<GNHを掲げながら成長を目指す魅惑の国・ブータン=2009年8月-Cyberchat>

 2009年の8月28日から9月3日までという短い期間だったが、中国とインドに挟まれたヒマラヤの南の国・ブータンを訪れた。2007年のモンゴルに続いて、アジアでは非常に珍しい人口希少の国。日本人とブータン人は遠い先祖は一緒ではないか、などという学説があることは知っていたので、「一度は行きたい国」だったのだが、それが実現したもの。

 主催は 全日本鍋物研究会だが、最近は1997年から10年ほど毎年恒例だった鍋物大会も諸般の都合により実施しなくなったので、私にとっては年に一度会員の方々に確実に会える機会。それが今回はブータン視察となった。加えて、今回は日本人にとってまだまだ珍しい国に行きたいと意思表示した会員以外の有志を含めて、総勢16人が参加した。一部は大阪・京都、それに長野からも参加した。

 のっけから食べ物の話で申し訳ないが、松の多いブータンはちょうど松茸の季節で、ブータン人が食べる習慣もなく全く口にしない松茸を滞在中の実質4日のうち3日のランチか夕食で食すというラッキーがありました。むろん焼きもあったが、日本ではあまりない茹で松茸もあった。味はちょっと香りに問題があったが、それでも十二分に松茸で「食」にまず恵まれた旅だった。

食べ物としては松茸に恵まれた旅だった。ブータン人は松茸を全く食べないのだという。写真は茹で松茸  もっとも食が旅の目的だったわけではない。春にブータン行きが決まったのだが、その段階から徐々に調べ始めていたし、この南の国に興味のある日本人はなかなか多くて、彼等との会話の中で思いついた点もあって、大方以下のようながポイントがあった。

  1. 日本人とブータン人はどこまで似ているのか、または違うのか
  2. どんな生活をし、どんなことを考えているのか
  3. その中で、「ブータンはGNHの国」と言われるが、その概念と実体は
  4. 雄大な景色や古い宗教施設をこの目に刻みつけること
 この全ての期待・希望に今回の旅が100%の答えと残像を出してくれたわけではない。所詮ある一つの国を知り尽くすなどと言うことは出来ない。我々日本人が日本の全てを知っているかと言えばそうではないわけだから、ましてや他の国のことなど無理だ。しかし、実際に行けば、聞いたり読んだりしている以上に見えてくるものはある。それが重要で、今回も疑問、問いかけに多少の答えは出た旅だった。

 まず「日本人とブータン人は似ている」と言われるから、私が旅する中で「これは決定的に違う」と思ったことから書く。第一にブータン人は「墓を持たない」。日本は何処に行ってもお墓を見ることが出来る。しかしブータンには墓はない。では死んだらどうするのか。火葬にして、基本的には縁のある場所などに蒔く。時々ツァツァ(Tsatsa、下に写真がある)と呼ばれる非常に小さな(手の平に乗るような)仏塔(土などを固める)に混ぜて、道路沿いなどの岩の出っ張りの下に置く(下に写真があります)。

 墓を作るか作らないか、というのは非常に大きな文化的違いだと私は思う。私は実はこの一事をもってしても、日本とブータン人の祖先が一緒だとは思わない。なぜなら祖先が一緒だったら、どちらかの、つまり作るのか作らないのかの風習を共に残しているはずだからだ。人の死に対する姿勢は極めて伝統的なものであると思うからだ。私の素人考えですが。

 第二に、ブータンは日本に比べて圧倒的に宗教の役割が大きい国である。ブータンの国旗は左上角と右下角を結んだ線を分岐線に上が黄色、下が赤となっている。この黄色は王権を示し、下の赤は仏教の力を意味している。その真ん中に白い雷龍が二つの白玉を握っている。その白玉は富を意味する。いずれにせよ、国旗の半分は宗教が位置を占める。「僧権」と言っても良い。全く日本と違う。ここまでは文化的なことだ。

 第三に日本もある意味で「山の国」だが、別の視点をすれば「四方を海に囲まれた国」であることだ。対してブータンは「極限に山の国」だと言って良い。行けども行けども山であり、しかも急峻である。本来は道など造れそうもない山々が続いているが、その崖のような所に狭い道を延々と造った。インド人が造ったケースが多いそうだが(だからガタガタだと一部の人は言う)、であるが故にブータンでの道路移動は一歩間違えば谷底に真っ逆さまが確実な左右に首を振るジェットコースターに乗っているのと同じである。

 マイクロバスで移動したが、運転手の横の席は座っていると実に恐ろしい。景色はいいのでそれがプラスだが、しばしば谷底が深々と口を開けているように見える。誘うかのように。そして時に道のカーブの具合では、まるで谷底に向かう道を走っているような気になる。日本には片道4車線、合計8車線の道路は結構あるが、ブータンには片道2車線の道路は首都ティンプーに2キロ弱あるだけだ。あとは片道1車線があるが、それも少ない。大部分は車線もない山間を抜ける狭い、そしてボコボコの道である。スピードは出しても40キロ。物理的にはかなり違う。

車の前を悠然と進む牛たち。ブータンの道路ではしばしば牛などの行進に車が妨げられる  逆に素直に似ていると思ったのは、ブータンの民俗衣装の色と形。日本の昔の人々が着ていたと教えられている色合いに非常に似ている。男性用を「ゴ」、女性用を「キラ」と言う。日本の着物に似ていなくもない。特に昔の日本人のそれに似てはいる。着るものよりも、肌の色や顔形が非常に似ている。南の国なので色が黒い人が多い。しかしそれは毎日太陽に焼かれている結果である。例えば我々の旅を一貫して現地ガイドしてくれたジュルミさんが隣に座っていたことがあったが、顔は良く焼けているが、長い靴下の上の足を見ると日本人と同じに白い。

 それほど長く滞在したわけではないので詳しく言語を比較する余裕はなかったが、数字の数え方などは非常に似ていると思った。もう忘れたが、例えば「12」などの数字の発音は非常に近かったように思う。手での数字の数え方も似ている。中国などとは全く違う。非常に素直な日本型である。もっとも一部の人達はインド式を示した。ブータンが東にはミャンマーから入った人々が、北はチベットから来た人々が、そして南はインドから来た人々がいて、それが一つの国を作ったと言われる国だから、いろいろな文化が混在しているが、興味深い点が多かった。何よりもブータンの人々は人なつこい。

 既に指摘したが、地理的に日本とブータンがもっとも違うのは日本が海に囲まれた国であるのに対して、ブータンが陸に、従って国境線でいくつかの国と接している国だということだ。よってブータン人はヨーロッパの中央部の国がそうであるように、国民は自然と多言語を問題なくこなす。基本は自国の言葉を喋るが、加えてネパール語は全員が喋り、チベット語を喋る人も多く、インドのヒンズー語も解する人がいる。そして「国民の4割は英語が喋れる」(第二現地ガイドのワンチュウさん)となっている。その背景は下の日々に書いた文章に詳しい。

