<古代史に於いてこれだけは確実の事-Cyberchat>
伊藤麟太朗
1.象の時間とかげろうの時間
象の時間とかげろうの時間は本質的な差はないであろう。かげろうの生存期間は極短く象の生存期間は極長い。この違いはあるにしろ本質的に差のあるものではない。
2.支那と日本
これも前と同様で支那、日本にかぎらず東洋、西洋、世界中の諸国が同一の時間帯を通過する。国際通用年一現在では西暦)が常識的である。
3.古事記と日本書紀
以上の観点から我国古典を見るに古事記、日本書紀共に以上述べた原則に反して我国成立年数を六六〇年無造作に引下げて居る点に於いて両書共同罪であるがどっちかと言えば日本書紀の方が細工が細い点において悪質である。古事記には干支は採用されて居ないが、日本書紀には採用されて居る。それだけ細工がこんで来るのである。これだと六十年以内はきっちり詰まり、一年の融通、ごまかしすら出来ないがそれも六十年以内の事である。これを越えればどうにでもなる。日本書紀はこの方法を大胆に使って居るのである。
私はさきに茅野四九号「邪馬台国はどこか」第三回において仁徳天皇こそが日本で初めて皇権のほぞのついた天皇なる事を述べて置きましたが以下同書を抜すい致します。
日本書紀神功皇后摂政紀
これは日本書紀の中でも最も興味のある部分である。日本書紀は古事記とは異なり神功皇后摂政紀なるものを設け特別に記述して居る。今これを一覧表にしてのせる。第一図、さてこの中には三十九、四十、四十三、に魏史の記事、及六十六の晋の起居注の記事が出てくる。ここには単に女王と書かれて居るが詳しく言えば魏史に言うこの女王とは卑弥呼である。六十六の女王は卑弥呼の娘壱与である。この神功皇后摂政紀の年立ての中に、三十九、四十、四十三、六十六の如く本文がなく唯単に魏史、及晋の起居注の文を丸うつしのままを載せた所がある。かかる点よりしてこれらは後人のざん入であるとして集解には除外してある。飯田武郷もこれは後人のざん入出あるとして通釈には除外してある。はたして左様であろうか、後人のざん入であれば年立ての中には入らない筈であるがこれはちゃんと年立ての中に順序よく入って居る。卑弥呼はいつ頃死んだであろうか。正始八年に死んだとすると、書紀の年立てでは四十七年で、神功皇后が死んだ六十九年の二十二年も前であるが書紀の書方は卑弥呼も壱与も同一人物と思わせる書方でその三年後に神功皇后は死んだ事になって居る。これではど見ても卑弥呼を神功皇后と思わせる書方である。一歩進んで言うなれば、日本書紀の筆者達は支那の史書に出てくる卑弥呼に合せて神功皇后を作出したのであるとせざるを得ない。
ところが日本書紀の筆者達にとって幸か不幸か、彼等が卑弥呼"神功皇后説に使った魏史の記事の西暦年数がわかるのである。即ち明帝景初三年は西暦二百三十九年、正始元年は二百四十年、正始四年は二百四十三である。これは書紀の年立てから言っても左様になる筈である。これで行くと六十六年は西暦二六六年となる。更に五十五年百済肖古王死すとあるがこれは西暦二五五年(乙亥)となる。同様に六十四年貴須王死すとあるがこれは西暦二六四年(甲申)となる。しかるに日本書紀より紀年は精確と思われる三国史記の百済本紀には日本書紀より百二十年後に(干支二廻り)記されて居るのである。今判り易く図説すれば、
書紀 乙亥年(二五五年)
肖古王死す
甲申年(二六四年)
貴須王死す
三国史記乙亥年(三七五年)
近肖古王死す
甲申年(三八四年)
近仇首王死す
ここでいう肖古王と近肖古王、貴須王と近仇首王は韓史によれば同一人物である。即干支は同一であっても年数は百二十年、干支二廻り異なって居るのである。即書紀の筆者達は卑弥呼を神功皇后に仕立て上げるため韓史の年紀を干支ニタ廻りだけ引上げて了つたの
である。
古事記にはない神功皇后摂政紀を書紀に設けたのもこの為の第一段階であると考えられる。
日本書紀の年紀のくるい
昭和十五年一西暦一九四〇年一は日独伊防共協定の結ばれた年で皇紀二六〇〇年と称された。しかれば西暦と皇紀との差は六六〇年ある事になる。皇紀とは日本書紀に記された天皇の在位年数を合計したものである。たとえば日本書紀に神武天皇は辛酉年橿原で即位
し七十六年間在位した。次の緩靖が三十三年、安寧三十八年等々以下同断、これ等を積算したものが皇紀である。この皇紀の表を書いたものが『史籍集覧』廿三冊二中歴人代暦にある。これによりその差の起源を求むるに、仁徳天皇の人代歴に記された積算年数-皇紀は一〇五三年である。しかし仁徳天皇の正確なる西暦は判って居ない。(参考迄に言うと支那の宋、階、唐等の史書の記載により西暦年数は判るが仁徳以下の諸天皇は概ね六六〇年の差を保って居る。)
さて、一〇五三年から六六〇年引いて見ると三九三となる。この年は晋史に倭国晋に朝貢と書かれて居る西暦年数四:二年と非常に近い。
一体支那の史書に天皇の事が出てくるのは倭の五王の最初の讃(仁徳天皇)で晋の安帝の時代で引続いて宋書に讃の記事が出てくるのである。それ以前の神武より神功皇后、鷹神天皇に至る十六代の記事は支那の史書には更に出て来ないのである。もし仁徳以前に天皇政権が実在したならば何故に漢なり魏なり宋に朝貢しなかったのであるか。朝貢と言えばきこえが悪いが実は何十倍ものものが返って来る実に割のよい商売、貿易である。前述した貿易国家の倭、大国主命の倭皆通商をして居るのである。
