<古代史に於いてこれだけは確実の事-Cyberchat>

                                伊藤麟太朗

 

日本書紀の作者達は百二十年のおくれを取戻す為、『史籍集覧』に鷹仁天皇四十一年なるものを設け更に実在の仁徳天皇の在位年数古代史に於いてこれだけは確実の事二十数年をのばして八十七年とし合計百二十年をかせぎ出した。(略・この表は歴代天皇の在位年数を記したものである)

これについて説明すると、御承知の様に仁徳以前には実在の天皇はないので事跡はみな後の実在の天皇の事をかいたのである。

 

(飯田武郷の考証による)

年表に倭国晋に朝貢四百二十一年とあり、この時仁徳が始り讃宋の武帝より除授、一四二一以後が)在位年数となるので仁徳の在任年数と考えられる。此の年数を加え八十七年が仁徳時代となるわけである。ここで百二十年の食いこみは解消され日本の歴史は一応正常に立戻るわけである。

しかし、ここに一つのむずかしい問題がおきた。児玉幸多氏、日本史年表には

四世紀中頃迄に大和朝廷の統一、三九一年日本軍出兵、百済・新羅を服属す(好太王碑)とある事が記されて居るのであるこれは少し変である。

先の飯田武郷の考説では神功皇后、慮神天皇なる時代は架空のもので記事は仁徳時代がごまかされて書かれて居ると主張して居るのである。一体如何なる理由からこの様な事になったであろうか。

先に飯田武郷の考説では神功皇后、鷹神天皇なるものは架空のもので、そこに使われて居る記事は仁徳時代以後の事柄がごまかされて書かれて居ると書かれて居るのである。かくなる経過は明治の大学者、久米邦武博士の日本古代史が解明してくれるので以下博士の所論を紹介する。

 

好大王碑について

好大王碑には「倭」という表現がしばしば現れる。この倭の解釈をめぐって我国の古代史は大きく変って来るのである。

次に示すのは児玉幸多氏編「標準日本史年表」吉川弘文館一九六七の西暦一世紀から六世紀迄の年表である。(省略)

この年表では四世紀中頃迄には大和朝廷の統一が出来たと解して居る。これは好大王碑に表れる「倭」を日本軍と解した事の当然の帰結である。

私は以前『茅野』に「海洋貿易国家の倭」と「日本書紀の年紀のくるひ」を発表し好大王碑に表れる「倭」とは大和朝廷の出現する遥以前、漢時代、九州北部、対馬、一支、南鮮にまたがる貿易連合国家が成立し、これが好大王碑に表れる倭である事、及仁徳天皇こそが我国初代天皇である事を論じて置いた。

このうち好大王碑に表れる「倭」が海洋貿易国家説は何も私の説く所が最初ではない。既説の如くこれは幕末の学者、鶴峯戌申の説く所であり、近頃では『倭族と古代日本』平成五年十月五日発行、雄山閣、編者諏訪春雄に委細説きつくされて居る。

又仁徳天皇以前の天皇は実在せず、神功皇后摂政紀、鷹神天皇紀については飯田武郷の『日本書紀通津』により実在の天皇仁徳天皇以後の事がごまかされて書かれて居る事を論じて置いた。

さて以上の二点を更に明確にする為、明治の碩学久米武邦博士の『日本古代史』(六八一頁に)中にのせられて居る、鷹神清寧間支韓交渉の大事年表を引用する。(第二図略)

 博士は年号を一切用いず、支那、朝鮮史に表れる干支を主として使用されて居るのでその西暦年数は正確である。又博士は神功皇后は採用して居られないが、慮神天皇は実在として居-りれるので表は一部奇妙なものとなって居る。この表は西暦三四六年、丙午より西暦五〇一年辛巳にわたるもので文字通り、四世紀後半より五世紀に到る日本古代史上、謎の時代であるので極めて興味深いものがある。

以下同表を評釈する。

此の中、日本書紀記載の記事は干支が異なって居る飯田武郷訂正以前の干支が記されて居るのである。以下同表につき各項日毎に説明する。

 