 ブータンが陸地で他国と国境を接していると言うことは、この種の国々が抱える問題を同様に抱えているということだ。ブータンの人口は65万人と言われる。道路が通じている南のインドの人口は11億人。65万などインドの中堅都市にも及ばない。だから奇妙なことがある。ブータンにはインド軍が駐留している。ブータンにも軍隊(陸軍)もあるが、それとは別に常にインド軍が駐留している。インドとしては北の脅威・中国に備えたいのだろう。であるが故に、インド軍はブータン軍のそれも含めて全てのブータンの防衛経費を負担しているという。実際にブータンをバス移動中にインド軍のトラックを何台も見た。ASHOKAと表記されていた。

 ブータンの北はヒマラヤで、よって北の隣国・中国に抜ける道はない。陸地で抜けようとしたら基本的にはインドに抜ける。数本の道があるらしい。ということは、インドが臍を曲げたら、石油も食糧もブータンには何も入ってこないということ。つまり生命線を握られいるのだ。であるが故に、ブータンは独立国だがインドの意向を汲まなければならない。小国の悲哀がある。

 しかし仏教が色濃く政治や人々の生き方にも反映しているブータンには、今や世界に教えられる一つのアイデアがある。それはGross National Happiness(国民総幸福度)という考え方だ。日本からのツアコンであるWECトレックの稲村さんによれば、この考え方を最初にブータンが世界に示したのは1971年の国連加盟時の国王の演説だという。「国は小さいが、独自の哲学で行く」という発言の中で出てきたという。

 国民や国の豊かさを数字や物量で図るのではなく、「国民一人一人がどのくらい幸福を感じているのか」というのがブータンの国会運営・経済運営への視点なのだ。その考え方を代表するのが鶴の里として有名なポブジカだという。この村には電気が来ていない。電線を引ける状況にはあるのだが、毎年10月にはヒマラヤを気絶しそうになりながら(なので一部の鶴は死ぬ)越えてくる鶴(主にオグロヅル)の越冬地。村の人々はまず「電線など引いたら鶴がひっかかってしまう」と考えた。

鶴の里であるポブジカ。朝霧の中に鶴がくる湿原が見える  次に村の人々は、「我々は農家であって、暗くなったら基本的には電気が消えても良い生活をしている」と考えた。昔は蝋燭しかなかったが、今は政府が太陽光発電装置を無料で配ってくれる。その電気を一日の夕刻に2〜3時間使うだけで、「電気を引いて今までの生活を変えなくても良いのではないか」と。村の会議で決めたそうです。

 そこまで村の意向を聞いて政府も、「住民がそこまで言って鶴を守るために電気を引かずに今まで通りが良い」というならそのままで行こう、ということになった。その、「あえて変化を望まない」「自然と生きる」「電気を引いて成長を望むよりは今のままが良い」という考え方が、ブータン全体のGNH思考、さらにはその哲学に繋がったとされる。その手の村は、ポブジカよりも田舎で電気が行かない村にも同じところがあるという。

ブータンで見付けた眉毛が繋がった少年。日本ではここまで眉毛が繋がっているのは珍しい  しかしブータン全体が成長を欲していないか、というとそんなことはない。パロでもティンプーでも街は急速に都市化していて、伝統的なブータンの家ではなく日本や欧州にあるようなマンションも増えている。そこではブータンで自然であった便所(ない場合もある)も風呂(私たちが見たのは熱した石を入れる石風呂)も外という生活は昔のもので、「より良いよい生活をしたい」という若者は増えている。彼等は金曜日の夜には羽目を外して騒ぐこともする。

 現地の英字紙には、「ブータンの新しい成長の糧」として、政府が鉱物資源に目を付けているとの記事があった。ブータンの今の輸出品は、インド向け電力と農産物輸出くらい。援助は沢山来るが、それで国を一段上に豊かにすることは出来ない。まだ未調査の場所がブータンにはいっぱいある。なにせ以下のブータンではインフラが決定的に欠落している。ホテルでもお湯を出すと黄色い。錆や泥が入っているのです。だから、そこからは脱出したいし、その為には成長は必要だ。

 しかし、成長は「人の幸福を大事にしたものでなければならない」とブータンの人々は考え、それを実践しようとしている。何よりも人々が「自分は幸せだ」と感じるのは、社会全体として格差がないことだという。むろん金持ち、貧乏人はいるが、「目立つほど差がない」(ジュルミ)というところが非常に重要だと。

 それは正しい考え方かも知れない。タイにしろ中国にしろ、成長を急いで格差を作った国ほど国内騒乱が大きい。ブータンの人々が総じて幸せそうに見えるのはそういう背景がある。ブータンは成長そのものは拒否していない。しかし急いでの成長は拒否している。隣国であるネパールは格差故に政情は不安だ。ネパールでは政府高官が賄賂を取るのは普通だと言われ、だから民衆が騒ぐ。ブータンのトップは国王で、国王はネパールを反面教師にしながらブータンの政情安定化の為にも「GNHという哲学」を堅持していると言える。

 長くなりました。もっと書きたいことはあるが、「宗教的熱意」の問題などに関しては、日々の文章の中で書いている部分があり、重複は避けます。下までお読み下さい。

 最後になりましたが、ブータンに入るとそこら中に旗がたなびいている。各家の屋根の上には必ず一つあるし、家の回りにも戦国時代の戦旗のような形をしている旗がいっぱいある。よく見るとそれらは五色である。長く使っていて変色しているものがあるが、基本は五つの色からなる。それぞれの色は意味を持つ。ブータンの人々が何を大事にしているのか分かるので説明しておく。

 白=風
 緑=自然
 赤=火
 青=水
 黄色=土
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 以下は日々に書いた文章です。ご参考に。直前にも書きましたが、ブータンを移動しながら一番考えたのは「宗教的熱意」と「我々の立ち位置」です。

 最後に。ブータンよ、ガディンチェ(ありがとう)、そしてメロメロ(私のもの)


2009年08月28日(金曜日)

 (23:10)随分と非効率な飛び方をするものですが、一端ブータンより遙かに南のバンコクに移動してきていて、明日の早朝でのブータン行きの便に会わせて市内のホテルに投宿しています。空港を離れて一晩を過ごすわけですから、明らかに入国手続きが必要で、さらに空港から離れて市の中心部にあるホテルまで一時間もバスに乗っての到着。

 バンコクは久しぶりです。もう何時だったか思い出せないほど。確か最初は20数年前だと思う。何回が来ているのですが、確実に最後に来てから10年はたつ。プーケットに遊びに来た折りにも乗り換えの為にバンコクには1日ほどいたことがあるし、ビジネスでも来ている。

 久しぶりに見るバンコクは随分と変わった印象。市内は高層ビルがにょきにょきと立って、相変わらず空気は悪いのですが、以前見た「バイクの波」は既にない。今あるのは車の波で、日本車が山のように走っている。

 日本車なんだが何か違うと思ってみると、実にカラフルなのです。真っ赤な車、オレンジの車などなど。それもタクシーが非常に派手で、思い思いの色をしている。空港からの道で一番目立つのは、道路の脇を建設中のモノレールの線路が走っていることです。「今年の秋完成」の予定だったそうですが、「どうやら来年の春になりそう」という。相変わらず地下鉄はないそうで、新交通手段としてはこのモノレールが切り札のようだ。当方が市内を移動した夕方は、金曜日と言うこともあって大渋滞。

