「えっ、それで、ギーの苗字は何だっけ」

 「西村よ」

 「西村義雄・・・、知っているよ。僕もジャーナリストの端くれだ。バブルの頃に、内需相場を引っ張るような有名なレポートを書いた」

 「私が出会った頃は、ちょうどバブルも崩壊する頃だったけど、会った頃はもうかなりの有名人だったみたいね」

 「有名人も何もないさ。日本は世界一の債権国になる、だから土地を持っている会社の将来の価値を評価して、鉄鋼を始めとする内需関連の株を推奨する、その分析に日本の株式市場は呼応して最高値をつけたんだ」

 「彼、でもね、私と会った頃は落ち込んでいたみたい」

 「そりゃそうだろう。自分の理論が大きく外れたんだから」

 「そうじゃないのよ。彼は私の前でだけは本音を漏らすことがあったの。こう言ってたわ。『バブルの崩壊は、私には分かっていたんだ』ってね。私に歴史の話をしてくれるときに、ポロっと漏らしたわ。負け惜しみには聞こえなかった。『日本の社会も変わらなくっては、ならない。普通のことをやっていたのでは日本人は、変われない。外的なショックが必要なんだ。バブルの生成もバブルの崩壊も私のシナリオ通りに動いている。あとは、日本人がどこまで変われるかということだ』ってね」

 「歴史、哲学か・・・西村義雄の調査レポートはギリシャ神話の話から聖書の話、方丈記や高杉晋作・・・というふうの格調高かったものなあ・・・。ところで、何でギーは落ち込んでいたんだろう?何か言っていなかった?」

 「ギーは言っていたわ。『私は日本人を買いかぶりすぎたかもしれない』って、『日本人はやっぱりそう簡単に変われない』って。『私は、間違っていたかもしれない』って・・・」

 

 彼女の話を聞いていて私にはある疑念が湧いてきた。彼女はすごいことを言っているのかもしれないのだ。バブルを演出した西村は、崩壊することを承知でバブルをわざと作った、と紀美子は言っているのである。だとすると何故?お金?つまり、相場操縦の疑惑のあった米系証券と結託して一相場作り、高値で売り抜けて大儲けすることも可能だったはずだ。もちろん、証券取引法上はクロであるが・・・。そのことが発覚しそうで会社を退職、そして身を隠さなければならなかったのだろうか?

彼は胡散臭いインチキ野郎だったのだろうか?

なぜか、私にはギーという男が悪い男ではないような気がしている。ただ、そんな気がしているだけだ。例の超能力なのか、ヤマカンなのか、それはさっぱり分からない。ただそんな気がしているだけだ。

それに彼女に対する好意みたいなものも作用しているかもしれないと思う。彼女を「飼育」して一人の女にしたギーと言う男、その男には、胡散臭い金儲けではなくて、裏切られた男のロマンみたいなものがあって欲しいと思う。

それにしてもギーはなぜ、消えなくてはならなかったのだろう?その日、私は時間のあることをいいことに自分自身の仮説を立ててみることとした。

時間はたっぷりあった。あれこれ考え、考えることを楽しんでみた。どうせ、考えた結果を発表するでもない。ただパズルを解くように因果関係と必然性を検証してみた。そして、結果として、バブルを発生させて日本の富を収奪しようとした外国エスタブリッシュメントと西村は通じていた可能性もある、ということにしてみた。物事、誰が仕掛けたことなのかは、最終的に最も利益を得た人間が仕掛けていたということが一番多いと先輩記者に教えてもらったことがあった。企む人間は、自分に主導権があるのだから、最も有利に立ち回るれるというわけだ。日本人は、バブルとその過程の中で儲けるどころか、ほとんどの人はメリットを享受できなかった。出来たのは、米系の証券会社など、外人たちであり、日本人は収奪され未だにバブルの後遺症に悩まされている。

 

 「ねえ、田口さん、スパイ映画みたいに推理するのはいいけれど、今となっちゃあ何にも証拠が残ってないのよ。ギーの書斎を私は探してみたわ。何か、失踪の手がかりが無いかって・・・・。でも、ギーは全部処分してしまったようなのよ。何にも残っていない。きっと覚悟の失踪だったと思うわ。私には何だか分かるの。彼、この日本から消えてしまいたいと思っていたのよ」

