<20年後に振り返るベルリンの壁崩壊ー直後の残像と今考えるその意味(2009年11月09日)-Cyberchat>

 ベルリンの壁が墜ちたのが1989年11月09日。落書きがいっぱいあったコンクリートでできた壁によじ登り、その一方でその壁をハンマーでたたく大勢の若者の姿は今でも鮮明に覚えているし、その映像はこの20年間繰り返し放送されてきた。2009年11月09日は「壁崩壊から20周年」ということで大量の映像が流れた。筆者も2009年11月08日(日曜日)の午後10時10分から「地球アゴラ」(http://www.nhk.or.jp/agora/)でスタジオ・ゲストということで番組に参加した。番組のテーマは「壁崩壊20年の今のベルリン」だった。4人のアゴラーがベルリンやその近辺から報告を行った。

 実はそのとき一番私が驚いたのは、私以外のスタジオの3人がいずれも壁が墜ちたとき10代で、「壁の崩壊」を鮮明には覚えていない、という事実・現実だった。加えて、ドイツの若者にも「ベルリンに壁があったのか」というように、「壁が存在した」ということを知らない世代が増えているという。考えてみれば20年は長い。生まれた赤ちゃんが二十歳になるのだから。

 筆者は壁が墜ちたときには30歳代だったし、冷戦が当然の時代に生まれて生きたので、「ベルリンの壁の崩壊」を衝撃を持って迎えたし、その日は一日時間さえあればテレビを見ていた記憶がある。それは2001年09月11日の米同時多発テロ(ワールド・トレードセンターが崩壊した)に匹敵する出来事だった。歴史的な意義はどちらが重いのかに関しては意見があるだろうが、筆者はベルリンの壁崩壊のインパクトの方が大きいと思う。何せそれによって何十年も続いた歴史が終わったのだから。それに振り回された人は多いし、今でもドイツに行くと、特に旧東ドイツの人々は「その時何を考え、何をしていたのか」を鮮明に語る。皆自分史としてのベルリンの壁崩壊を持っている。

 ドイツには1980年代から何回も行っていて、この文章を書いている時点(2009年11月09日)で最後のドイツ訪問は2007年11月だが、何回にも及ぶドイツ訪問の中でももっとも思い出が強いのが壁崩壊直後の1990年1月13日に日本を出発してロンドン経由で入ったドイツでの数日間だった。子供の頃ドイツに住んだことがある小林君と行ったもので、その時に見た東ドイツの湖のある町シュベリーンやベルリンの東ドイツ部分のことは今でも思い出す。それは私が、「社会主義が人を不幸にするのに最適なシステムである」と確信した瞬間だった

 忘れられていくモノは残しておかねばならない。1990年はまだデジタルの時代、ネットワークの時代には遠かった。文章はワープロで書いていたが、まだ「やっと回線でニューヨーク・タイムズが読めた」とか言って喜んでいた時代だったと思う。私が自前のネットサイト(http://www.ycaster.com/)を作ったのは1996年だ。しかし私は1987年からずっと文章を書き続けていて、今でも1990年に書いた文章はアナログの形で残っている。しかも1990年のドイツ出張は、鮮烈な記憶だった。

 ベルリンの壁崩壊20年ということで、その当時に書いた文章をここなるべく忠実に再録し、その後に「壁崩壊」の意味を改めて考えてみたいと思ったのだ。はたして当時の東ドイツは懐かしがるに値するのか、と。ベルリンの壁崩壊直後の1990年年初の「ドイツ出張」時は、当然ながらラップトップはなかった。だから、コンピューターを世界中に持ち歩いて、今のようにその日その日に文章を書いて、それをネットにアップするというような芸当は出来なかった。その時起きたことを印象として頭に残しておいて、それを帰国後に文章にまとめた。文章は帰国後の1月24日から数日間にわたって分けて書いてある。まずそれをなるべく忠実にここに残す。

