<2000年の中国-Cyberchat>

何年ぶりだか正確には忘れましたが、久しぶりに中国に行って来ました。私にとって初めての中国の東北部訪問。80年代の半ばに香港からシンセンに入ったのと、北京に数日間居たことがあるくらいが私の中国経験ですが、今回は2000年の9月中旬の約一週間の旅。以下に掲載するのは、そのときの印象記です。


2000年09月09日(土曜日)

 土曜日の午前の便で午後から大連に来ています。フライトで2時間半。時差は1時間。近い。これだったら、国内旅行の感覚です。しかしひどい込み様でした。成田空港も、そして飛行機の中も。15日金曜日の休みを視野に入れて、やや遅れの長めの休みをとった人が多かったのでしょう。

 大連行きのJAL797も満席。一席も余っていない状況。しかし、隣にたまたま座った人が私がPCで文章を書き始めたら話しかけてきて、カナダに住んでいて大連にも事務所があるという台湾出身の人(最後まで彼の職業は分からなかった)で、これが結構面白かった。ずっと彼と話をしながら行けたのはラッキーでした。大連で一番のレストランとかを教わったりして。大連港近くのビルから大連駅を望む方向で

 大連空港の印象は地方空港にしては、昨年行ったハノイ空港よりかなり進んだ印象がしました。空港ビルはしっかりしていて、そこで最初に見た人々の表情も豊かで、体躯もがっしりしている。ベトナムの空港で最初に見かけた人たちは、どちらかと言えば貧弱で、かなりタイムスリップしてきた印象だった。

 街の印象は事前にネットでかなり情報を集めてしまっていたからでしょうが、ある程度は「見ていた通りだ」というもの。いかんですな、あまり情報を集めてしまうと。その分、感動がない。大きなビルがそうですかね、建設中も含めて20棟以上。都市の景観は、その人口500万とあわせて、徐々に整ってきている印象。
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 大連が目指すのは「北方香港」です。つまり読んで字のごとく、北の香港。そしてわずか100年前にロシア人が開き、満州鉄道の基地として日本によって発展のきっかけをつかみ、そして中国の北の大都会に変わりつつある大連は、少なくとも表面的に見ればそれに成功しつつあるように見える。走っている車のマナーは悪いのですが、道路などはかなり整備されている。道路沿いの緑も手が入っている。

 市と市長が「北方香港」を唱える中で香港と決定的に違うのは、大連とその周辺の豊かな面積です。香港は猫の額に都市が造られている。しかし、大連はそうですね鯨の背中に都市が造られている。そういえば公園には鯨の噴水が、自然博物館には鯨の展示がありました。σ(^^)

 北京の天安門広場より広いという星海公園とか、「これは中国一」「これは世界一」とか、やたら規模が大きいことが目立つし、それを売り物にしている。市内観光をしながらガイドをしてくれた金さん(朝鮮族ではないそうですが)の話で気になったのは、「満州鉄道」という単語が出てくる頻度の高さ。

 「これが満州鉄道の本社でした」「これが社宅でした......」「これが病院」と実に頻繁に出てくる。その当時大連の市内の人口は60万。うち日本人が40万人、中国人が20万人という時代があったということなので、それだけこの市に与えている日本、満州鉄道の影響は大きかったということでしょう。「ここは旧日本人街でした」いう説明も何度も受けた。

 大きな規模のビル開発、都市開発が出来るのは、地震がないというこの地方の特質もあるらしい。いくつかは途中で止まっていましたが、大きなビルが今でも建造中です。大連の人々の生活ぶりも見たかったのですが、なかなかそうはいかない部分がある。ガイドに聞いたところ、大連の普通のサラリーマン家庭の一ヶ月の収入は1500元(1元は13円)くらいだそうです。つまり2万円にいかない。

 ですからむろんのこと貧しいところもありますが、タクシーの初乗りが5元(距離は2キロ)の世界ですから、それはそれでちゃんと生活は成り立つようになっている。大連の市の中心部には、その時その時で色が変わる大きな球が道の真ん中にある。