 タイと言えば、あの空港占拠事件が私には記憶に新しい。去年の事でした。民主化市民連合(PAD、反タクシン派)による首相府占拠事件が起き、当時のサマック首相が9月9日に首相職を失職。これを受けてソムチャイ副首相兼教育相が後継者として首班指名を受けて9月25日に新政権が発足したが、PADによる反政府デモが激化し、バンコク国際空港(我々が降り立った。綺麗で立派でした)等が占拠される事態となったというもの。

 観光立国なのに空港が占拠されたので帰るに帰れない観光客が続出。入国も出来なくなり、「タイの観光客が減った」というところまで理解していた。今回空港からホテルまでのバスのガイドをしてくれ、その後も市内を案内してくれたナンさんによると、一時タイへの観光客は80%も減少したらしい。それが徐々に戻ってきているという状況。ナンさんは、「空港を占拠したのは、ほとんどが田舎の人」と。

 近代化もしたのですが、ホテルを出て市内を歩くと「バンコクの臭い」がする。延々と続く屋台やモノ売りの店は以前通りです。懐かしい甘酸っぱい臭い。あの占拠事件やその後の世界経済の混乱でタイも経済的には今は苦しいはずですが、その辺は街を久しぶりに歩いただけでは分からない。しばらくいれば話も聞けるのでしょうが。

 パーティは大阪から来たグループも会わせて総勢16人。実に多彩です。これだけいると、集団移動でもいろいろある。今日はバンコクの空港で荷物をピックアップして集合と言うことになった時に一人行方不明(ちょっと大袈裟ですが)になって、ちょっと全員立ち往生ということも。ま、直ぐにジョインとなりましたが。

 「あ、タイのここは変わっていないな」というところは、レストランなどでの挨拶ですね。こちらが英語で言っても、日本語で言っても、タイのサイドの人の挨拶は決まって「コップンカー」です。特に女性は。あの空港占拠事件でタイの印象は変わったが、これだけは変わらない。

 ははは、明日は午前2時半起きで朝5時40分バンコク発ブータン行きの飛行機に、というスケジュール。ブータンはどんな国なんでしょうね。


2009年08月29日(土曜日)

 (23:10)やっぱり現地に飛ぶと今までほとんど知らなかった、または知られてブータンの民俗衣装の空港職員達と いなかった面白い現実が明らかになる。例えば

  1. ブータンでは離婚率が高い。何%というパーセンテージが明らかになるほど各種統計は揃っていないが、この点はしっかりとブータン在住の二人の人から確認。日本に留学したことのある現地の人は、「ブータンの人は日本ほど大がかりで結婚式はしない。だから何かあると簡単に別れる」と説明。「子供はどうするの」と聞いたら、「どちらでも」と。「家族」の概念が日本人とは相当違うという印象がある

  2. これに関連して言うと、ブータンでは普通の男性でも3人まで妻を娶ることが出来る。しかし少数民族の中には、女性が何人もの男性、もっと具体的には一人の夫の兄弟などと婚姻関係を結ぶこともある。男性の役割は、「家を守る人」「家畜を守る人」「外と商売する人」などの役割があって、様々なケースがあるが全体的にブータンは女系社会である

  3. ブータンの平均寿命は女性が70才、男性が65才くらいでだいぶ延びてきている。大体一軒の家には三世代が同居し、子供は普通は2人か3人なので、だいたい6人とか8人家族である。所得は大学を出て直ぐに役所に入る層で月給2万5000円くらい。しかし家賃が高い首都のティンプーでこれで生活するのは難しい

  4. お金持ちも貧しい人もいるが、総じて言うならばインドや中国のようにブータンには激しい所得格差はない。それ故のGNH(国民総幸福度)の高さであり、ブータン政府はそうした格差が小さい状態を持続させてブータンを国民の幸福度において世界のトップの国にしておきたいようだ
 などでしょうか。まだ空路到着してパロの街を少し移動して昔は見張り台だった国立博物館とその下にある城(ゾン)を見て、その後1時間の山道運転を経て首都のティンプーに到着しただけですが。しかし現地のツアーガイドの方や、日本から添乗してくれている稲村さんと話をしたり、ティンプーの街に出て土産物店で英語や日本語が喋れる人を見付けて話しているといろいろなことが分かってくる。

ブータンの基本的な建物の文様。白と茶色の組合せ、そのグラデーションが非常に鮮やかである  実はブータンは「人口が一体何人いるのか正確には把握していない」というのが実体らしい。国連に加盟する1971年に「加盟するには人口が多い方が良い」ということで、目の子で多めに発表したものの、それが信頼できる証拠はどこにもないし、現在でも正確な人口は分からないという。ネパールからの難民などもいるので。

 話を聞いていると、ブータンはその昔、周辺のチベットやネパールとかなり熾烈な対立があったようで、今でもゾンなどにはその跡が残っている。捕虜にした敵兵の拷問部屋なども。まあでもそれは昔のことで、今は一万人にも満たない陸軍はあるものの、全般的にはブータンは平和です。ネパールやチベットのことを思えば。犯罪はあるが、「街を歩いても大丈夫」とのことで、確かに人々の目もきつくないし、どちらかというと穏和。

谷間の国ブータン。国内唯一の飛行場があるパロがもっとも幅広な谷の間の空間で、飛行場はこの後ろ側にあるが、山が迫ってきて恐ろしいという人が多い「谷間に平地を見付けては人間が住んでいる」という印象が強い国です。九州ほどの面積がありますが、そこに推定65万人。その理由は、川が流れる谷間にラッキーなことに少しでも平地が出来るとそこに人が住み着いた国であるから、人口が増えようがない。

 写真(三番目)もアップしておきましたが、ここが一番横広の谷でパロという町に発展し、であるが故に国内で唯一の実用飛行場が出来ている、というのですから。これからまだいろいろな都市や名勝地に行きますが、一つ言えるのか今日もそうだったし今後ともそうでしょうが、バスでの移動は「一歩間違えば谷底」という山道を出しても時速40キロの低速でのそれになるということです。まあ運転手さんは慣れているのでしょうが、一番前に座っていると時々、「あらら」と思うことがある。しかも、かなりの道がセンターラインもない狭い道で、左手を見ると(私が左に座っていたので)深い谷底が望めるという状況。ブータンの首都ティンプーの街並み。人口65万のブータンにあって、10万人が住むとされる。しかしブータンの人口統計はほとんど整備されていないという

 それにしても、この国の民が今まで培ってきた色彩感覚はなかなか良いと思いました。白い壁の上に茶をベースとしたくっきり浮かび上がる色の数々とはえる建物。民家まで実に調和が取れているのです。男性用は「ゴ」、女性用は「キラ」と呼ばれる民俗衣装も浮いていない感じで良い。

 ブータンは1989年より日常着として公の場での民族衣装の着用を国民に義務付けている。今日は土曜日だったので、比較的日本でも見かけるような普段着姿の若いひともいたが、月曜日になれば公的機関(ゾンや役所など)、寺院、学校、公式集会、公式行事などでは民俗衣装の行列が見られるはずだ。

 ああそれから、パロには西岡京治さん(1992年3月21日没)の活躍の跡をいくつも見ることが出来ました。彼は日本の海外技術協力事業団の農業専門家、植物学者で、長年ブータンで農業指導に当たり、ブータン農業の父といわれた人物。いろいろなところで日本人が活躍したことを確認できるのは嬉しいことです。

 あと写真を一杯アップしたいのですが、このページなどにもいろいろあるようなので、そちらも参考にして下さい。


2009年08月30日(日曜日)