 ========当時私が書いた文章をそのままに========

《 1990年01月24日(水曜日)》

 実はまだ頭が良く回っていません。これ(当時ではほぼ毎日のペースで書いていました)を書くのは10日以上ぶりですし、時差ぼけもあってどうも頭がまとまらないのです。文章というのは、しばらく書かないといつものスピードの半分くらいでしか書けない.....ような気がするもので、今日はここまで書くのに非常に苦労しているのです。市場のレベルも大きく違っている。日米の金利の水準など。
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 出張は、ロンドンを皮切りに、パリ、ハンブルク、フランクフルトと回りました。ロンドンは当社の資金為替業務に関する会議が主で皆様に報告するようなことはないのですが、証券業務の小林君と回ったフランス、西独では色々と発見をいたしまして、この紙面を通じて読者の皆様にもお伝えできることがあるかと思います。何よりも、一度はハンブルクから陸路で、もう一度はフランクフルトから西ベルリンに飛び、そこから入った東ドイツの印象が強烈で、色々と考えさせられることの多い出張でした。

 実は最初は東ドイツに入ることなど全く考えていなかったのですが、時勢が時勢だし、何とか入れるのではないかとトライして、二度とも結果的に成功したのにはびっくりしました。合計で東ドイツには8時間以上いました。またの機会に詳しく書きますが西との格差は歴然としていて、あれでは今でも、つまり国境が開放された今でも、一日に1600人の東ドイツ人が西に流入してくるのは当然だと思いました。

 例によって、なるべく多くの人と会うと同時に、各都市でできる限り街を歩き、デパートを回りましたが、一つ感じたのは英国でも、フランスでも西独でも、先進国のデパートというものは、もちろん米国もそうですが、日本とほとんど変わらないということです。つまり、先進国の人間というのは「モノ」の世界では極めて似た生活をしているということです。パリのプランタンでも、西独のカールシュタットでもカウフホーフでも、展示してあるものは日本のそれに極めて近かった。まあえて言えば、家具の大きさがヨーロッパの方が大きいというくらい。値段もちょっとは違いますが、それほど大きな違いがあるわけではない。明日にでも書きますが、これに対して、東ドイツの商店はひどいものでした。国民の生活水準も十分察しがつく。
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 為替に関しては、昨日の動きは別にして西独マルクの一段の上昇には警戒的な意見が強かったように思います。ただし、西独の長期的な展望については、強気の人が多かった。向こうに行って思ったのですが、火事場の近くにいるから火事の状況がよく分かるとうものではない。ちょっと離れて、ヘリコプターで上空から見た方が良いことだってあるわけで、特にヨーロッパの人たちの方が我々日本人より知恵があるという印象はありませんでした。しかし火事場独特の臨場感はあり、これからもこのニュースで徐々に紹介できたらと思っています。

 それでは皆さん、今日はこの辺で。良い一日を..............!

《 1990年01月25日(木曜日)》

 ところで、スペースを見つけては今回欧州に行った成果を披露しなければ、「カスタマーのチーフが一週間以上も留守にして何をしていた」と怒られてはいけませんから、段々書いていこうと思うのですが、そうですねやはり私自身にとって最も強烈だった東ドイツの印象をしばらく書きましょう。今日は短く第一回目。
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 私は為替の世界の人間ですから、ハンブルクに入って最も最初にした東ドイツ関係の具体的行動は、「一体西独で東独マルクが買えるのか、買えるとしたらどの程度の為替レートで買えるだろうか」をチェックすることでした。ホテルからそう遠くない銀行に行って、ドルを西独マルクに換え、さらに100西独マルクを出して、「東独マルクに換えてください」と英語で言ったのです。「ありません」と言われるのを半ば覚悟して言ったのですが、銀行のテラーは、「sure」とか軽く応えて、100東独マルク紙幣を6枚と50東独マルク紙幣1枚、それに若干のコインをくれました。100東独マルク紙幣はマルクスを、50東独マルク紙幣はエンゲルスを登場させている。

 返ってきたコインは、西独のコインでした。両替の証明書を見ると、「94.25西独マルクを650東独マルクと換えた」とありました。つまり、西独の銀行も東独マルクの硬貨はもっていない、または持ちたくないということだ。