 三つのことを表しているのだそうです。一つは地球でその地球を五本の柱が支えている。むろん、五本の柱は五大陸を意味する。五大陸が地球を支えているというわけです。球のその次の意味は、サッカーボール。大連は中国でももっともサッカーの盛んなところだそうで、若い男の趣味はほとんどのケースにおいてサッカーだそうだ。事実、市民はサッカーを熱心に見ていました。例えば「大連 対 四川」といった戦いを。球の三番目の意味は、大連が「北における真珠」という意味だそうです。

 一つ日本の大部分の都市より大連が優れていると思ったのは、電線の地中化が徹底的に進んでいること、それに夜の街の照明の綺麗さです。電線は市内では全く見かけなかった。だから、都市が鮮明に見える。これは青山、丸の内など都内では一部しか進んでいない東京よりもはるかに進んでいる。

 次に都市の夜間照明。電球の数が108もある街路灯は、街を薄暗く、しかし情緒溢れる形で照らし出して、なんとも綺麗なのです。市の中心の中山広場の照明は特に綺麗で、その下で土曜日ということもあって多くのカップルがゆったりと夕食時の時間を過ごしているのは圧巻でした。


2000年09月10日(日曜日)

 中国・大連で宿泊したシャングリラホテルに見るインターネット事情ですが、ネットへの接続は大きな問題もなく実現しました。ホテルから外部に出る電話番号「9」に日本の国番号「0081」を足して後は東京の「3」以下プロバイダーのナンバーで問題なし。しかし行くときに調べたGRICで中国、特に大連の近くのプロバイダーを探すことが出来なかったので、その度にちょこちょこ国際電話をしなければならない。これは結構大変だった。

 しかも、ケースバイケースでしたが接続速度は28.8だったり、それより遅い速度だったりしたために、「これはしんどいな」という印象。結局中国では自分のコンピューターではメールチェックなど必要最低限のアクセスをしただけでした。
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 日曜日ということで、大連から出て旅順、203高地などに行きましたが、中国人のグループ、日本人のグループと実に大勢の観光客と行くところ行くところで出会いました。秋は当然ながら中国国内でも観光シーズンだそうで、人の動きも激しい。80年代の半ばに北京から行った万里の長城で見かけた中国の観光客と比べると、その数も多いし、何よりも観光客の服装もカラフルで日本人とあまり区別ができないまでになっている印象でした。

 日本人が好むから大連がらみの観光コースにはこういうところ(旅順、203高地などなど)を組み込むのでしょうが、まあ中国にしてみれば迷惑な話で、自分の国の土地に来て不凍港が欲しいロシアと、ロシアの極東進出を阻みたい日本が戦争をした。203(標高)高地の戦いでは日本人兵士が10000人、ロシア人兵士が5000人死んだという。

 しかし飾ってある当時の写真を見れば、直接交戦国でないにもかかわらず中国の連中もかなり戦争に巻き込まれて死んでいる。日本の国土で中国とアメリカが戦争したらどうなるかを考えてみれば、今から考えるととんでもないことをしていたわけです。むろん、当時の常識と今の常識はかなり違いますが、それにしてもという印象。

 203高地というのは、当時の映像は写真で見ると砲弾が飛び交い、兵士が白兵戦を行った場所で山は緑一つないという印象ですが、行ってみるとこれが緑に覆われている。あまり大きな木はないのですが、それでも緑で覆われている。自然の治癒力はまだかなり強いと思いましたが、これは現地の人たちの努力の賜でもあるのでしょうか。

 203高地の近くの「ロシア軍が作ったが、後に日本軍に破壊された塹壕」などの後も見ましたが、まあそこらじゅうに弾痕があってその生々しいこと。ロシア人にしても、日本人にしても「こんなところでは死にたくなかっただろうに....」と思う。縁もゆかりもなかったわけですから。ステッセルだ乃木だと上に立つ人間は有名になったりしていますが、あんなところで死んだひとり一人の兵士にしてみればたまったものではない。それともあまりそういうことを考える暇もなく数万にも上る人が命を落としたのでしょうか。
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 旅順というのは、高いところから見ると確かに入り口が狭く、不凍であるということも合わせて、取り合いになるのが不思議でないほど良い港です。今でも中国の軍港で、外国人は限られた3カ所への立ち入りが許されているだけ。中国の原子力潜水艦の基地はここにあるらしい。