 (06:15)日本は今日は選挙ですか。期日前投票をすませてきた私としては「全体の結果待ち」という状況なのですが、タイ経由でブータンに来ている身として日本の総選挙について一つ報告することがあるとすると、それは今回の選挙が海外でも非常に関心が高い、とうことです。そしてもっと正確に言うならば圧倒的優位が伝えられている民主党(DPJ=Democratic Party of Japan)とその政策、さらには党首である鳩山代表に対する関心が高いということです。

 ここ数日私が見た新聞、タイの新聞であれ、ブータンの新聞であれ、そして欧米の有力紙であれ、何らかの形で日本の総選挙の記事を掲げて、その上で「Japan Opposition Set for victory」と一面トップの見出しを掲げている。「Set for Victory」を赤くしたのは、「THE NATION」というタイの有力紙がそのように見出しを印刷しているからです。紙面中央に掲げられた写真は、鳩山代表のそれです。

 大部分の海外紙の記事のポイントは、「戦後50年、ほぼ絶えることなく続いてきた日本の保守の政治が、DPJの地滑り(landslide)的な大勝利によって終わるかも知れない」という点です。各紙とも日本の新聞の世論調査などを引用して、480議席のうち300議席程度はDPJが取りそうだ、という内容。

 各紙の関心はそこでは止まっていない。では日本の新しい政権がどういう政策を取るのか、対米関係をどう変えるのか、自分の国・地域との関係をどう変えてくるのか、日本と中国との関係は・・・・・・と広がる。そりゃあそうでしょう、そうは言っても、日本はもうすぐ追い抜かれるにしても世界第二位の経済大国であるわけだから、各国にとって何らかの影響はある。

 そういう海外の関心を意識してか、民主党の鳩山代表はニューヨーク時間の木曜日のニューヨーク・タイムズに「A New Path for Japan」(日本の新しい道)と題する文章を寄せている。原文を読んで頂ければ良いのですが、今までの日本の外交姿勢の変更を理念的に示唆している。具体的にどう変えるのかには踏み込んでいるようには思えない。

 思えないのに、アメリカからは「失望した」といって一部の意見も出ているようです。まあそれはそんなものでしょう。同盟国の新しいトップが出てきてそれが完全に意に添うなどということは、逆に良くない。

 まあでも、結果はどう出るか知りません。直ぐに分かるかどうかも分からない。ケイタイ電話は通じるものの、データ関連は全く駄目な(ドコモのケースです)ブータンですから、いかように日本での開票結果が分かるか不明なのです。今はブータンの首都ティンプーのホテルに居ますから無線LANが繋がっていますが、これから地方に移動したらいよいよ「衛星通信をトライ」ということになる。以前写真でお見せしたものです。これがうまく行くかどうかは不明です。

 まあでも、日本のはるか南から出来る範囲で自分の国の選挙結果もなるべく見ようと思っています。金曜日のスタンバイでも言ったのですが、実は「選挙後の両党の動き」こそ重要だと思っているのです。民主党も公約のいくつかは賢くも路線変更すべきだし、自民党はピンチの時ほど次に何をするのか、出来るのかを国民に示さなければならない。


2009年08月30日(日曜日)

 (20:10)インマルサット(衛星)を通じて今日本の新聞サイトに接続しました。凄まじい民主党の勝利ですね。ま、それはさておき、ちょっと日本からは遠いブータンからの報告を。
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 「微笑みの国」と呼ばれるタイから入ったので非常に目立つのですが、ブータンは「微笑まない国」と呼ぶことも出来ると思う。一番顕著だったのはバンコクから乗ったブータン航空の女性搭乗員。

パロのゾンの近くにある綺麗な木の橋。両サイドの白に囲まれて、実に綺麗である  属人的な面もあると思うが、とにかく我々を担当してくれた女性二人はまず微笑まない。こちらが微笑みながら話しかけても通常においては微笑まないし、むしろこちらが微笑みながら話しかけると、顔と身を固くして厳しい顔でサーブしているという印象がした。これは私だけでなく、並びの席にいた女性の風戸さんもそう言っていた。

 なぜブータンは「微笑まない国」なのか。今のブータンにおけるキャビン・アテンダントのスタンディングは、「お手伝いさんがいるような家、つまり上流のお嬢さんがなる職業」ということなのだそうですが、「そもそもサービスという概念がない」のがブータンだそうで、そう言えばお店に行ってもあまり「売ろう」という気概が伝わってこない。「買いたいんなら売ってやる」という姿勢だし、「それで良い」と思っているというのです。

昨日お見せできなかったブータンの空港。直ぐ左に山が迫っているのが分かる。世界でも難しい空港の一つかも。しかし見ていても発着する飛行機は希だ  とすると分かる。そもそもこちらが搭乗しても、位の高いブータンの家庭から就職しているブータンの搭乗員は、「微笑みかけてブータン航空の印象を良くしよう」という意識が最初からないのだ。これは、最近一段と磨きがかかってきたのですが、日本を代表する二つの航空会社の女性搭乗員の微笑み合戦とは全く反対の位置にある。ブータンに来る直前に山口空港から飛行機(ANAでした)で羽田まで移動しましたが、日本の彼女らは目があっただけで必ず微笑む。

 面白いことを言っていたのは、現地添乗員のジュルミさん(日本に留学経験あり)の奥さんである青木さんの証言。彼女はブータン人との結婚について父親の許しを得るために3年間も遠距離恋愛を続けた上でジュルミさんと結婚し、今はブータンで9年目に入ったという人。その彼女が、最初知らない男性にでも日本人的に目が会ったときなどに微笑んでいたら、ジュルミさんから「”知らない人になんか微笑むな”」と注意された、というのです。

 つまり、ブータンではそもそも「知らない人に微笑む」という習慣がない。逆に女性がある相手に微笑んだりすると、それは「私は気がありますよ」というサインになる危険性がある、というのです。青木さんが私たちのグループに加わって話をしてくれている時にしばらく見比べていたのですが、青木さんはブータンの女性の100倍くらい笑顔が多い。その横で私たちにサーブしてくれるブータンの女性は全くと言って良いほど微笑まない。非常に対照的でした。

亡くなった三代国王の記念堂の周囲を法要の意識をもって回り続けるブータンの人々。私も二周した。ブータンにはお墓がない。火葬してそのほぼ全ては大地に戻す  そこまで聞くと「こちらが微笑みながら話しかけると、顔と身を固くして厳しい顔でサーブしている」という前述の文章がおわかり頂けると思うし、私もそれで納得がいった。ところ変われば基本的な対人スタンスも変わると言うことです。

 しかしだからといってブータンの人々が微笑まないか、笑わないかというとそれは違う。仲間内では凄く笑うし、親しくなれば別です。私と辻さん、風戸さんで行ったお店で凄く会話しながらやり取りしていて話していたら、すっごく親しくなってブータン人4人、日本人3人、その店に来たインド人(モンゴル系、日本に5年の留学経験ありで、ブータンで英語の家庭教師中)など総勢10人くらいで話したときにはお店がうるさいくらいになった。笑いの渦になったわけです。