 交換レートは銀行にしてみれば、「売りレート」なわけですから、「買いレート」はもっと安い(東独マルク安)はずで、大体西独マルク1に対して東独マルク7といったところでしょうか。貿易の世界ではもっと違うレートが適用されているかもしれませんが.....。

同じ100マルク紙幣なのに上の西独マルクは大きく印刷も立派。下のオストマルクは小さく、印刷もひどい。これを見ただけでも国力の差は鮮明である  旅行者が西独で現在買える東独マルクの購買力は、1東独マルク=12円くらいということです。しかし文句を言うわけではありませんが、東独マルク紙幣は印刷が粗雑で、紙も良くない。西独マルク紙幣と比べると見劣りがします。あとで手に入れた東独マルク硬貨は、アルミでできているのか極めて軽く、全く重量感に欠けるものでした。ああいう国でしたから、偽造を心配する必要もなかったのかもしれませんが、国を表象するものとしてはちょっと御粗末。

《 2009年01月26日(金曜日)》

 東ドイツの話の続きです。この国には今度の出張で別々の地点から二度入りました。最初はハンブルクから陸路で。もう一回は、フランクフルトから西ベルリンに飛び、そこから地下鉄に乗って。
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 ハンブルクからの陸路での東独入りは、「ベルリンで壁が崩壊するような事態になっている時に、その他の地域の両独国境地帯はどうなっているのだろうか。またドイツの田舎も見たい」という気持ちからスタートしたものでした。私は、自分が良く知らない外国の土地に行くといつもそうするのですが、まず英語のできる運転手を探して、そいつと時間で契約し、色々な所に連れて行ってもらうのです。名所は言うに及ばず、外国の人間には普通は見れない所まで短い時間で見られるのがメリット。ハンブルクでもこの方式を取りまして、小林君と一緒に国境の有刺鉄線を見て、ちょうど昼でしたから田舎の小さな町で昼飯でも食べて帰ってこようという軽い気持ちでした。ハンブルクから両独の国境まではアウトバーンを使って30分足らずなのです。

 それが予定外に東ドイツにまで足を踏み入れてしまったのは、私の好奇心と小林君のドイツ語力と運転手の客に対する親切心、それにやはり両独を巡る大きな客観情勢の変化(両独融和)がうまくかみ合った結果と言えば良いのでしょうか。最初は「このままベルリンまでアウトバーンをつっぱしるなら入れてやる」としか言わなかった東ドイツの国境警備隊から、一時間以上の時間を掛けたのですが、何とか一日だけの観光ビザをもらったのです。ただしここでは、「二人で61西独マルクを50東独マルクと交換せよ」(運転手は免除されました)というひどい交換率の「強制両替」を強いられましたが......。
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 しかし東ドイツは、そうまでして入ってみるだけの価値は十分ある所でした。ある意味では、私にとって不思議の国だったからです。

 まず気が付いたのは、同じアウトバーンでも東ドイツに入ると、メンテが悪くでこぼこが道に出ていて走り心地が著しく悪い。スピードも、これは保安上の理由もあるのでしょうが、時速100`までしか出せない。西のアウトバーンでは200`まで出したベンツ(西ドイツではタクシーやハイヤーの半分はベンツです)でしたが、ここはゆっくり走りました。

 国境から20分くらい入ったビッテンバーグという小さな町でアウトバーンは降りて、あとはかなり長い間田舎道を走行。高速道路というのは世界どこに行っても同じような景色で、ちっとも面白くない。面白いのは田舎道で、ここでもいろいろなことに気がつきました。延々と田園地帯が続くのですが、やはり道路だとか橋だとかのインフラは西に比べてかなり劣っていて、全般に何でもそうですがほこりっぽい。家も何軒か日本の萱葺きのような屋根の家を見ました。知らないので勝手なことを言えないのですが、「20年前の西ドイツの田舎はこんなんではなかったのか知らん」という感じだった。