 旅順を取り囲むいくつかの丘の上に砲門を構えて、砲弾を撃ち合ったというわけです。当時の砲弾はリーチの長いものでは7〜8キロはとんだらしい。港から4〜5キロの高台に砲門を構えて打ち合う。あちこちに測定する人を置いて、その人からの位置を知らせる有線電話の情報をもとに地図上の位置に打ち込む。「今はちょっと右に外れた....」とかいいながら。

 コンピューターでセットして発射すればターゲットに着弾するクルーズミサイルから見れば、まあ悠長な話です。しかしその場に居たら、そりゃ生きた心地はしない。しかしこの当時の戦争は肉弾戦ですから、コンピューター時代の戦争に比べて膨大な数の人が命を落とす。見て回ってあまり気持ちの良いものではない。むろん、歴史の一幕ではあるのですが。


2000年09月11日(月曜日)

 旅行のメンバーは、全国鍋物研究会の仲間です。まあ当初目的は「中国に日本にない鍋を発見しよう」ということです。この件は、旅の途中ですからその報告はまた最後に。

 11日は朝から青島に移動。チンタオは、シャントン(山東)省の東部にある省第2の都市。シャントン(山東)半島の南西部、チャオチョウ(膠州)湾をいだく小半島の先端に位置し、ホワン(黄)海に臨む。日本で有名なのは、何と言っても「青島ビール」ですが、他に食品や紡績などを中心とする軽工業、ターリエン(大連)につぐ北方第2位の対外貿易基地としての役割、それから青島海洋大学に代表される海洋研究・開発と、ラオシャン(ろう山=「ろう」は山に労働の労)景勝区や海水浴場などリゾート地からなる観光産業などだそうです。

 ここも19世紀の終わりには漁村にすぎなかったが、1897年にドイツが占拠、翌年租界地として港をひらいたことから発展が始まった。確かに市内、郊外を走っているとヨーロッパ式の都市開発が展開されている印象が強い。屋根の色とか、家やマンションの形などです。ヨーロッパ風の赤屋根が目立つ。なだらかな坂道も多い。青島とは、沖合の島の名だったらしい。第1次世界大戦中に日本が占領、中国に返還されたのは1922年。

 ラオシャンの奇岩や道教のお寺も興味深かったのですが、何と言っても秦の始皇帝のころからの、いやもっと前からのこの地方の日本との関わり。今泉さんによると、このチャオチュウ湾で海に出ると、必ず日本に到着するのだそうです。日本海側、太平洋側の区別はその時の海流の流れによって違うらしいのですが。

 その時代には中国では日本の事を中国から見て太陽の出る東の方にある国という意味で「扶桑」とか「扶桑国」とも、そしてこれは理由は知らないのですが「膠」とも言ったらしい。例えば始皇帝が中国を統一する。そうすると、追われた連中がこの辺に集まって、「それじゃ日本に逃れよう...」ということになる。

 かつてその日本行きの一大基地だったと言われている村も通りました。青島の案内をしてくれた孫さんによると、中国では普通一つの村の全家族が同一の名字ということも珍しくないらしいのですが、その村には実に60位の名字があり、それは日本に行きたい連中が中国各地から集まったためにそうなったという。そういえば、なんとかく懐かしいような.....青島の日本とも縁の深いと言われる村で

 バスを降りて豆をなにかしていた老人3人に近づいて孫さんが話をするのを聞いていましたが、容貌や体の大きななどまあ日本のどこにでもいるような田舎のお爺さん、お婆さんという印象。中国からこうして日本に渡り、そのまま居着いた人も多かったのではないかと思います。
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 われわれの中国の旅の案内をしてくれたのは、この旅行会社の副課長さんである郭威さんです。日本語がうまい中国の女性。河南省の会社なのですが、メンバーの何人かの以前の中国旅行でお世話になって、今回も依頼したようです。聞くと、「10人くらいのまとまった旅行になれば、私はどこにでも行く」と言っていました。旅の旅に別のガイドに来てもらうのは大変ですから、なるほどこの人を頼れば良い....と思いました。ウイグル地区にでもどこにでも行くのだそうです。