 「そう・・・。バブルの時に何をやっていたのか、全てを自分の失踪と引き換えに闇に葬ったというわけだね」

 「何にも残っていないどころか、あの人の存在自体を思い出させるものがどんどん減ってしまっているの。とうに両親は死んでいるし、兄弟もいない、コンタクトしてくる友人も減ってきている・・・」

 「紀美子は結婚したんだろ?」

 「ううん、違うのよ。どっかに奥さんが生きてるって言ってたわ」

その時だけ紀美子はちょっと寂しそうだった。少しの沈黙。

「もうその時は両親は死んでいた、って彼は言っていたし、兄弟がいないっていうのも彼から聞いたわ。今となっては、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかも分からない。でもね、私には分かるの、彼は私利私欲だけで動くような人じゃなかったって。仮に、バブルを演出したとしても、それはそうすべきだっていうギー自身の考えによるものだと思う。そう思いたいの」

 

 「ところで、ギーってどんな感じの男だったんだ?」

 「そうね、何て説明したらいいのかしらねぇ。お父さんみたいな人。腕が太くって、胸板が厚くって、声も太かったわ。いつも落ち着いた物腰で、優しかった。私、ジジ好なのね、きっと。私にとって彼は全てだった。言えるのはそれしかないの。彼はすごく大きな手をしていたわ。野球選手みたいな手ね。甲子園に出たことがあるって言ってたけど・・・・。よく作り事の話をして、あとで『あれ、嘘だった。良く出来た嘘だろ』っていうから、あてにならないけどね。いつも陽気で、エネルギッシュで、始終ジャズを書きながら、資料に目を通したり、書き物をしていたわ。あとは山ね。私に山歩きの面白さを教えてくれたのも彼だった。私、ほら、生み育ちでしょう。山のことなんか、何にも知らなかった。草の匂いのする秋の空気、春の山のざわめき・・・・。みんな私には新鮮だった。海のことがうんざりだったこともあるかもしれないけど・・・」

 

 「知っているよ、西村義雄は経済の本だけではなく、山歩きの本も出版したよね。ちょうどバブルのさなかだったんじゃないかな?あれね、直接は関係なかったのだけれど僕の

会社から出したんだ」

 

 「そう・・・」

 紀美子はギーのことを語るとき、体を乗り出すようにして話をした。そして、彼のことを考えていると段々息苦しくなっていくように見えた。私は、話題を変えたいと思った。

 

 「で、何を捨てるんだい、きょうは?」

 「ギーの思い出、全部よ。書斎にあるギーの持ち物、ギーの衣服、調度品全部を運び出して欲しいの。その間、私は彼の思い出を心の中から消していくの」

 ためらいながら、しかしできるだけ自然な感じを出そうとしながら、紀美子が言った。

「彼の思い出を捨て去ったあとのこととして、一つお願いがあるの」

私は、何のことかと訝った。

 「私を抱いて欲しいのよ。きのうあなたは私を抱いてくれなかった。きょうはお願いだからあなたのやり方で愛して欲しい。私は私自身のやり方で応じるわ。ギーから教えられたやり方ではなくね・・・。私も生き直したい。一つ一つ、やり方を変えていくつもりなの。ギーから教えてもらったことを捨てる、それが私のきょうの、そしてこれから暫くのレッスンになるわ」

 月は、また少し欠けた部分が大きくなっている。毎日月の変化を見るなんて、一体何十年ぶりなんだろう。

 

6日目>

 紀美子は朝から、これ以上すっきりした顔はないというくらいに爽やかな顔をしていた。家の中は、大概の家具や器具が外に持ち出されてしまい、ガランとしている。窓から見る外は雨が降っていた。荷物を外に運び出す以外、暫く外に出ていない。外界のニュースも知らない。出たいとも思わなかったし、紀美子から、「暫く我慢してね。そうしないと今やっていることが無意味になるの」と言われていた。「今やっていること」が一体何なのか、そう言われたときは、少し疑問だったけれど、今はこれも確かに意味があるのかもしれないと思いだしている。気持ちが、少し軽くなっている。この家に来る前のムシムシするような閉塞感は今はない。