 しかし人間は純朴そうで、一目で西側から来た車だと分かるのか、子供もおばさんも手を振ってくれて、道には時々「西ドイツ人歓迎」という看板を見かけました。東ドイツの人達は、西ドイツの連中を「BUNDESUBURGER」と呼んでいる。
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 こうして一時間以上走って着いたのは、シュベリーン(Shwerin)という街でした。この街は、日本の高校生用の世界地図にも載っている。ここでは車を降りて1時間以上街を歩き回り、商店を見学し、食事を試みたものの結局なくてコーヒーを昼飯代わりにし、東ドイツの人とも話をしました。ベルリンではない東ドイツの街を見れたのは成功で、この街を引き揚げてハンブルクに着いたのは夕方。

 こんな調子で書いていったらきりがありませんから、帰国途中の飛行機の中でまとめた「西と東で何が違ったか」という印象を5点にまとめておきます。

A)人間の顔・表情 

 東ドイツの人は、男は悪く言えば労務者風の人が多かったように思います。不精髭を生やした人も多かった。女性は化粧っけのある人はまれで、ポーランドのおばさんのような人が多い。全般に顔の色も「PALE」という印象。人々の表情も国情が緊迫しているせいか緊張した面持ちの人が多く、こぼれるような笑顔を見せてくれた女性は、シュベリーンの国営ホテルのクロークの女性一人でした。カタリナ・ビットのような人には、ついに会えなかった。

 これに対して、例えばハンブルクの人間は栄養が良く行き渡っているのがありありという表情の人が多く、顔は赤味がさし、男はきちんと髭を剃り込み、女は化粧をしていて毅然とした態度を保ちながらも笑顔を絶やさずという人が多かったように思いました。ただし、日本と同じように西ドイツの都市は浮浪者が多い。東では一人も見かけませんでした。

 全般に言えば、特に70年代、80年代に格差がついた経済力故に、同じドイツ人でありながら、西と東の人間は外見まで変わったような印象でした。

B)着ている物 

 東は実に実に質素でした。西ドイツでも東からの人が大勢いましたが、彼らも実に質素。オーバーの下は大体この冬なのに半袖の人が大方。全体に暗い感じのものが多く、色彩感覚にも乏しかった。

 これに対して、西側の連中は実に豊かな格好をしている人が多い。(もちろん浮浪者は惨めな格好をしていましたが)

C)商品の数 

 東の商店には本当に物がありませんでした。シュベリーンでは「10年ぶりのセールス」が商店街で行われていましたが、日本から来た私のような人間には「一体何を買うのか」という印象。具体的に言うと、果物としてはリンゴしかなく、シュベリーンでは列は見ませんでしたが、東ベルリンの商店がまとまって入っているビルでは、どの店の前にも長い列ができていました。

 西の商店の印象は、日本のそれとあまり変わりません。もちろん売り子の威勢よい声が響くというようなことは有りませんが、昨年10月からは木曜日の午後8時半までの営業が認められ、特に小売業が活発でした。

D)外食の可・不可 

 東では、結局食事ができませんでした。レストランを探しに探し、シュベリーンでは国営ホテルを見つけたのですが、「温かいものができない」と断られました。結局コーヒーとケーキを食べられただけ。外食がどこでも簡単にできるのは、西側の国だけのようです。

E)インフラストラクチャー

 道路のことは少し書きましたが、その他全ての東ドイツのインフラは、すこぶる劣悪なものでした。古い城なども、メンテが悪くあちこちで傷んでいた。社会資本を生産的でない他の部門に回し続けたツケが回ってきている印象。

 これに対して、西ドイツは日本よりもインフラは優れている。大きなビルの建設現場をいくつも見て、投資が活発な印象を受けました。フランクフルトの金融市場も拡大の一途とか。
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 東ドイツの悪い点ばかり挙げたようで気が引けるのですが、私はこれを価値観を交えずに書いたつもりです。「西側のモノが豊かなのがどうなんだ」という方もいるでしょう。その通りで、VTRがなかったって、女性が別に綺麗にけしょうしなくたって、静かに幸せに生活できる可能性があることは確かで、東ドイツにもそういう生活をエンジョイしている人は結構いるかもしれない。それはそれで良いのです。