 彼女とは別に大連では金さんという男性の大連大学卒25才が、そして青島では孫さんが現地ガイドとして付いてくれた。彼等の日本語は上手だったが、話していたら金さんは大連の日本の会社で少し働いていたことがあるようで、英語も多少出来る。三人とも感じが良かった。金さんは大連大学卒と言うから、この辺では大変なエリートなんでしょう。

 中国で大学に行く人は今でもかなり少ないのだそうです。昔は大学は無料だった。しかし、現在は有料。例えば大連の家族が息子でも娘でも北京の大学に送るには年収のかなりの部分、場合によっては三分の一近くを送らねばらない。これは大変でしょう。よって、お金のある家族しか子息を大学には行かせられない。社会主義の国でありながら、階級格差は広がると言うことになる。


2000年09月12日(火曜日)

 青島の海岸を走ると、日本人の目から見ても「高級住宅」と思える一戸建てやマンションが既に完成しているか、建設途中になっている。そういう場所がたくさんあるのです。広い敷地にしっかりした南欧風の建物、そして海と山が近いという環境。労山(労には本当は山が付きます)など観光地も近い。なるほど環境はよいから、良いところに目を付けたと思わせる。

 しかし、すこし目をこらすと「建設途中で放り出された」ようなビルや家もあること、それに車窓から見る限りあまり人が入居していないとわかることから、「これはおかしい」と気が付く。街の貧しい地域では生活の臭いむんむんとする中国なのに、家が立派な地区では生活の臭いがまったくしないのである。南欧とかドイツ南部地方を思わせる青島の街

 そのかなりの部分は空き家、空室である。聞くと、これは1998年以前に中国の不動産業者が国から資金を借りる形で高い需要を見込んで多くの別荘、高級マンションを建設。しかし、その後の市場の冷却化(98年のアジア通貨危機の影響が大きいという)で売れなくなり、それを抱えたままになっているのだという。それらの物件は不良資産となっているし、これらの業者に対して資金を貸しだした国は不良債権を抱えていることになる。

 先日紹介した『中国「内陸」発』という本には「長引く踊り場」という言葉がでてくるが、今の中国経済が「成長の踊り場」にいることは間違いないようです。
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 今は踊り場にあるとして、今後の成長の目はどこか。一つはITだろうと思う。インターネットにしろ、携帯電話にしろ普及はかなり進んでいるように思える。前者で見ると、郭さんの会社がホームページを持ち、彼女自身もメールアドレスを持っているのはある意味で当然なんでしょうが、大連のホテルのレストランで朝食時に文章を打っていたら、従業員の女性(ウェートレス)がVAIOを見て「beautiful」と言って寄ってきて、「これは98、いや99か....」と。

 いや「99はないから2000だ...」「ああそうそう」とか言いながら話していたら、「自分もやっているが、小さい機械が欲しい....」。まあそう言われても困るのですが、彼女もメールアドレスを持っていていろいろやっているというのです。アドレスを書いた名刺を持ってきたので、私のも渡しました。若者の間では、メールアドレスを持っていることぐらい当然という時代が中国でも出現しているようです。

 ネット接続はないのですが、携帯電話市場も急速に拡大している。番組などで中国の携帯電話市場の拡大は何回も取り上げましたが、見たのは初めて。大連でも青島でも行く先ざきで携帯電話がごく普通に使われている。むろん、若者中心ですが。モトローラやパナソニックの端末が多かったように思う。統計に寄れば、今の中国の携帯電話普及台数は6000万台で、これは日本の台数に等しい。