 だから、多分ブータンの人々も家では笑っている。あと男性は、女性よりも知らない人にでも笑みに応じてくれるように思う。ただしこれにも確信がないのは、例えば工事現場などで働いている人も見ていて目があって笑いかけると、向こうからちゃんと笑みが返ってくるのです。しかしその人の顔を見ると、どう見てもインド人なのです。ブータン・ネーティブには見えない。まだ聞いていませんが、多分ブータンには多くのインド人が出稼ぎに来ている。

土曜日の夜の夕食前の御一行様スナップ。私が写真を撮っているのと、あとお一方が欠席。この日は秋のブータンの特産品として松茸が出た。蒸しての松茸で美味しかった。安価に潤沢に手に入るらしい  あと面白かったこと。ブータンでは義務教育制度はなく、しかし初等、中等教育にかかる費用は国がもってくれるというのです。つまり、学校に行ける子(田舎などに住んでいると物理的に学校に行けない子もいると思う)が行けば、それはただといういうのです。加えてブータンは「医療はただ」ということですが、私が疑問に思ったのは「そのお金は誰が出しているのか」という点です。

 どうもそれは、日本もむろんそれに入るのですが、諸外国からの援助からだだというのです。外務省のページを見てもブータンの年間予算は分かりませんが、輸出品は対インドのリンゴなど果実、それに水力発電による電力というのですからたかが知れている。私が見た限りでは、教育や医療をタダに出来るほど豊かな国には見えない。としたら、「それってどういうこと」ということになる。

 まあでもそう言うことがありながらも、この国は国民が自国に対してプライドが高い国だし、変に自己主張するのでもないし、微笑みがちょっと足りなくても「良い国だな」と思う。大体山道ばかりでスピードが出せない。恐らく経済も国民の暮らし方も、そうなんですよ。それを受け入れているし、愉しんでいる。

 だからといってやたらに静かな国かというと違いますよ。夕べは土曜日の夜だったので、泊まったティンプーのホテル(市の中心)の近くは夜遅くまで結構な喧噪があった。若者の声、ディスコ的な音楽の音、そして夜になると活動し始める犬(インドと同じで昼は全く泣きもせず寝そべっている)の吠える声。

 総体から見ると、なかなか良い国、面白い国だと思って移動しているのです。


2009年08月31日(月曜日)

 (06:10)ははは、夜9時半には強制消灯、というのもおつなものですね。あと残るのは、蝋燭の火とヘットライトの明かりだけ。そんななかで、少しPCで文章を書いていますが(一種の体験学習 ?)、絶対日本では経験できない。朝になっても電気は回復していないが、それには分けがある。それはあとで。

 昨日の夕方から「鶴のヒマラヤ越え」で有名なポブジカに滞在しています。今朝これから出かけるので本当に短い間ですが、鶴がブータンヒマラヤを越えて一冬を過ごす場所に滞在できている、というのがちょっとエキサイティング。その場所はここから直ぐです。そこは湿地帯になっている。現地の人もその地帯には近づかないというので、当然我々も遠くから臨むだけですが。

ブータンの子供達は実に人なつこい。しかもインドの子供達のように物欲しそうではない。非常に好感が持てる  ポブジカはブータンのGNHの考え方の原点になった場所だそうです。もともと農家が点在しているやや広めの谷間で、主な栽培物は一面の蕎麦畑からの蕎麦(赤蕎麦、綺麗なピンク色をしているらしい)ですが、鶴の越冬地、生息地としては昔から有名。鶴たちは中国の一部とシベリアの一部からブータンヒマラヤを越えて10月頃来るらしい。ブータン政府はそれを知っているので、最初から電線を引き、この地域に電気を通すことを躊躇したというのです。鶴が引っかかる。

 面白いのは、ポブジカの人々ももともとは農家なので、それほど夜に電気が必要となるような生活をしていないし、「電線を張って鶴の生態の邪魔をしたくない」という意見だったという。農民達は、「いまのままでいい」と。その「今のままで良い」というのが、GNHの考え方のベースになった稲村さんの説明。

 これまでに、「ブータンが電気をインドに輸出しながら国内では電気不足」と書いてきましたが、実はポブジカのような地域もあるし、そもそもブータンには送電線を作れないような場所も多い。で、「それだったら輸出できるだけ輸出して外貨を稼ぎ、上がった外貨で他のことをした方が良い」という考え方だと分かった。これだったら理解できる。ヨーロッパでは豊富な水力発電能力でスイスが電力輸出で外貨を獲得しているのですが、「ブータンもそうなる」とジュルミさん。

 というわけで、ここには今でも外部からの電線による電気が引かれていない。我々が泊まっているホテルは昼間の太陽光発電で蓄電し、それを夜2時間か3時間給電して、あとは午後9時半からは供給停止となった。電気はその後消えたままです。朝になっても。そういう決まりだから仕方がない。その間の明かりは蝋燭と時々使うヘッドライトだけ。あとは朝を待つのみ。

 この文章は電気がある中で書き始めたが、その後電気が消えてしまってちょっとバッテリーで書いて、31日の朝に追加して書いて、同じく電池を持つ衛星アンテナ経由で送っている。

プナカにある実に綺麗なゾン。ゾン(dzong と綴ります)とは城と寺が合体したような施設で、今では各地の役所も置かれている。これが実に綺麗である。  30日の行程は首都のティンプーを出てチュラ峠(3050メートル、そこの寺院で集合写真)を超えて冬の離宮と言われるプラカへ。そこに写真に掲載した城(ゾン)があったのですが、これがまた綺麗な城だった。ゾンはもともと城と寺の複合体で、今では役所でもある。そこを経由してポブジカに移動した。どえらい道ですよ。完全に絶壁を走行するつづら折りの狭い一本道。前に座ると実にスリリング。心臓の弱い人は座らない方が良い。(笑)

 今日で二日間ブータンのゾンなど宗教施設を見ながら考えたのは、今でも豊かでない、昔はもっと貧しかっただろう、そして人口が希薄だったブータンでよくこれだけ城塞だ、寺だと施設が作られたものだ、どうしてだろう、というものです。だってブータンは今でも60万ちょっとの国ですよ。こうした施設が出来た数百年前は、せいぜい十数万の人口でしょう。

 今我々が見る歴史の遺産はどれも立派です。むろん19世紀以降に改築はしているし、増築もしている。しかしエジプトのピラミッドほどでなくても、歴史的遺産を作るには人と金がいる。今でもブータンは道路工事にはインド人を雇っている。それほど人が少ないのです。

 しかしプナカのゾンもそうですが、今まで見てきた施設は実に立派なのです。

チュラ峠の3000メートルを超える場所にある戦勝記念碑の前の寺の階段で全員写真だとしたら、と不思議に思う。「少ない人口の国が、よくこれだけの施設を作れたものだ」と。そこには常軌を超えた宗教的熱意、時には実際の生活との一種の倒錯があったはずです。

 つまり何らかの形で、信心の明かしを示さなければ状況にブータンの人々が置かれた可能性がある。そうでないと、あの多くはとんでもない場所(山の急斜面に実に多くの寺などが建っている)にまで資材を運び、時間をかけて屋敷を造り、そこに寺を維持できるわけがない。仏の教えに背くことは出来ないと、非日常的な宗教的熱意の中で施設を作らざるを得ない状況に置かれていたのだろうと。ブータンの国民にはそういう時期があったはずだと思うわけです。