 しかし、人間が結局は「モノ」に対する執着を忘れられない存在であり、東ドイツにもそういう人間が多いと仮定してみると、半分開いた国境から西を覗き、「ああいう世界で生活してみたい」と思うのは実に自然ではないか、という印象を強く持ちました。西側へ「自由」を求めて来た人も多いと聞いています。しかし、「モノ」の全くない「自由」というのも考えにくい。東欧全体を揺り動かしている改革は、元をただせば経済運営の失敗が背景になっている、という印象が強くしました。

《 2009年01月30日(火曜日)》

 さて、欧州出張関連の話の続きです。今回の出張に際して強い関心を持った一つの問題は、「東ヨーロッパの共産主義が、なぜああも簡単に、そしてドミノのように体制変更の波に洗われたのか ?」という点でした。そして、実際に見聞したこと、会った色々な人の話、その後に読んだ資料などから、次の三点に原因を絞れるような気が今はしています。
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 第一は、どんな巧妙な為政者でも隠しおおせなくなった西側各国との経済力格差。より具体的に言えば国民の生活水準の違いです。

 東ドイツの代表的賃金労働者の月額賃金は西独マルクに換算して220マルク程度。円に換算すると1万2000円程度。これに対して、西ドイツの代表的賃金労働者のそれは3300マルク程度(約28万円)。住宅とかその他の条件が異なることを勘案しなければならないにしても、格差は歴然としている。私や小林君が実際に見た東ドイツの人達の身なりの貧しさは、この賃金格差からくるものと考えることが十分可能です。しかも、買いたくても店には商品がない。なんとも不自由です。ないないずくしでは、「行動・表現の自由」もあったものではない。

 これは伝聞なのですが、私は多くの人から「東ドイツは、東ヨーロッパの中ではまだましな方だ」と聞いている。だとしたら、他の東欧諸国の現状は推して知るべしです。たまたま昨日の日経の夕刊には、ソ連の国営部門に働く一般労働者の月平均賃金などの統計が載っていますが、これもおせじにも高いモノではなかった。民衆が知る以前に、海外に良く出る東欧諸国の政府高官や一部の人達は、自国の貧しさや、様々な意味での”不自由さ”に気づいていたに違いない。東から真っ先に亡命を求めたのは、西側を知っている一部政府高官や、スポーツ選手でした。

 第二は、「恐怖心の喪失」です。壁の向こうにいる人が良い生活をし、自由に発言していることを知っていても、それらを求めたら牢獄につながれることが分かっていたり、家族に害がおよぶことが分かっていたら、人間はそう簡単に動けるものではない。ロンドンで会ったエコノミストも、東ヨーロッパ全体からの「スターリン主義への恐怖の喪失」が東欧各国の体制変更の大きな原動力になった、と指摘していました。

 そしてこの点で大きな功績があったのが、実はゴルバチョフ・ソ連共産党議長だったのではないでしょうか。彼は自分の役回りとして「法王」と「ルター」を兼ね備えていることを知りながらも、少なくとも今までは自分の「ルター」としての役回りを外に宣伝し、かつての衛星諸国での改革を支持し、独裁者の追放に賛成し、自国の中でも自分の意見に反対するものにさえ自由にしゃべらせ、反対意見を言わせ、最後の局面にならなければ警察権力も軍隊も使わなかった。(アゼルバイジャンは例外です)

 分離・独立を求めたリトアニアに入ったゴルバチョフ議長が民衆に取り囲まれながら、必死でソ連邦にとどまるように説得を続けた姿をテレビで見た人は多かったと思いますが、あんなことをするソ連の指導者は全く例がない。彼の真摯な姿に心を打たれる以上に、「彼が指導者の間は、誰も恐れずに何でも言える」と考えた人が東欧・ソ連では多かったのではないでしょうか。このソ連の最高指導者に対する恐怖心の喪失が、この地域のムードを随分と大きく変えたと考えることが可能です。