 中国から国際電話でネット接続していた身から言うと、中国の電話代金は日本に比べても安いと思われる。ホテルから東京の自分のプロバイダーを呼び出して使っても、それほど高くはない。国際電話がそうだから、国内電話は相当安いだろうと考えられる。もっとも携帯電話は据え置き電話よりは高いようですが。月給が1500元(一元は13縁)の中国の人たちにどのくらい負担かどうかは知りませんが。
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 中国の道路事情は80年代に北京に行った時に比べればかなり良くなっている。ハードの部分です。しかしマナーな相変わらず目を覆いたくなる。しばらく車(小型バス)の先頭に座っていたのですが、二重追い越しはあるし、全体にセンターラインに対する意識が希薄な印象。中国では9月1日から横断歩道を渡らなければ罰金という法律が出来たらしいのですが、誰も守っている様子はない。なぜなら、横断歩道がないのですから。

 中国の車のナンバーにはいろいろな色がある。クロ、緑、黄色。なかにはないのもあるが、それは買って3ヶ月間はナンバーを付けて走る必要がないためだという。


2000年09月13日(水曜日)

 ちょっとした異文化体験。青島のホテルで。状況は朝飯。10人のメンバーが揃って、三つのテーブルに別れた。オーダーを聞きにくるウェートレス。といってもセットされていて全員コンチネンタルと決まっている。ジュースの種類、パン、コーヒーかティーか(卵はなかった)を決める。ウェートレスが我々のところに来てジュースを聞いた。そこまではまあ普通だった。

 4人がそれぞれジュースを決めて言い終え、次のパンの種類のオーダーに移ろうとしたら、あんら....彼女は別のテーブルに行ってしまった。何か急用でも起きたのかと思っていたら、彼女隣のテーブルに行ってそこのメンバーにジュールの種類を聞いている。そしてそこが終わったら、もう一つのテーブルでジュースの種類を聞いている。それが全部終わったら、つまりグループ全員のジュースをまず聞き終えるのです。それからやっと、我々のテーブルにパンの種類を聞きに来た.....。

 以下のオーダーもそのような採取方式が続いた。世界各地を訪問したが、こういうオーダーの取り方をしたのはここだけである。でなぜそうしているか....をちょっと考えると、ジュースのオーダーを全部取り終えたところで他の従業員にそのオーダーを伝えているのではないかと思った。あのテーブルのあそこに座っている人はオレンジジュースとか。

 そうすれば、ジュースについては全員に素早くオーダー品が届くというシナリオである。しかしこの推測はもろくも壊れた。ジュースをもってきたのは別の従業員(男性)だったが、彼はオレンジ、グレープフルーツなど3種類のジュースをひとつにつき3カップくらいもってきて、我々の目の前につきだした。自分のを取れというサインである。あんれ、、、、それではあの独特のオーダーの取り方はなんだったのか ?
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 中国で駄目なのは、水、紙全般、特に柔らかい紙(ティッシューのような)、それにコーヒー・紅茶の類です。煙台(えんたい)の朝市。魚、果物、虫といろいろなものが出品されている水はとにかく水道から出た水は飲まない方が良い。そのものが悪いという意味では必ずしもなく(実際に水道管が腐食していて茶色の水が最初出るケースもあるので悪いことは悪いが)、まあ日本人には体に合わないということ。

 だから旅の間中、ウーロン茶だったり、エビアンだったりで水を持ち歩くことになる。しかし特に夏はあまり大きめな水分補給用のボトルを買ってはいけない。移動している間に、空気と水の接触によってその水も悪くなることがある。腹を壊す。事実そういうケースが起きました。

 ウーロン茶でも、無糖が普通の日本人が驚くことには砂糖を入れたやや甘い烏龍茶もある。最初飲んだときは驚いた。まあ飲めなくはないが、少なくとも私は砂糖の入ったウーロン茶は飲んだことがなかったのでく。その後は私ばかりでなく、大勢の人が「無糖の烏龍茶」を探すことになった。

 レストランに入っても「水」は決して黙っていたら出てこないし、オーダーしてもただで出てくるとは思えない。水が黙っていても出てくるのは、日本とアメリカくらいか。少なくとも隣の中国は違う。
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 その市場に出された幼虫中国の物品のプライスは一応何にでも正札として数字は貼ってある。しかし、それは店側の希望より一段と高いところ(私の予想ですが)にあって、そのまま買うのはむしろ礼儀に反する。小さい物を中心にいろいろなものを買ったが、通訳の郭さんなどに入ってもらって交渉すると、大体において直ちに2割は安くなり、背中を向けたりして交渉を継続すると大体において半分にはなる。