丙午、新羅史に、倭国絶交の翌年丙午、晋穆帝、永和二年(西暦三四六一倭兵にはかに風島にいたり辺戸を抄捺し又進んで金城をかこむとあり又この前年の新羅史に、訪解尼師今の婚を辞する翌年乙巳に倭王遣使絶交とある干老事件の倭もこれは海洋貿易国家の倭である。これにより久米博士の類推したものであろう。飯田武郷は近肖古王元年は東国通鑑などによるに日本書紀の仁徳天皇三十四年だとして居るので久米博士が参考迄に干支の次に記したものであろう。

丙辰、韓史により記したものであろう。

甲子、日本書紀神功皇后紀四十六年甲子の項にある。武郷によると干支ニタ廻り異る。

己巳、日本書紀神功皇后紀四十九年己巳に四十九年春三月荒田別、鹿我別を将軍となし則久氏氏等と共に兵をととのへ卓淳にいたり新羅をおそはんとす。中略、共に集ひて新羅をうちて之を破る。同干支ニタ廻り異る。庚午、倭が出てくるから半島で百済、倭の連合軍と新羅との間に戦争があったであろう。辛未、壬申、乙亥、韓史によって居る。西暦

年数は正確であろう。これ迄は日本書紀では神功皇后の時代であるが、博士は神功皇后を認めて居ないのでこの表に皇后は記されて居ない。さて下段の朝鮮半島では新羅、百済、高句麗の三国が表れてくる。これらと倭(貿易国家の倭、その後身は恐らく後の任那であろう。) この四国で半島の状勢が決るのである。

壬午、日本書紀神功皇后六十二年壬午に、六十二年新羅朝せず、即年襲津彦を遣して新羅をうつ、とあるが、飯田武郷の通釈には東国通鑑、晋大元十七年新羅奈勿王三十七年倭人来り新羅金城をかこみ七日解けずと云う事あり、これは仁徳天皇八十年壬辰の事也、此時の事を伝へ誤りて記せるものにや、按に今年は壬午なり、仁徳天皇十年も壬午なりとある。この倭は貿易国家の倭である。

甲申、日本書紀神功皇后紀六十四年甲申の記事であるが、武郷は日本書紀通釈一九九〇頁において、枕流王は貴須王が子とあれど彼国籍によれば近仇首王の子とせり近仇首王は近肖古王が子なり、さて枕流王の次に辰斯立とある世次もよく叶へれば彼国籍の方正しきやうなれど此紀とは世代大に異にて近仇首死て枕流の立つは通鑑に仁徳天皇七十二年の事なれば従ひ難きが如し、されど上にも云る如く肖古仇首二王を此皇后御世の王とする時は近肖古近貴須二王は、敷世の後の王なれば此枕流王以下は此御世の事にはあらずしてなほ仁徳天皇の御世の事なるべし肖古貴須と近肖古近貴須と一になれるより其間の世次の王の名を記し漏してかかる訓博も出来しものなるべしと云はれて居る。

乙酉、神功紀六十五年乙酉の記事、

武郷は通釈に、さて上にも云る如く此事通鑑の年立にては仁徳天皇七十三年の事なれば時代には異りあり。

辛卯、日本書紀鷹神天皇紀二年辛卯にあるが、記事は天皇家の系図のみである。三年壬辰の記事に、是年百済辰斯王札を天朝に失ひ、故、紀角宿祢、羽田先代宿祢、石川宿弥、木菟宿祢を遣してその無礼の状をせめしむ、是によって百済国辰斯王を殺して謝す、紀角宿祢等すなはち阿花を立て王となして帰れり、とある。

飯田武郷は通釈二〇=一頁に、

この事東国通鑑に、晋大元十七年、百済辰斯王八月十一日百済王辰斯狗原行宮に嘉す、枕流王の子阿華立つとあり。晋王元十七年は我仁徳天皇八十年壬辰に當れば百二十一年後の事なりと書いて居る。下段にある談徳は好大王の事だとある(古代史五七六頁)