 ですから東ドイツで、例え”失業対策”に主な狙いがあったにせよ秘密警察(STASI)をモドロウ首相が復活しようとした時、強い反対が起きたことは十分理解できる。

 そして最後は、通信技術の発達。最近のジャパン・タイムズに

「ORWELL WAS WRONG: TELEVISION, VCRS FANNED FIRES OF REVOLUTION IN EAST EUROPE」(ジョージ・オーウェルは間違っていた。テレビ、VTRこそ、東欧に革命の火を吹き込んだ)
 ーーという実に面白い記事がありました。オーウェルの「1984年」という未来小説はご存じですよね。中央で統制されたテレビが、国民統制の手段になり、BIG BROTHER が支配する恐ろしい世の中が出来ている.....という内容でしたが、この記事は「事実は全く違った。テレビを代表とする近代的な通信・情報手段こそが、東欧に革命を呼び、共産主義に基づく権威主義的な政権を次々に倒した」と分析。
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 地図で見ても分かりますが、東欧の国はみな陸続きです。私たちがいったシュベリーンは西ドイツの国境からわずかに車で1時間走ったところ。距離にすれば50〜60キロ。電波は完全に届く。事実、シュベリーンの国営ホテルで我々にコーヒーを作ってくれたバーテンは、「テレビで西側の人達がどういう暮らしをしていたか、我々は知っていた」と言っていました。こうしたテレビの見方を、「SPILLOVER VIEWING」(もれ視聴)というのだそうです。これは東欧・ソ連の実に広い地域で行われていたに違いない。

 ルーマニアの革命が、なぜハンガリーの国境近くのチミショアラで始まったのかについては、それはチミショアラのハンガリー系の住民が解放されたハンガリーのテレビを「SPILLOVER VIEWING」して先頭に立ったからだ.....というのが有力な説明。

 もう一つ、テレビをある国の中央統制の手段になりえない存在にしたのは、衛星技術です。たとえばCNN。革命が起きる前でも、東欧各国政府は「今世界で何が起きているか」を知るためにCNNを傍受していたと伝えられますが、CNNを見るのは実はそんなに難しいことではない。ポーランドで何が起こったか.....東欧の人達はちゃんと見ていた。

 西側、それに解放された東欧の国のテレビで、情報は東欧全体に矢のように伝わり、この矢継ぎ早の体制変更を呼んだと見ることも可能です。
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 さらにVTR。この記事には、ポーランドで労働組合運動が一時(数年前ですが)非合法化されたあとも、自分達の活動や指導者のプロフィールをビデオに収め、全国の教会の地下で映写会を開き、支持者を減らさないようにしてきた努力が、ポーランドの革命に繋がったという説明があります。かなり当たっているのではないでしょうか。

 東欧・ソ連の人達がVTRで単に西側の映画を見るにしても、映像の中で実にふんだんに物を使い、自由に言いたいことを言っている西側の人々を見て「うらやましい」と感じたとしても不思議ではありません。ないしろ、例えば東独では国民の4人に一人は秘密警察の協力者か通報者と見られていましたから、とても自由にはモノを言えなかったに違いない。

 加えて、電話線さえあれば自由に世界のどこにでも情報を飛ばせるコンピューターやファックスという存在もある。ポーランドのパソコン保有台数は東欧一だそうです。天安門事件以前の中国では、ファックスが活躍したのだそうです。

 この記事は、「TECHNOLOGY SEEMED THE SERVANT OF REVOLUTION, NOT OF REPRESSION」と結論を下していた。そして、このテクノロジーで伝わってくる情報が、PLURALISM(国家の価値観の多様化、政治観の多様化)をあおったと言える。

 さて、この三条件のうち為政者が簡単にひっくり返せそうなのはどれでしょうか。西側との経済格差の縮小、そしてテクノロジーの進歩の阻害は、いくら権力を持った為政者にも無理でしょう。比較的できそうなのは、「恐怖政治の復活」です。しかし、これも容易ではない。例えばゴルバチョフ議長が政権の座を追われたとして、次の人が直ちに国民に不満を言わせない恐怖政治が出来るかどうか。エリツィンでは無理ですし、リガチョフにそれだけの力があるとも思えない。