 もっと驚くのは、すぐ隣でも店によって価格が大きく違うということである。だから「どの店が安いか」ということを探索し、「1円でも安く買うこと」に興味がある人には中国は天国ではないか。そうとう疲れること請け合いですが。

 訪れた観光地では、どこでもほぼ同じ物を売っていた。最初は「ここで買わなくては、他ではないだろう」と思って買った物もあるが、その大部分はどこにでも置いてあった。そして価格はまったく違った。だから、しばらくすると買い物をするのにも少し知恵が付いて、共通品は覚えるから、他のものを探すことになる。道教のお寺で買ったお守りなどは買って良かったと今でも思うが、そういうものは十分な品数は揃えていない。

 一番大きな買い物は、背中にかけられるバッグでした。もっていかなかったので、必要だった。かなり気に入ったのでグループの今泉さん、ガイドの郭さんと三つ買ったのですが、最初85元だったのが郭さんや今泉さんの交渉(かなりねばり強い)で45元になった。ナイス。むろん、日本でも使います。

 エンカルタによれば、イエンタイ(煙台)は、中華人民共和国シャントン(山東)省の省轄市(省が管轄する市)。シャントン(山東)半島の北側に位置する港湾・工業・観光都市。ラッカセイとリンゴの産地として知られ、生産量はそれぞれ国内の6分の1、5分の1を占める。工業は缶詰食品・ワイン醸造・絹・金細工・時計・建材・合成皮革・工芸品などが発達している。三方が海に面しているため漁業基地としても発展、国内総漁獲量の10%を占める。海にのぞむ丹崖山にたつ蓬莱閣は唐、宋、元と各時代に建設された建築群の総称で、展望のすばらしさから「この世の仙境」と称される。時には蜃気楼もみられる。面積は1万3507km2。人口は630万人(1993年)。

 古くはチーフー(芝罘:しふ)の名で知られ、秦の始皇帝が3度おとずれ海をのぞんでサメを射止めたという。前漢時代に海路がひらけた。地名の由来は、1398年倭寇にそなえる軍事基地として芝罘にのろし台がもうけられたことによる。1858年、天津条約によって通商港として開港、十数カ国の領事館が設置され、国際貿易都市としてさかえた。


2000年09月14日(木曜日)

 中国の朝は早かった。訪問したのは大連、青島、煙台とわずかに数カ所ですが、たぶん全国そうでしょう。煙台では5時起きして数人で「自由市場」に午前の6時過ぎに行ったのですが、もう人が一杯で動くのにも苦労するくらいだった。聞けば市場(いちば)は午前の4時頃からやっているそうで、午前の6時過ぎといえば既にピークを過ぎているという。

 大連では最終日は午前中が自由時間だったので、早起きしてホテルの近く(大連駅の近く)を一人で2時間ほどぶらぶらと歩きましたが、通勤風景が見られる一方で街は既に活況を呈していた。「早餐」と書いた朝食屋が1元から4元でお粥のような朝食を用意し、しかも呼び込みを使って客を誘っている。まるで夕方のような喧騒です。客が少ない店が多かったので、覗いただけで実際には入りませんでしたが。

 大連薬局と書いてある薬屋は午前の8時に店を開けて、入ると凄い薬の臭いがしたし、それから30分後の8時30分には銀行が店を開けた。そして9時にはデパートが開くという感じである。都市でもそうなのだから、一般的には中国の地方の朝はもっと早いのではないか。

 通勤風景といっても日本のように多くの人の歩く方向が同じと言うことはない。大連駅の一日の利用客は80万人だそうだが、それぞれが勝手な方向に歩いている。驚くことに、誰もネクタイをしていな。ワイシャツもまれで、皆開襟シャツ、Tシャツ。唯一見つけたネクタイ姿の男性は、マクドナルドの店長だった。