 窓の外には、オレンジ色の花が咲いている。マリーゴールドかなと思ったが、背がかなり高いので違うかもしれない、と思った。夫婦の仲がうまくいっていたときは、鉢植えの花を時々買っていった。マリーゴールドは私の好きな花だった。夫婦の仲が悪くなってからは、鉢植えを買って帰ることがなくなった。それより花束の方が多くなった。理由は簡単だ。それの方が恭子が喜ぶからだった。心の中で恭子に引け目を感じていたのかもしれない。

 私の買っていたマリーゴールドは、背の低い鉢植えだった。あんな小さな背のものでも、ちゃんと育てれば、あれくらいに大きくなるのだろうか?いつも、次のシーズンにも花を咲かそうなんて考えたことが無かった。育てていくことを考えたいと思った。

 「私はね、もう捨てるものはないわ。田口さんも今日くらいで終わるんじゃない」

 「うん、きのうの夜からずっと考えていて、一つだけまだ心に引っかかっていることがあるんだ。きょうはそれを紀美子さんに聞いてもらおうと思っている」

 「そう、自発的に話してくれるのね。それって、仕事のことでしょう」

 「そう、仕事のこと。良く分かったね。」

 「男で、仕事のことで悩み事のない者はいないわ」

 「これだよ・・・」私が鞄の中から取り出したのは「辞表」だった。

 「行き詰まってたんだよな、魔がさしたと言ってもいいと思う」

 「何をしたの、あなた?」紀美子は静かに尋ねた。その声は、できるだけ、非難めいたニュアンスを消し去ろうとしていた。

 「記事の盗用・・・。僕が編集者をやっている政治・経済の雑誌でね、穴があいちゃって、つまり締め切り前にキャンセルになったところが出てきて、何かの記事を明日の朝までに書いて穴埋めをしなければいけなかったんだ。僕は、それまで煮詰まっていたというか、ちょっとスランプでいい企画もずっと出せず仕舞いだったから、このままだと首、だから配置換えが待っているって、警告を副編集長から出されていたんだよ。だから、そのとき、『僕にやらせてください。とにかくその2ページ分、明日の朝までに何とかします』って大見得切っちゃったわけだよ」

 「勝算はあったの?」

 「うん、そもそも時間が無いから、ちゃんとした取材なんかできるはずがないよね。ちょっと溜め込んでいた企画があってね、首相の経済ブレーンの過去の業績についての解説記事なんだけど・・・、まだ取材がちゃんとできない状況だったから、インターネットで急いで検索を始めたら、あったんだよ、僕が探していたのとイメージがぴったりの情報が・・・、で、その記事を下敷きにして、少し書き換えれば一応の記事が出来ると思ったんだ。それで、I教授という人のホームページの情報をいったんパソコンに落として、手を加えようとしたんだけど、内容が結構難しいんだ。正確な記述を心がけていたら全然手が入れられないんだ。他のホームページに類似の情報があれば、内容を合成してしまえばいいと思ったんだけど、生憎出来の良いのは、さっき言ったホームページだけなんだ。何度も何度もその文章を読んでいたら、簡潔で分かりやすくて、内容が濃くて、本当に良く出来た内容だったんだ。『これじゃいかん』と思い直して、いったん新しいワープロの画面にして自分の文章で書こうとしたんだけれど、さっきから読んでいたI教授の文章が、あまりにも印象深かったんで、そのまま出てきてしまうのさ。『参ったな、どうしようかな』と何度も、自分の文章をリセットして書き直そうとしたんだけど、ダメなんだ。ダメなんだよ。そうこうしているうちに夜が明けてきて、疲れも最高潮に達していくどろう、それで、『今度こそは最後だと思って、自分の文章で直そう』って思って、最後に文章書いたんだ。多分、半分くらいは自分の文章、半分はI教授の文章ということだったと思う」