 これについては、ポーランドの自主管理労組「連帯」のワレサ議長が興味深い事を言っています。彼は

「IS IT POSSIBLE FOR A STALIN TO APPEAR TODAY WHO COULD MUDER PEOPLE ?」(現在のような時代に、人民を殺害するような新しいスターリンが出現することは可能だろうか)」
.....と自問し、「IN A ERA OF COMPUTERS AND SATELLITE TV, IT'S IMPOSSIBLE.」と結論を下しています。スターリンの恐怖政治は、情報が横に伝われず、国民が無言を強いられていた時代の産物です。

 つまりひっくるめて言うと、今回改革に走り出した東欧諸国・ソ連は、もちろん喧噪と騒動のなかで政治も経済も蛇行を繰り返すにしても、スターリン時代に代表されるような抑圧の暗い時代に戻る可能性は極めて少ないということです。

 しかし重要なのは、だからといってこれら東欧諸国・ソ連の経済改革が必ず成功するとは言えないこと。これは、これら諸国にとってのこれからの課題です。

 =========当時書いた文章のTHE ENDO=========

 20年前に自分が書いた文章を今読み返して思うことは、「今でもあのときのことは鮮明に覚えている」という強い確信です。なぜ覚えているのか。それは衝撃的だったからです。ハンブルクから国境に行き、東ドイツの中に入りたいと国境警備隊と交渉したときの、あのドキドキ。だって、間違ったら逮捕とかあらゆることが起きかねなかった。壁が墜ちて2ヶ月。まだ東ドイツは一つの国としてあったわけです。しかし不思議と「入れる」と確信して交渉してました。小林君がドイツ語が出来たのが助かった。警備兵の顔は今でも覚えているな。お金を変な両替レートで換えろと言われたとき、「それって実は....」と思ったのですが、まあ一応両替レートですから。彼らにも生活がある。

 そうして入った東ドイツの町シュベリーンは、まるで中世でした。今ではこのサイトの”見所”で紹介されている城ですが、当時は朽ち果てつつあるように見えて、まるで「呪われた館」のようでした。道は石畳で狭く、そこをトラバントが陸上ポンポン蒸気のような音を出して走っていた。何よりも驚いたのは、人々の風体です。やせ細り、ひげ面で、西ドイツの人間とは別人種に見えた。壁が人種を分けてしまったと感じたものです。今はきれいな湖も、その当時は枯れ木が墜ちていたりして綺麗ではなかった。

 シュベリーンの町を小林君と一緒に歩いたのですが、本当にたまにある商店の棚は何もないに等しかった。何か記念に買おうと思ったのですが、買う物がない。土間を改造したような商店だったような気がする。食事をしようとして探したがなかったことは書きました。しかたなくホテルに入った。そこには人がいて、「何か出してくれ」と言ったら、「温かいものが出来ない」と言われた。で、コーヒーを飲みながら同じく客として来ていた若い住民と話をしたのです。「西ドイツのテレビは見ていた」と彼は言う。しかし、「それらは全部ウソだと思っていた」と。悲しい話です。たった数十キロ離れた場所(ハンブルク)の日常がウソだと思っていたとは。何よりも今でも思い出すのは、彼の呆然とした顔です。まだ何が起きているのか、自分がこれからどうなるのか分からない不安な気持ちが良く出ていた。当時の東ドイツの人々の顔はみなそうだった。

 シュベリーンはその後も何回も行って、定点観測を続けた。最後に行ったのはベルリンから杉山さんに車に乗せてもらって行ったときかな。その前、数年して行ったときには既に町が完全に変わっていた。アメリカの中西部の町のようになっていて、なにせ Citibank の支店があったことには仰天した。また行きたいが、もう変わらないでしょうね。何せ東ドイツの復興のために、西ドイツ政府は200兆円相当の投資を行ったと。だから「インフラの逆転」が起きている。ミュンヘンよりライプチッヒの方がはるかにきれいな町になった。しかしライプチッヒに職があるかどうかは別です。