 男も女も皆小さなバッグを抱えて歩いている。服装はまったくばらばらである。決して高くはないし、どちらかと言えば粗末だが、それでも服装は多彩である。昔の人民服はわずかにおこじきさんが着ていただけで、あとは全く見かけなかった。ごくまれに底厚靴の女の子が歩いていたし、それよりまだ希だが、チャパツのおねえちゃんもいる。

 最初中国人相手の小さな店で肉まんを買って歩きながら食べていたが、どうも腹に馴染みそうもないので目に入ったマクドナルドに突入してみた。「麦当労(本当はくさかんむり)」と書く。ケンタッキーは「肯徳茎」である。大連の中山広場の大和ホテルの上にある大スクリーン。市民は夜ここに集まってサッカーの試合を見たり、独特の足蹴りゲームをしたり、ダンスをしたり

 値段はたぶん中国人には高い。ビッグマックが16.8元。ソフトクリームが2元、シェークが4元、アップルパイが3元。「ここはどうだ」とコーヒーを飲んだらやはりまずい。大連で強く感じたのは、どこが社会主義か、市場経済そのものではということである。
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 たぶんここ数年だと思うが、中国はすさまじい勢いで「商品」が溢れかえる経済を作った。デパートに行けば分かる。モノが溢れかえっているのである。良い品も多い。悪かろう安かろうだけではないところの入り口に来ている感じがする。街の看板には、「DVD」の字が踊り、CDが驚くような安さで売っている。「商品経済」の登場である。女性の着る物が豊富だし、家具も揃っている。「商品経済」ということは、同時に「貨幣経済」が支配的になったということである。お金が全ての価値の尺度になる

 中国が世界においても有数の「モノづくりの工場」になっていることを考えれば、これは不自然なことではない。ユニクロといい製品はもともとは中国で作っているのである。そして作っていないものは輸入している。日本の製品も溢れかえっている。ソニーの比較的性能の高いウォークマンは2000元弱だった。普通の働き手は、一ヶ月の給料で買えない。その豊かな商品を買える所得のある連中と、そうではなく大連駅の近くでも見たが物乞いに落ちている連中との格差。

 大連駅の近くでも、朝から何をするでもなく街にたたずんでいる連中が多かった。若い人も多い。中国では国内航空でもパスポートを要求されるなど人の移動を制限しているが、それでも人は動いて流民化している。繁栄を迎えつつあるように見える商品経済と、所在なく街にたたずむ連中との共存。大連駅に佇んでいると、行き交う人々の時代の変化に対するとまどいの表情を見ることが出来る。確認に満ちて歩いている人はいない。

 それはそうだろう。社会主義という思想が根底にあった社会から、急速に「商品」が中心になる経済になって、お金が重要になった。しかし、それに加えて携帯電話だコンピューターだと身の回りはめまぐるしく変わる。そして中国にも「情報化社会」が訪れようとしている。日本人よりもはるかに短い時間でいくつもの時代を中国の人々は経験しているのである。

 大連のガイドをしてくれた金さんが、今の中国で高い所得を持つ人々はケ小平の改革開放路線が始まった時に勇気を持って自分で事業を始めた人たちだと言っていた。建物の内装業者、医者、そして最近ではIT技術者。彼等は普通の人々に対して高い所得を持つ。そして金持ちのもう一つのグループがいる。民衆や企業にたかる役人である。袖の下というやつだ。これが中国で蔓延していることはつい最近非常に地位の高い役人の死刑によって証明された。
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 街を歩きながら、今後中国はどんな発展過程をたどるのだろうかと思った。これから伸びそうな重要な商品のかなりの部分は輸入なのである。繊維とか在来産業では、労働賃金の安さ故に強みを発揮しつつある。しかし、それが発展の原動力になるのも当分の間だけだろう。「成長の踊り場」はもっと長引くことは必至なのだ。半導体産業も、コンピューターも産業もない。

 しかし中国の強みは、「民族」という店では非常に幅広い領域で活躍するタレントを擁しているということである。台湾はコンピューター産業のメッカだし、中国人はアメリカでもいろいろな分野で活躍している。ことビジネスという点では、ユダヤの人々と並んで情報網は整備されている。