 「出来は、どうだったの?」

 「それなりに面白い内容になってね。編集長や副編集長から誉められたよ。短い時間で良くやったとね。やれば出来るじゃないか、とね」

 「でも、どうして辞表を?」

 「うん、そのI教授がね、運が悪いことに僕の記事を読んだんだ。マイナーな雑誌でそんなに売れてないのにね・・・。そして、さらに悪いことにその教授がね、日本における『知的所有権』や『著作権』についての政府の諮問委員でね、まあ、温厚な人柄みたいなんだけど、僕に先週コンタクトしてきてね、話を聞かせてくれって会いに来たんだ。本当だったら、事情を副編集長に話をして会社として対応していかなくちゃいけないことになっているんだけど、立場がマズくて取りあえず自分ひとりで会った」

 「その教授なんて言ったの?まさか、脅したりはしないんでしょ?」

 「うん、いい人なんだよ。でもね、タチが悪くて。個人的なことはいいから、このケースを著作権保護の典型的なケースとして取り上げたいと思っているらしい。『著作権を無視する大手出版会社』っていう図式さ・・・」

 「それであなた辞表を持ち歩いているの?」

 「ああ、まだ副編集長に言えなくてね。I教授には、社としての対応方法を検討していますので、1〜2週間欲しい、とか嘘いっているんだけどね。いずれ白黒つけなくてはいけないんだ」

 「そう、分かったわ。私は、ビジネスのことは良く分からないけど、田口さんの話を聞いていると、こんな私でも感じることがある。あなたはね、とにかくあなたはね、守ろうとばかりしているように思う。自分で何かをしたりしても、今あるものは捨てたくない、考えがそこから必ず出発しているから出口がないのよ。とにかくまずは捨てること、ここに来てから言っているでしょう、捨てることよ。その後どうするかは・・・・・・自分で考えることね。自分の責任だもん・・・・」

 紀美子は、この前家族の写真をびりびりに破いたのと同じように、辞表を引き裂いた。ずたずたにしてから、私に向かって微笑んだ。そして、首をちょっと曲げてコケティッシュなポーズをとった・・・・・。

 「あなたの問題はあなた自身で解決しなければならないわね」

「随分簡単に言うな」

「そうよ。物事はシンプルにできているのよ。シンプルであることに気付くこと、それが問題解決の第一歩なのよね」

「シンプルな解決方法・・・・か」

間違ったことをしたのだから、それを認める。そこが出発点だということを紀美子は言いたいのだ。上司に正直に告げて、I教授と話し合う。そして、処分を待つ。この場合はこれが、一つのシンプルな方法だった。とにかく、紀美子に話したことは良かった。一人で抱えていたことを後悔した。とにかく、自分で考え、自分で行動することなのだ。

 その日の夜には一本だけ残しておいた赤のワインで乾杯をした。私も心は軽やかだった。

 外は小雨が降っていた。雨で月も濡れていた。濡れている月も微笑んで見えてきてしまう、そんな爽やかな夜だった。

 

<7日目>

 いよいよ部屋の中は、何もなくなって来た。紀美子は、衣服を始め自分の荷物の整理も進めていった。

 昼の食事を終えて、彼女が言った。

 「ねえ、きょうの夜はご飯抜きでいい?」

 「えっ、どういうこと?」

 「さっき、食事の宅配業者との取引をクローズにしたの。この家の電気も、水道も、ガスもみんな明日で切れるわ。きょうですべてお仕舞いってわけ。一食ぐらい抜いたってどうってことないでしょう。たまにはそういうことも必要じゃないかしら」

 「ふふ、夕食抜きか・・・。そんなことどれ位していないかな。オーケーだ。但し、条件付でね。白のワインがまだ一本あっただろう。あれと、チーズだけは例外にしてくれないか」

 「しょうがない人ね。ふふふ」

 ゴミで満杯になったビニール袋をたくさん作った。残ったものといえば、布団と寝巻きくらいのものだろう。

 「布団と寝巻きはどうするんだい?」

 「明日の朝、ゴミにするわ。布団はね、なるべくきつく縛って70リットルのゴミ袋に入れれば、清掃業者が粗大ゴミ扱いにしないで持っていってくれるわ。さっき、インターネットで確認した」