 タイムマシンに乗って見に行くことは出来ない。だから想像ですが、そんなことを考えながら回っていました。施設を非常に丁寧に説明してもらいましたが、私にはそういう事も興味があった。端的に言えば、ブータンにはその経済力から見てアンバランスに宗教施設が多すぎる。しかしそういう素地があったからこそ、GNHという考え方がこの国から提唱されているのかも知れない、と。

 移動は酷い山道の連続ですから怖いが、この国を見て回るのは「人間は何のために生きるのか」ということを考える上では非常に興味がある。まだ道半ばのブータンですが。

 ああ思い出しました。ブータンは九州ほどの面積だと以前書きましたが、その大きさの中で「(交通整理の為の)道路信号が一基もない」らしい。実際我々も目にしていない。こんなのは世界に例がないと私は思う。
2009年09月01日(火曜日)

 (06:56)すみません、ブータンから質問です。31日の夜はブータンの人々の踊り、民俗舞踊を見たのです。結構良かったのでサイトにアップしたいのですが、その方法を忘れてしまった。それは、

  1. デジカメの動画機能を使って30秒から1分の動画を5本撮ったのですが、そもそも写真は軽くするのに動画を軽くする必要がないのか。あると思うのですが、軽くするとしたらどういうソフトでしたら良いか

  2. PC上に移した動画の拡張子を見たら「.MOV」かなにかになっていて、以前数回やったことがある「mpg」「mpeg」ではなかったのですが、今のファイルを「mpg」に変換しなくて良いのか

  3. 変換の必要があるとしたら、ソフトは何を使ったら良いのか
 です。いえいえ、直ちにアップしようなどとは考えていません。ポブジカからパロに移動してきても、依然としてネット接続は従量制料金(交信データ量次第)のインマルサットを通じてのBGANでやっている。この段階で極めて重い動画をアップしようとは思わない。で東京に帰ってからするのですが、「どうだったかな」と。

 以前動画をネットにアップしたときには確か(a href="http://www.ycaster.com/image/20010829sinsui1.mpg">〜〜〜)といったHTMLにした。支綱切断というような。久しぶりに動画を数日後にアップしたいのです。どうした良いか。ご存じの方は教えて下さい。ブータンのダンスはユーチューブなどにあるかと思うのですが、

Jeonpa Lekso (Welcome Song and Dance 歓迎の歌と踊り)
Zhungdra (Traditional Classical Form Dance 山の聖をたたえた踊り)
Durdag (Dance of the lord of the cremation ground 墓守りの激しい踊り)
Om Sa La Ma Ne (Work Song 労働歌)
Dramitse Mgacham (Drum dance from Dramitse 悪に対する善の優越性を歌い踊る)
Ringu La Zidha Layap Dance (ブータンの永遠の平和を祈る)
Merak Dance (A Traditional Dance Omochilay ブータンの東の果てMerakの男性の踊り)
Tashi Laybey (Concluding Song/Dance 行事、宴会を終わりにするための手を繋いでの踊り=フォークダンス)

 上から5番目のDramitse Mgachamは、ユネスコにも登録されているという。最後のエンディング・ダンスは、我々観客も参加してのダンスでした。小指と小指を繋ぎ、丸くなる。我々は10分ほどで終わりましたが、実際には2時間やるという。

 個人的な趣味ですが、男性の踊りがダイナミックで良かった。


2009年09月01日(火曜日)

 (06:10)ブータンはmulti-language、つまり多言語国家です。ブータン語はむろん全員話せる。加えてネパール語を全員が聞き、話す。加えて、ガイドのワンチュウさん(二人目のガイドさん)によれば、「全国民の40%は英語を喋る」。加えてインドがモノ、人の往来で非常に近しいところにあり(ブータンは陸地ではインドとしか繋がっていない)、実際にインドの人達が一杯働きに来ているから、ヒンズー語が分かる人も大勢いる。インドのヒンズー語のテレビが国内放送より良く入る。

ブータンで初めて遭遇した交通事故。前進している車の左に横道から入ってきたランクルが軽く跡を付けただけなのだが、えらくもめて動かなかった  つまり、立場上ヨーロッパにおけるスイスのような立場なのです。隣接している国の言葉を自然と覚えて、その結果何カ国語かが喋れるようになる。それが自然という状況。スイスを引き合いに出しましたが、実際に家などは非常にドイツのアルプス寄りの地域の家、それにスイスの田舎の家に見間違うほど似ている。これは結構面白い点です。山の上はああいう家が自然なのか。

 そう言えば、今日面白いことがあった。最初の写真は、ブータンで初めて遭遇した交通事故の現場写真です。我々の3〜4台前を走っていた車(小さい乗用車)の右後部サイドに横道から入ってきたランクルが接触、この結果前進していた小型車に軽く跡が付いただけなのだが、「どちらが悪い」「誰がお金を出す」で言い合いになって、そのままの状態で両車が止まってしまった。全く動かなくなった。ランクルは道の中央に斜めに止まってしまっていたから、上り下りとも大きな車は全く動けなくなった。

ポブジカの鶴が降り立つ湿地帯を少し上から。村人も近づかないというので、今は鶴の飛来する季節ではないが、やなり遠くからの撮影となった  道路管理者が来て、警察が来てとゆっくり展開していったのですが、ネパール語が話せる稲村さんによると、この緊急の事故の現場で全員がブータン語ではなくネパール語で話していた、というのです。日本で事故が起きて、事故当事者が英語で喧嘩をすると言うことはない。もうこの地域に何回も来ている稲村さんも、「これは面白い」と。結局30分もここで立ち往生。

 まあ当事者の一人か誰かがネパール人だったのかもしれない。しかし全員がネパール語で喋るとは。そうかと思うと、警察官が来て事故の実況見分をするのですが、そこでは時々英語を喋っていた。英語はホントに何気ないレストランの従業員(若い女性など)も問題なく喋る。外国語の使用ではブータンは進んでいるんですよ。

 話は変わりますが、ブータンの女性が比較的愛想がないことは最初に書きましたが、子供は実に可愛いし、愛想がいいし、よく教育されている。近いからインドの子供達と私は比べてしまうのですが、全く違う。

ブータンの大人の正式な服装。靴下はふくらはぎの上まで。写真を撮って良いかと言ったら、わざわざ振り向いてくれた。ポブジカの朝8時過ぎ  インドの子供達は油断も隙もない。例えば赤信号で車を止める。ニューデリーで。直ぐに子供達が近寄ってくる。何かくれと。中には障害のある子供もいる。Slumdog Millionaireの通りで、大人に傷つけられた子供もいるので可哀想だが、だからといって車の窓を開けてはいけない。女性のイヤリングに手をかける子供もいる。ケガをしてしまう。

今日は月曜日。学校がある日で、ブータンの子供達と朝続けざまにすれ違った。写真はその内の一人  しかしブータンの子供は人なつっこいし、しげしげとこちらを見る。近寄っても来る。しかし自分から「何かくれ」と自ら手を出すことはしない。実に秩序だっているのです。こんな子供は日本にもいるな、という子供が一杯いる。インド人の血が入った子もいて、こちらは目がぱっちりしている。

 今日は月曜日。学校がある日で、ブータンの子供達と朝続けざまにすれ違ったなかで、一枚撮らしてもらったのが最後の写真です。ちきんと弁当か水筒をもって出かける。ポブジカの学校は鶴が生息する直ぐ横にありました。