丙申、日本書紀慮神天皇七年であるが武郷は徳天皇八十四年丙申なりとして居る。

百済記に高麗王百済を打つとあり、好大王碑に六年丙申を以て王躬ら水軍を率い残国(百済)をうつ、五十四城を攻取り、中略、百済王男女生口一千人細布一千玉を献ずとる。

丁酉、日本書紀慮神天皇八年丁酉、武郷は仁天皇八十五年丁酉にあたるとして居る。百済は困窮して先年の無礼を謝し王子直支を遣し助を乞うたと言うのである。

戊戌、日本書紀磨神天皇九年戊戌(仁徳天皇十六年)

己亥、好大王碑に九年己亥百残誓に違ひ倭とし和通平壌を巡下云々、庚子、好大王碑に十年庚子歩騎五万を遣し新羅を救うとある。

壬寅、日本書紀、神功皇后紀続に

ここに新羅王波沙味錦即ミレチコ波珍千岐を質とし伍金銀うるはしき色及綾羅、練絹をおくり八十そうの舟にのせ官軍に従はしむ。是を以新羅王常に八十船の調を以て日本国に貢する…後略、とある。

武郷の通釈には東国通鑑を考ふるに新羅第十主にあたる奈勿王の子訪得王が弟に未斯欣とうものありて皇国に質たりし由見え似たる事がら別人なるべし。時代の甚だしくたがへれ也。奈勿の立てるはわが仁徳帝四十四年にて百済近肖古王が十一年也。今年より百五十六年後なり。未斯欣が我国に質たるは五十七年後にて履中天皇三年也、これは壬寅也と

癸卯、日本書紀慮神天皇十四年癸卯であるが武郷は履中天皇御代の初にあたるとされて居る。

申辰、日本書紀悪神天皇十五年申辰にあたるが、武郷は通釈に仁徳天皇六十三年にあたるとして居る。好大王碑に十四年甲辰、而倭不軌帯方界に進入とある。

乙巳、日本書紀悪神天皇十六年乙巳とあるが武郷は通釈にて通鑑によれば晋安帝が義裸元年にも履中天皇六年にあたるとして居る。

丁未好大王碑に倭と戦ひ倭軍退敗とあるも年号磨めっし不明なれど此年より己酉仁徳元年とあるが日本書紀によれば仁徳元年は癸酉である。約三十五年の差がある。博士は倭蹟晋え遣使は此頃とされて居る。

仁徳天皇の即位年代を西暦四〇九年とし死を四三五年としても其在位年数は二十六年で平均世代である日本書紀の在位八十七年とは大いに異なる。久米博士は日本書紀の八十七年をそのまま用いて居るので此表の丙午以後は全部仁徳時代となって居る。

又博士は日本古代史六〇八頁に於て仁徳天皇の在位年数を論じて

紀の紀年は帝を八十七年にて崩ずとし、記は御年八十三才とすれどいづれも事実はゆるさず。中略、近ごろ田口卯吉氏古代研究を著はし其即位年を庚戌年一西暦四百十年一と言われたるは正密の考定と謂うべし(中略)

宋書の倭王蹟再度の使は文帝元嘉二年乙丑(西暦四二五年にして其後礎死弟珍立、一回遣使ありて二十年癸未西暦四四三年倭王済の遣使を記す、此十九年の間に仁徳履中反正三朝の交替をなし仁徳の治世は二十二、三年、寿五十有を享け給へりとし以て履中帝の初めに考へ入るが妥当なるに近しと言はれて居る。

さて仁徳時代に到り一応問題点を過ぎたから論評は一まず終るが次の壬寅及丁巳に倭が出てくるが日本書紀雄略天皇紀九年に三月天皇親しく新羅を伐たんと欲す、神、天皇に戒めて曰く、ないかましそ、天皇之により敢て行はず、紀小弓宿祢、阿蘇韓子宿祢、大伴

談連、小鹿火の宿祢等に勅して曰く、新羅自ら西土に居り累葉臣と称し朝聰違ふ事なく貢職まことに連れり、朕の天下に君たるに及びて、身を対馬の外におきて跡を匝羅の表にかくす、高麗の貢をふせぎ百済の城を呑み、況や朝聰既にかく、貢職おさむる事なし狼子の野心あきては去り飢えては附く、汝四郷を以て拝して大将となし王師を以て攻めうちて天罰をつつしみ行へ、後略、注解に匝羅は畝良城なりとある。紀小弓宿祢即新羅に入りて行く所傍郡をほふる、等とあるからこの倭は天皇制の倭である。