 「さあ、最後はこのパソコンよ。その前に、田口さん、あなた、家族や会社にメール打つんだったら、使っていいわよ。あなたが、その気ならばということだけど」

 私は、迷わなかった。妻のアドレスに妻と娘宛てにメールを出した。

 (恭子、瑠璃。 心配かけてすまなかった。明日、家に帰ります・・・・・・・)淡々とした文章を綴った。言葉では、何も表現できない。明日帰ったら、一週間の作り話をすることになるのだろう。

 会社にも、短いメールを入れておいた。

 「さあ、もういいわね」紀美子は、メールアドレスをクローズした。すべてのファイルを消し、ハードディスクの中身も消去した。パソコンの電源を切った。そして、一言私に言った。

 「このパソコンも家の外に出してね」

 引越し前の、さっぱりした気持ちを思い出した。すっきり何もない。がらんとした部屋にも、何もない。

 「ねえ、まだ一つあった」

 獲物を見つけたように紀美子が悪戯っぽい顔で言う。

 「何だよ?」

 「ふふふ、あなたのそのバッグよ」

 「これか?結構気に入っているんだよ」

 「ダメ。全部捨てるの。しばらくしたら、新しいのを買いに行きなよ。今度は、あんまり物を詰め込まないようにね」

 「ああ、そうだな。気をつけるよ」

 

 最後の夜は、空腹感と白ワインのお陰で、割り合い早く寝てしまったようだ。紀美子に甘え、溺れるのも最後だなと思うと、このまま世界が止まれば良いかな、とも思った。しかし、こんな思い出を一生抱いて生きていくのも悪くは無いと思い返した。

 

 窓越しの月を見た。きょうは雨がかかっていなかった。

 

次の朝起きると、案の定、紀美子はもういなかった。置手紙も何も残さなかった。私は、紀美子との約束どおり布団と寝巻きのゴミを作り、紀美子の家を後にした。

 

彼女は命の恩人だったのかもしれない、と時々思い出す。

結局、私は会社も辞めなかったし、離婚もしなかった。帰った当初は、家でも会社でも少し怪訝な顔をされて、質問もされたが、1年たった今では、別にみんなそんなことがあったなんて忘れてしまったかのようだ。ただ恭子だけには謝罪した。なぜか、帰って一番にやることは、恭子に謝るべきことだという気持ちが心の底から湧いてきたのである。折りしも私のいない一週間の間に、片瀬一郎も、情報雑誌の主催する新人映画祭の脚本の賞を取ったとかで、家をいそいそと出て行ったという。一週間テレビや新聞に触れなかった内に、いくつか殺傷事件があり、台風で大きな被害があり、政治状況、経済状況にも多少の変動はあった。しかし私にとっては、あの一週間の前と後では、社会に対する見方だけでもちょっとした変化があったような気がしている。何歳になっても、変化は間違いなく起きている、ということを思い知った。人間は変われる生き物なのだ。

 

私は忘れない。あの濃密だった7日間は、今や私一人の秘密であり、今この一瞬一瞬を生きる糧になっている。全てを捨ててみて残るものは何なのか、そのことを私は紀美子と一緒に考えていた。

 

あそこで起こったこと、紀美子と話をした記憶は今でも鮮明なのだが、先日不思議な気持ちになった。気まぐれでS駅で降り、紀美子と過ごした家のあたりを歩いてみたのだが、さっぱりあの家がどこにあるのか、わからなくなっていた。恐らくこのあたりだろうと思えるところには、全く違う家が建ち並んでおり、しかもそこいらの家は、どうみても築後10年は経っている家々ばかりであった。あの家が忽然と消えたことになる・・・・。

もちろん、あれから紀美子に会うこともない。恐らく一生会うことがないだろう。少なくとも、私が一人の人間としてちゃんと生きていく限りは。

 

(了)

 

2001826

(第一稿。湯布院映画祭最終日、そして私自身の誕生日の前日に湯布院温泉にて)

2001121

(推敲終了。雅子さんが女児を出産した日に)


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