 それから、これはニュースですが、ブータンは今は国内線はないのですが、今まであっても使っていなかった東部の空港を稼働化し、週何便か知りませんが国内便を飛ばす計画だそうです。賛成ですね。ブータンには基本的には山道しかない。それも恐ろしいほどの斜面に出来ている。覗き込めば実に恐ろしい。

 そしてまた道が酷い。「インド人が作ったから酷い」と言う人がいたが、実際にインドの道を走ったことがある身で言うと、非常に作りが似ている。酷いのです。飛び上がるほどの悪路です。

 もう一つ。空港のあるパロから首都のティンプー間ですが、今は車で1時間ほどかかる。で、今この両都市の間にトンネルを掘ろうという計画が進行中だと。うーん、これは賛成できない。あの広大なブータンの自然に対する、あまりにも大きな、そして不必要な手入れだと思からです。


2009年09月02日(水曜日)

 (06:58)麓から急な山道と階段を使って標高差300メートル弱の山道を登ってブータンの聖地であるタクツァン僧院(最初の写真)を目指し、文字通り断崖絶壁の上に立つブータンの聖地・タクツァン僧院。普段は3人くらいの僧がここで暮らすというそこで参拝をし、そして下って来るという合計6時間のきつい歩行を展開しながら、再び「宗教的熱意」とは一体何ものか、と考えていました。

 それは「熱意」と呼ぶことも出来るし、「思いこみ」とも、そして時には「狂気」と呼ぶこともできる気がする。このタクツァンはブータンの人々が「聖地」と呼び、時には遠方から五体投地でお参りに来る人もいるという聖なる僧院ですが、それはそれは恐ろしい場所に立っている。断崖絶壁の上、というか途中。

 ほんのわずかに出来た人が通れる場所とその先の狭い平地の上に、上下の岩に挟まれるように白と茶色の堅牢な建物で出来上がっている。そしてその回りにはいくつかの僧侶の宿舎、瞑想部屋などがある。それぞれが天空に聳える館のように美しい。

 僧院への行程はまず一貫して3時間(人によって違う)ほど上がった後、一回谷底に向かってつかまる場所を探さねばならないほどの人がすれ違うのがやっとという狭い、急な階段の山道を谷底に向かって40メートルほど(勘です)下り、そしてそのあと同じだけ上がって僧院に着くというもの。

 上がりはもともと標高2900メートル近くにあるので、実にきつい。少し歩くと息が切れる。暫くすると足ががくがくする。足が笑うと言ったらよいか。しかし笑えないのは、ちょっと目線を左右にずらすと(下りは右目線でしたが)、それは実際に断崖の上を歩いているので、恐怖との戦いなのです。

タクツァン僧院への最後の登りの厳しい階段の左側にあったツァツァ。ツァツァはブータンのあらゆる場所、と言ってもちょっと厳しい山道の山沿いの、窪んでいたりして適当な場所にある。墓のないブータンにあって、亡き人を偲ぶお印である  一歩歩を進めるごとに、体が「恐怖」と「谷に吸い込まれるような不思議な感覚」を覚える。そういう場所です。それを一歩一歩気を付けながら、谷底を見ないようにしながら降り、その行程の底にある滝が左横を落ちる谷の前の橋(水飛沫がかかる)を渡って今度は急な階段を上がる。

 ずっと思っていたのは、「誰がこんな場所に僧院を作ろうと思ったのか」「その一種の狂気の提案に、なぜ人々は従っていったのか」ということです。出来てしまえばそれは「聖地」と呼ばれることは間違いない。ブータンに仏教をもたらしたサンババなる人物が空を飛ぶ虎に乗って飛来し、この僧院の中にある洞窟で瞑想をした、という伝説もそうだが、その存在する場所によってです。

 しかしその為の資材の運び上げ、そして工事には多大な、そして多年に渡る人々の労働提供が欠かせなかったはずだし、資材は馬の背に乗せて途中までは行くが、あとは人による担ぎ上げですから、その過程の中では谷底に落ちた人も沢山いただろうし、建設も絶壁の上ですから危険なことが一杯あったに違いない。

 それはもう「熱意」(zeal)を超えて、生命提供の覚悟でしょう。一人一人が。国全体がその宗教的熱意に取り憑かれていた時期があった、と言える。そしてブータンでは今でも、この宗教に対する強い熱意が残っている。それが今も何故残っているのか、が疑問なのです。私には。

 インドで強く思ったのですが、「輪廻転生」の考え方は、支配者、統治者、支配階級にとって結果的に極めて便利な考え方です。今貧しい、身分の低い人間、民衆の一人であっても、祈り、そして今の与えられた仕事を懸命にやれば、「転生」したときには望む存在(人間であったり、その中でも身分の高い人間)になれる、と説く。現状に文句を言わずに、今の身分に甘んじ、そして懸命につくせという考え方。つまり階級の固定化効果がある。「今」に反抗しないわけだから。

ブータンのパロのある農家を訪ねて。その居間で。床はサフランで染色されていて黄色い。回りには国王夫妻(奥さんは4人)、先祖などが飾ってる。何と言っても家の中心は3方向の壁がその為に作られていて、二間が割り当てられている仏間。年に一度僧侶を呼んで法要を執り行う場所が仏間である。びっくりするほど広い  私はたった数日間しかいなかったから分からないが、ブータンも階級社会だという。インドとはまた違った形で。実際にはブータンにはミャンマーから入ってきた人々、チベットから南下してきた人々、そしてインドから北上してきた人々が実に複雑な、言葉も違う社会を作っている。その社会をまとめ上げていたのは仏教です。今は静的に見える仏教も、「熱意」溢れる、当時は実に荒々しい教えだったに違いない。

 それが悪いと言っているわけではなく、なぜそのような形で社会が大きく動くのか、その過程で一人一人の人間は何を考えて、何を望み、何を願っていたのかに興味があるのです。もちろん簡単に答えが出てくる話ではない。しかし興味がある。
 ――――――――――
 ブータンに数日でもいて、人々の生活や表情に接していると、「立ち位置」の問題を考えます。我々は先進国と言われる日本から来ている。自分たちと同じような顔をした人々が、急峻な山間の国で非常に特異な生活モードを持っているというので、人々に会い、風景を眺め、そして歴史的建造物や踊り・歌を視聴しに来ているのです。別に上下という思いはないが、「こんな生活は面白いのだろうか」と思っている面もある。ブータンはやっと街が出来はじめたところです。

 しかしブータンの人々は英語を含めて数カ国語を話しながら、しかし国民一人当たりGDPで1000ドルにも達しない生活をしていながら、それを恥ずかしがっていないし、むしろ誇りにしているような所がある。る。ポブジカの例ではないが、「それで良い」「電気もいらない」「鶴にいつも通りの越冬生活をして欲しい」という考え方の生活を続けているわけです。

 少なくとも私は、「そういう生活も分かるしいいな」と思いながら、「でも今更出来ない」とも思うわけです。たった65万人(正確にはカウントされてない)の国ですが、ブータンの人々が自分たちを見に来る先進国の人間に対しても自分たちの生活を誇りに思っていることは明らかです。表情を見れば分かる。多くの途上国にある刺すような目がない。子供達も実に明るい。