 しかし「製造業」はどうだろうか。集団としての統制とかモノを最後まで仕上げることに対する熱意は低いように思える。人口の大きな、領土の広さ、革新と保守との対立、内陸と沿岸の成長率格差、そして地方の違い。こうした違い故に、中国は「偉大なるカオス」の状態が続くような印象もある。だからこの国は、「こうだ」と言えないままの国なのではとも思う。


2000年09月15〜16日(金〜土曜日)

 帰国したのがちょうど木曜日の午後6時。日本のサッカーチームが南アフリカと試合を始めた直後。帰ったら終わっていました。しばらくオリンピックが話題の中心と言うことで、金曜日の朝のスタンバイの最初の話題も森本さんのシドニー報告でした。柔道も金をまず二と取ったし。それにしても、田島の「めちゃ悔しい」は日本人離れしていて良かった。

 数日間しか中国に行っていなかったのですから世の中それほど変わっていないのですが、一つ変わったのはNTT東日本からの封書が届いていて、何かと思ったら「フレッツISDN」の利用開始通知。18日から使用できるという。この件に関してはこのコーナーの読者の方にもいろいろ教えていただきましたが、こで私も毎月4500円の利用料でネットの使い放題が始まるというわけです。

 結局メインに使っているグローバル・オンラインが対応しないので、NIFTYにつないで、メーラーの送りサイドを mail.nifty.com(でしたっけ)にする予定です。18日の午後開始ですので、あと数日は現状のままです。

 中国に関しては最大の「鍋」をまだまとめていないのですが、それは後日このコーナーにアップする予定です。
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 大連の印象の続きです。正直言って、大連が「北方香港」の名にふさわしく、その夜もかなり香港に近いことには驚きました。旅行者として初めて来て、かつ団体で行動している分際としてはあまり自由な行動は慎んだのですが、大連の夜の風俗の開放度はホテルのバーに行っただけで分かる。

 夜の9時半過ぎだったでしょうか。まだ寝るのは早いのでちょっと飲もうと思ったのでバーに降りていったら、女性の3人組がダンスをしながら歌を歌っている。何の歌だか分かりませんでしたが、銀めらのかなりボディーを露出した衣装で、踊りはうまいとは言えませんが、英語の歌を結構楽しそうに歌っている。ここが原則社会主義の中国の本土であることを考えれば、「へえ、こんなこともしているんだ」という印象。

 バーはカウンターが20席、その奥にあるイス席が50くらいですが、すぐ気が付くのはカウンターを中心にジュースを置いて女性が一人だったり、二人だったりして所在なしに、誰かを待つではなく座っていること。世界中どこの国に行っても、この手の女性が何を狙っているかは明白です。最初「ここは中国だから....」とか思ったが、どうもそうなんですな。纏足の足と、普通の足=中国の大連で撮影

 男の種類はというと、西洋系が20人弱くらいいたでしょうか。東洋系は日本人だか、韓国人だか、はてまたジモチーなのかわからない。あまり日本語は聞こえなかったので、中国人(地元の人ではないかもしれませんが)のようだった。むろんグループで来ている人たちもいたし、ただ軽く飲みに来た人も居たようですが。

 しばらく飲んでいたら、目線を送ってくる連中がいる。面倒なので無視していましたが二人ほど接近してきて、ビールを飲みたいだとか、「私はお金が必要だ」と直接的に言うのもいてからかっていたら面白かった。むろん、こっちは中国語が出来ない、向こうはほんのちょっとしか英語が出来ないで、意思はほとんど伝わらない。考えてみれば、あまり英語がうまい女性は、そういうことなんでしょう。しかも危ない。

 30分ほど居て引き上げましたが、まああれも現代「北方香港」の大連の実状なんでしょう。大和ホテルのバーもそんな感じでした。シャングリラは大連で最高級なホテルでそうなんだそうですから、あとはおして知るべし。女性の一人は吉林省の出身だと言っていた。来る直前にも旅行中にも読んでいた『中国「内陸」発』(村山 弘)さんの書いた本を思い出しました。
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