日本書紀の天皇在任年数を表にしたもの(史籍集覧による)第三表である。

さて日本書紀に記された仁徳天皇在位年数八十七年を考うるに、書紀の筆者達は神功皇后でひみこに仕立あげる為、百二十年くり下げて了つた。次の慮神を四十年としたがまだ八十年残って居る。それで仁徳天皇の在位年数を八十年以上としたのであろう。それでようやく国際年数を取戻したのであろう。

さて久米博士は『日本古代史』五五四頁に於て特別に次の如く書かれて居る。

甲申年百済王死し王子枕流立しに翌年又死して子阿董幼少なりければ叔父辰斯纂立して本朝に礼を矢へり。故に紀角宿祢等四将を遣し其無礼を責譲さる百済国は辰斯を殺して之を謝す、紀角宿祢等即阿花を立てて帰れり。四将を百済問罪使に渡海せしめたるは重大の事と思はるれるど彼史には国悪を謹たるにや、辰斯王入年一晋大元十七年壬辰)王狗原に狩し旬を経て帰らず十一月狗原行宮に莞とするに止れり、惟其死のやや異状なるを疑しに近年盛京省懐仁県の洞溝より高麗好大王碑を発見しその時の事実を讃明するを得たり、其碑文に

百残新羅旧是属民由来朝貢而倭辛卯の年を以て来、渡海百残□□新羅を破り以て臣民となるとの貴要の文字を彫刻しあり。百残は百済に同じ、百済は先王釧を殺したる仇国にて新羅は隔紀の国也、中略是迄は書紀も済史を辰斯の死せし壬辰年にかけたれど此文にて四将の渡海は前年、晋武帝十六年、西暦三九一年にあり開戦して年を越、えたるを知る。中略此碑文にて百済問罪使の事を実讃したるのみならず慮神帝と晋、済、麓との年代比較を讃実するを得と書いて居られる。

好大王碑の最初に現れる辛卯が西暦三九一年たる事は確実であるが我国近世の多くの学者は我国の天皇制の起源を古くする為ここに表れる倭を天皇制の倭と解して居られる様である。

しかし前の論評で述べた如く辛卯前後の、甲申、乙酉、壬辰はいづれも武郷の考讃によればいづれも誤、人違いであったり百二十年もの年紀違いである。しかれば博士の言われる問罪使たるの理由もなくなる。

日本書紀には辛卯の年に事件の記述は一切ない。辛卯と云う年号がとなりにあるだけで、そ、り言って居るに過ぎない。博士はこれにつき、筑紫方面の事にて朝廷に直接の関係なきを以て国史に記せずと言われて居る。

しかしこの戦争は辛卯(西暦三九一年)のみに止らず博士の表に見らるる如く、巳亥(三九

)甲辰(西暦四〇四年、丁未年と十八年以上にわたって居り仁徳天皇が即位し晋に通ずる(西暦四〇九一直前迄続いて居るのであり、これらの戦役は皆好大王碑に記されて居る所である。しかし之については日本書紀には全然記述がない。これではどう見ても日本が戦争をして居るのではない。御他人様が戦争をして居るのである。

猶久米博士は日本書紀鷹神天皇九年戊出四月武内宿祢を筑紫に遣して以て百姓を臥しむとあるのを半島に於る作戦指導とさ知るが書紀の記する所によれば民政指導で玄以上久米博士作成の年表につき論評し八段の半島の新羅、百済、高句麗等の史料によってのみ全面的に理解し得るもので上段の円紀の史料では何が何だか判らなくなる。誠支というものは百年でも二百年でも融通の便利なものである。

しかし之により我国学者達が如何に牽強附会朝鮮史に表れる倭を天皇制の日本に仕立上げ様としたかが判るであろう。

ycaster 2000/09/30)


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