 東ベルリンの思い出も強烈です。記録にもありますが、フランクから西ベルリンに飛行機で入って、その後は地下鉄で移動したと思う。ブランデンブルク門のあたりをうろうろしたり、東ベルリンのビルを見回ったのですが、シャビーなビルで人通りが極端に少なかったのを覚えている。壁崩壊から2ヶ月。興奮は冷め、東ドイツの人々は呆然と過ごしていたのではないかと思う。崩壊の熱はあっても、ベルリンの町全体はまだくすんでいました。特に東側は。あとこちの壁に近い道路では、兵隊がヘルメットや時計を並べて売っていた。いくつか買いましたが、使えるものはない。

 「オリンピックではあれだけ光っていた国の実情はこうだったのか」という気持ちが強かった。だから私は、「社会主義が人を不幸にするのに最適なシステムである」と確信した。最近よく思うのは、我々の近くでまだ分断している朝鮮半島も、開けてみれば北はまるで中世だったというような事なのではないか、ということです。板門店から川の向こうを見ても、どこか中世の臭いがする。南から見えるあの場所は、北朝鮮としては一生懸命飾っているのだそうですが、それでもシャビーです。そういえば当時の東ドイツには北朝鮮から来た人がかなりいた。

 そういう東ドイツを見ている私には、「昔の東ドイツが良い」などというドイツの若者がいると言うこと自体に危機感を覚えるのです。社会主義国家・東ドイツははっきり言って酷いシステムの国でした。だから倒れた。その歴史をまずは知ってほしい、と思うわけです。実態も知らずに安易に「懐かしがる」のではなく。

 東ドイツが消えて、単に「ドイツ」と呼ばれるようになったドイツ連邦共和国。その後の統合のプロセスでも色々とありました。私の文章は色々あった問題を取り上げ続けた。しかし今回はそれは書きません。またの機会に。

 90年代と2000年代。ドイツは行くたびに大きく変わっていた。特に東ドイツのサイドは。壁崩壊の当時の東ドイツは、ビル(海砂を使っていたと言われる)はあったがシャビーだった。しかし東ベルリンのある通りは、数年していったら見事なブランドショップ街になっていて、本当に驚いたことを今でも鮮明に覚えている。そこには何回も行ったので、今では何処にモンブランの店(ペンが好きなのです)があるかとか知っているくらいになったが、それでも壁が崩壊した直後との対比がいつも頭の中を巡る。あの真ん中が抜けた旧東独政府の賓客用のホテルは今はどうなっているのか。ユーロ紙幣発行の時(2002年年初だった)に泊まった。懐かしい。

   最後にどうしても書いておかねばならないことがある。社会主義体制の東ドイツは国民相互を監視しあう酷い体制(2006年のドイツの映画「善き人のためのソナタ」などに鮮明)だったが、その東ドイツの体制を崩すために積極的に動いたのはもっぱら東ドイツ国民だったと言うことだ。ライプチッヒには2007年に取材に行って日曜礼拝が行われた教会(11月19日の場所にある写真は聖トーマス教会)の前で写真を撮ったりしたが、壁崩壊に先立って行われた月曜デモ(でしたっけ)の様子などは最近のNHKのBS1の番組などで詳しく取り上げられており、その時のベルリンの東ドイツ首脳の混乱ぶりも明らかになっている。その混乱こそが、予想外の「壁の崩壊」に繋がった。

 最後に、興味深い人の発言を引用しておく。壁崩壊から20年後の2009年11月09日にテレビの特集番組に出たプーチン・ロシア首相の言葉だ。彼は壁崩壊の時にはドレスデンに旧ソ連国家保安委員会(KGB)中佐として駐在していた。彼は東ドイツが80年代の後半に不安定化したのは、「社会主義システムが経済的な損失を発生させ、計画経済は競争力がないことを露呈したからだ」と指摘。さらに「西独の方が生活水準が高く、国民は自由を感じ、政治に積極的に参加していたが、東独には何もなかった」と回想した。的確な指摘だと思う。彼は同じ壁として有名だった万里の長城は民を守ったが、「ベルリンの壁は国民を分断した。だから不自然だった」と述べた。

 実際に東ドイツを見ていた人の、社会主義を経験した人の意見は一致している。「東ドイツには何もなかった」というのは、私の印象でもある。それがベルリンの壁崩壊で分かったことが、壁崩壊の一つの意味合いである。

ycaster 2009/11/09)



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