倭五王(仁徳、反正、允恭、安康、雄略)の時代になるとこれら天皇は晋、宋、済等の代替りには確実に遣使修好し雄略天皇の如きは宋より使持節郡督、倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任ぜられて居るのである。
かかる点より仁徳天皇こそ日本に始めて皇権のほぞのついた天皇だと考えるのである。日本書紀の作者達は皇室の起源を古く見せる為、干支を十一回(六六〇年)くり上げ、これを天皇制の始としたのであろう。辛酉としたのは天智天皇の時が辛酉で革命の年だからという。
故に仁徳天皇が実在する始の天皇でそれ以前はすべて書紀の作者達がつくり上げた架空のものだと考えられる。その証拠として、神功皇后摂政紀、慮神紀に記された対外関係の記事はすべて実在の仁徳天皇以後の天皇の時代の事がごまかされて書かれて居るのである。(第一表・第二参照)
干支は年紀を記するには便利なものだが盲点は六十年を越えると判らなくなる事である。書紀の筆者達はこの盲点をよく利用して居るのである。
第一表及び第二表の作成には全面的に飯田武郷の『日本書紀通鐸』に頼った。これは三国史、百済記等韓史が手許にない事にもよる。飯田武郷は皇国史観であり、その点に於いてはかげりがあるが、その史眼は鋭く、大学者と言えよう。詳しくは拙著『日本書紀年紀のくるひ』を御覧下さい。
日本書紀作者のもくろみ
さて日本書紀の作者達は如何なもくろみで前記の様な所作をしりであろうか。まづ第一に先輩国支那の後漢書及魏史に卑弥呼手が現実に記載されて居る。これに歩調を合せる事は新しく出来る日本書紀の信頼を高めるとの事大的の考もあったであろう。それ
で創出した神功皇后を卑弥呼と思わせる様な書方をしたのであろう。それで、付随する韓史の年紀を百二十年引きあげた。
第二には仁徳天皇が皇権を確立する五世紀初頭より遥か以前紀元一世紀頃漢の光武帝より金印をもらった熊襲、朝鮮、対馬、一支、九州にわたり四世紀末迄朝鮮に盛威を振った海洋貿易国家-倭一好大王碑に表れる倭)の九州は朝廷により平定されたがそれ迄の朝鮮に於ける関係、因縁、あるいは利権とも言うべきか一は朝廷に引つがれた。これらの関係を朝廷が成立した以後に出来たものとする為神功皇后を創出し朝鮮征伐をさせた、と考えられる。
さて日本書紀の筆者達は神宮皇后をひみこに仕立あげる為歴史の原則に反して国際年より百二十年も引下げてしまいました。日本書紀の筆者達はどうあと始末をするでしょうか。
第一表 日本書紀神功皇后摂政紀
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皇紀 天皇皇紀 神功皇后 摂政元年 5年 13年 39年 40年 43年 46年 47年 49年 50年 51年 52年 55年 56年 62年 64年 65年 66年 69年 |
記事 摂政元年 新羅王遣使ミシコチを帰さんことを乞う。摂津彦を遣わす 武内宿祢太子を伴い角鹿大神を拝す 魏志倭王遣使 正始元年 斯摩宿祢を卓淳に遣わす 百済王肖古王に通ず 百済王朝貢 新羅を討つ。肖古王と古沙山に会盟 千熊長彦、久氏等百済より帰る 百済王朝貢 百済肖古王七枝刀を朝貢 百済肖古王薨 百済王子貴須立為王 新羅不朝即年襲津彦を遣わし新羅を討つ 百済貴須王薨。王子枕流王立て王となる 百済枕流王薨。王子阿花年小叔父辰斯奪て王となる 是年晋武帝泰初二年晋起居注にいう武帝泰初二年女王遣使 夏四月皇太后稚櫻宮に崩ず 齢百才 |
飯田式郷の時代考定 襲津彦仁徳41年迄見ゆ。晋義嚥 14年恭天皇7年に当たる 國内記事 肖古王が出てくるが干支二廻り違っている これは仁徳天皇80年のことなり 仁徳天皇の事なるべし 通鑑の年立てにては仁徳天皇73年の事なり |
第二表 應神天皇紀
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元年 二年 三年 五年 六年 七年 八年 九年 十一年 十四年 十五年 十六年 二十年 二十二年 二十五年 二十八年 三十一年 三十七年 三十九年 四十 年 四十一年 |
庚寅天皇七十一で即位 國内記事 辰斯王礼を失す。阿花を立てかえる。 國内記事 國内記事 唐人池 百済人来朝 武内宿祢えん罪 向日葵長姫をめす 百済王縫工女眞毛津を貢す。弓月君百済より来る。新羅に阻まれる 百済王阿直岐を遣わし良馬二匹を貢す。 王仁来朝。この記事は疑問として除かれている。二百年も後のことだとある 阿知使主其子都加使主十七県を率いて来朝。 國内記事 百済直支王死 高麗王遣使朝貢 枯野、伊豆の貢船 阿知使主、都加使主を呉に遣わす 百済直支王其妹しせつ婦を仕えしむ、ここにしせつ姫七婦女をひきいてまいけり 天皇明宮に崩ず。百十才 |
東國通鑑晋大元十七年、仁徳天皇八十年百二十一年後の事也 仁徳天皇八十四年 申なりと 仁徳天皇八十五年 履中天皇の御世に当たる 履中天皇五年 履中天皇六年 雄略天皇三十七を見るべし 允恭天皇九年 雄略天皇 直支王は死んだ筈 |