 その「溢れる自信」に、今の日本の生活に慣れきっている我々は”たじろぐ”わけです。今の我々日本人の生活で良いのだろうか。ブータンの人々のような生き方(GNHのような)、考え方、宗教を何事もの中心に据えた生き方があるのではないか、とも思う。環境を破壊したのは誰だろうとも。地球温暖化の影響で、ブータンでも冬は雪が降らなくなっているという。

 しかし例えば私は、ブータンを去って日本に戻ればこれまでの生活に戻るわけだし、それが面白いと思っている面も間違いなくある。まあ私はこれを「立ち位置」の問題として表現しただけです。これも直ぐには解けない。
 写真の通り、一軒の農家を訪ねました。大勢で。ご主人が出てきた。バター茶と焼酎を頂いた。床がサフラン色に染まっている。もともとは入り婿さん。しかしこの家の奥さんとは離婚。にもかかわらず、入り婿さんが今でもこの家の大黒柱。

タクツァン僧院を背景に途中の茶屋で記念写真。この中のメンバーの中で5人が僧院へのさらなる歩行を断念。それほど厳しい急峻かつ難しい行程である  どうしてそんなことになっているのか。その家の母親(言ってみればおばあちゃん)が婿さんを気に入っているからで、娘は離婚して首都ティンプーで生活しているという。その入り婿さん、13人兄弟・姉妹の一人だと。しかし今は妻が去った後も、二人の子供の世話をしている、という。39才。

 「夢は?」という質問に、「人生の半分は終わった。あとは子供が愉しみ」「子供を大学には出したい」と。ブータンの平均寿命は65くらい。ははは、一同に一瞬衝撃が走った瞬間であった。

 たった数日の滞在でしたが、ブータンについてはもっと書きたいことがいっぱいあるし、写真も一杯ある。料理、街並み、そして何よりも山の雄大さ。本当に山また山の国です。そして山が全部急峻なのが印象に残った。しかし中国のような山が禿げているということはない。中国と違って人口圧力がなく、よく自然が残ったからでしょう。そうい意味でも大事にしたい国だと思った。

 いずれこのchat のコーナーにまとまった文章を書きます。文章、写真など新たなコンテンツを集めて。放送などの縛りがないので、自由に出来る。

 それにしても、実に気分の良い、かつユニークなメンバー16人との旅でした。その点に関しても感謝。来年の行き場所もほぼ決まりで、愉しみです。


2009年09月03日(木曜日)

 (06:58)再びバンコク経由で日本に帰着しましたが、それにしてもインマルサットの衛星電波を捕まえるBGANはよく働いてくれました。とにかくポブジカの一晩とパロの二晩は全くインターネット設備が整っておらず、選挙結果を知るのも、書いた文章やダウンサイズした写真をアップロードするのも、来たメールに返信するのもBGANが頼りでした。

屋外(ポブジカ)でBGAN接続に奮闘する稲村さん。彼女によれば、普通はBGANはこうして使うのだと  BGANを借りての衛星通信は初めてでしたから行く前はちょっと「大丈夫かな」と思っていましたが、部屋の中で南とか衛星がある方向に向かっている窓を見付けて、その近くで上下させながら、また角度を変えながら電波が強い方向を見定めていく作業は、ちょっとドキドキ、ワクワクですね。そういう場所が部屋の中にあるかな、と。

 ポブジカではたまたま部屋に南向きの窓があって、その方向にしたらアンテナが音を発して反応してくれて、そのまま部屋の中でネット接続が出来た。次のパロのホテル(Olathang Hotel)では、ロッジのようになっている最初の部屋には適当な窓がなく、仕方がないので、本館の多分東だと思うのですが、その方向を向いた部屋に変えてもらった。それで完璧。

 稲村さんによれば、「BGANは外で使うもの」とのことで、実際に彼女はポブジカでは外で接続していました(写真)が、私の場合は両方のケースで部屋の中から楽々使用可能だった。ははは、これは運ですな。電波を見付ければあとは楽です。PCに認識させて接続するだけ。100MBPSとか表示されますが、まあそれは嘘で、私の感覚だと35くらいでしょうか。

 衛星料金もだいぶ安くなったそうですが、いくら請求がくるやら。節約気味でしたが、それでもいろいろやることがあって結構使いましたから、どうなんでしょう。多分ブータンは山また山の国で、「電気が通じていない村がいっぱいある」(ジュルミさん)し、最初から電気を拒否している場所も結構あるらしい。そういうことを含めて、ブータンは恐らくネット環境が世界でも非常に悪い国の一つです。

 まあそれにしても、ブータンでも活躍する日本人に何人も会いました。過去に於ける西岡さんの事は書きましたが、ジュルミさんと結婚して愉しそうに仕事をしている青木さん。当地の高級ホテルで仕事をしている岡崎さん。そういう人達に会えるのは愉しいものです。岡崎さんは、我々が滞在中のブータンの英字紙に紹介されていました。

 ブータンの人達は良い人揃いだった。運転手のサンゲ、彼の彼女が居る農家の主人であるトプゲイ、第二ガイドのワンチュウさん、そして第一のジュルミさん。ジュルミさんはブータンで日本語が完璧に使える唯一のツアーガイド関係者で、例えばNHKや民放が撮影隊をブータンに出すときには必ずお世話になる人だと後で会話をしていて分かりました。

 日本関係の次の仕事が既に入っているそうで、過去をさかのぼってもThe Other Finalでもかなり撮影回りの仕事をしていたそうです。日本で放送されるブータン関係のテレビ番組などには最後に名前もしばしば紹介されているという。私はそれと知らずに見ていた。そう言えば、The Other Finalで思い出しましたが、我々がティンプーで見たホテルの直ぐ近くのちっさなスタジアムが「The Other Final」の舞台だったそうです。

 振り返るとブータンは興味深い国でした。なにせ「道」というものが日本と全く違う。片側2車線があるのは、ティンプー市内の2キロ弱だけ。あとはパロとティンプー間にセンターラインの引いてある片道1車線がかなり長くある。それだけです。あとは「こんなところに良く道を造った」という印象を持つ道路ばかり。あまりにも山が多く、谷間の平地が狭いが故にそうなる。十分な道路もないという意味では、ブータンは世界でも希有な存在です。

 もっともこれは稲村さん情報ですが、ネパールはもっと道がないそうです。いろいろなところから、「道路を造る」ことを条件に援助をもらうのですが、その援助が道路にまで到達することは希で、みんな政府高官など偉い人の懐に消えるとか。何事に置いてもネパールを反面教師にするブータンは、その点ははるかに綺麗だと。

 最後にブータンの物価感覚を示す一つの具体例を。ブータンでは建設現場などで働く多くのインド人を見かけました。顔かたちや皮膚の色が違うので直ぐ分かるのですが、彼等の労働賃金は1日当たり200ニュートラム(ルピー)だそうです。1ニュートラムは2円です。

 彼等は所々崩れた急峻な山道の現場近くに小さなテント小屋を造って、そこに宿泊しながら働く。一日400円で。世界には「労働者の海」はまだまだ尽きないほど有ると思い知らされる。

 ブータンに関しては、近くこれまでに書いた文章を含めてチャットのコーナーにアップする予定です。最後に一緒に旅をしてくれた15人の方々、それに終始見事なガイド役を果たしてくれた稲村さんに感謝。
ycaster 2009/09/03)



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