<2012年、シルクロードの旅ーートルファン、サマルカンドへ-Cyberchat>

 2012年の8月30日から9月08日まで、東京→北京(経由)→ウルムチ→トルファン→タシケント→サマルカンドという行程で「シルクロードの旅」をしてきました。旅には「予想していたことと違う」という失望もむろんありましたが、何よりもその地域や人々を感じることが出来た貴重な旅でした。新たな発見、体験もありました。子供の頃から本当に行きたい地域の一つでした。

 ウルムチとトルファンがある新疆ウイグル自治区は、もともと少数民族問題を抱えた中国ではチベットと並ぶ微妙な地域。かつこの数週間は日中間で尖閣を巡って対立意識が高まる中での旅行でしたが、特に大きな問題もなく総勢9人の旅は楽しいものでした。

朝陽を浴びるチムールの一族の覇。老人が二人佇んでいました。早朝なのに。  何よりもトルファンとサマルカンドが良かった。トルファンの名前には憧れがありました。今まで中国でも一度も足を踏み入れたことのない地域でした。一昨年チベットを見られたのに続いて、今回中国のもう一つの微妙な地域を見れたことは良かった。チベットは去年から外国人の入ることを禁止している。

 サマルカンドについては、地図を改めて見ると少し西に行くとイランが下に見えるし、その先の中東も視野に入る。アレキサンダー大王が紀元前にサマルカンドに攻め入ったことでも分かるとおり、地中海もそう遠くはない。今まで自分にとっての未知の「中央アジア」がぐっと身近になった旅でした。

 多分「シルクロードへの憧れ」は「対極の世界」へのそれです。紀元からさらにさかのぼって千年はある古い歴史、繰り返された民族の興亡、雨が少ない基本的には砂漠の世界。日本にはいない駱駝の背中での旅。日本人とは違う目鼻立ちをした人々の生活。何を価値観に生きているのか。

 恐らく中学生の頃に見たNHKの「シルクロード」(正確な名前は忘れました)は私の想像力をずっとかき立てていました。私にとって子供の頃に「行きたい」と強烈に思った場所は二つです。祖父に最初に買ってもらった本の題名である「インカ帝国」と、そしてこの歴史と民族の興亡に彩られた「シルクロード」。

訪れたウズベキスタンの村で若い女性達と一緒になりました  去年の「シベリア鉄道・サンクトペテルブルクの旅」の際に「次はどこか」とメンバーで投票をしたときに一番票を集めた地域でもありました。だから私だけでなく、多くの日本人が「シルクロードへの憧れ」を持っているのだと思う。

 改めて思ったのは、ユーラシア大陸のど真ん中に位置するこの地域の「宿命的な華麗さと過酷さ」です。今住んでいる人々は、その前に住んでいた人々とは民族が違う、その前の人々もまた民族が違う、ということを繰り返している。長い歴史の中で。その合間に素晴らしい文化を育んだ。どんな人が建物を建て、どんな人が壁画を描き、どんな人が商売をしていたのか。

 支配者も頻繁に入れ替わり、戦いが多く、その度に大勢の人間が死んだはずだ。そしてその間には平和な生活があったのか。歴史に残っている分だけで、紀元前にはサマルカンドまでアレキサンダー大王が来ているし、その後も諸民族が興亡した。ソグド人も勢力を持っていた。その後13世紀にはモンゴルの過酷な破壊だ。街が砂と土になったとされる。

 新疆ウイグル自治区が今ある地方も、激しい勢力の入れ替わりを経ている。ずっとイスラム勢力と中国の抗争の場だった。そしてそれは今に続いている。世界史で習ったが覚えきれない数多くの王国が起きては滅び、多くの軍隊が攻め入って一部は同化し、一部は富を持ち去り。そして今に生きている人々に繋がっている。新疆でもウズベキスタンでも人々の顔は実に多様だ。「これが中央アジアか」と思う。

 タイムマシンがあったら絶対にその一部始終を最初に見たい地域です。人が生き、戦い、苦しみ、楽しみ、和み、そして生死を数え切れないほど繰り返した歴史がある。一人一人の歴史、家族の歴史、集団の歴史、民族の歴史。

ソグド人の残した壁画。サマルカンドで発見  一つ確実に分かったのは、その気象条件のあまりにも大きな日本との違いだ。日本が世界でも希に見る「緑の世界」だとしたら、シルクロードは間違いなく「砂漠と点在するオアシスの世界」です。湿度が低く夏は高熱になるが、冬は苛烈に寒い。そして日中と夜との温度差が激しい。日本にはない世界。そこで人は生まれ、生き、喜び、悲しみ、そして死ぬ。そしてまた生まれる。その繰り返し。

 王様がいたり、貴族がいたり、戦士がいたり、商人がいたり、職人がいたり。そして圧倒的に多い農民がいた。与えられた人生の長さはあまり変わらない。平均すれば非常に今より短い。しかし丈夫で生きた人は60を越えることが出来た。

 もしかしたら「シルクロード」を「砂漠の世界」と考えるのは間違いかも知れない。当時はもっともっと緑が多かったと考えるのが自然だ。しかし人口の増加に水が足りなかったことは確かだ。後で触れるがカレーズを見れば分かる。どえらい灌漑施設を人類は作っていた。

《 political unstability 》
 歴史を見てもそうだが、中央アジアは常に政治的に不安定なところだ。勢力図は常に変化してきた。諸国の勢力が変遷するからそうなる。今でも国境を巡ってにらみ合っている国がある。日本のように海に囲まれた国と違って、本来は境界が画定しにくいところだ。それをあえて分けている。

 新疆ウイグル自治区はチベットと並んで中国では一番多くの問題を抱えている。チベットには先に触れたように2年前に行ったが、非難されても仕方がないことを中国はしている。チベットの人々が一番大事にする寺院の上で銃を構える中国政府の兵隊。あり得ないと思った。チベット僧侶が焼身自殺を繰り返ししている。

ウルムチは中国にとっての「資源庫」となていました  民族を同化するかのような政策が許されるわけがない。チベットの人は日常生活でも発言に気をつけざるを得ない生活をしていた。スパイやスパイ装置があちこちにちらばり、設置されているからだ。それだけ状況が酷いと言うことだ。

 新疆ウイグル自治区でも被抑圧側には厳しい現実がある。ウイグル人はよほど大学などで優秀で、かつ共産党員にならないとパスポートが出ない、と聞いた。生まれだけで外国に行きたくても行けないという現実。中国はその点だけでも非難されてしかるべきだ。

 しかし非難されても中国は決して新疆ウイグル自治区の独立を許さないだろう、と思った。中国一の産出量を誇る石炭、そして30%を占める石油生産量。そこはまた風の道でもある。実に実に多くの風車が回っていた。

効率悪い資源エネルギーの使用でこの大気に。北京空港で  つまり新疆ウイグル自治区は中国にとって「資源庫」なのだ。手放すわけがない。そこで出てくるのはアメとムチの政策だ。ウルムチは巨大な都市となっていた。大規模な公共投資が行われたことは明らかだ。

 だから経済は活発化し、人口は200万を超えた。しかしその四分の三近くの住民は漢民族だ。お金を注入すると同時に漢人を入れている、入る環境を整えているのだ。資本を持つ人間が人を雇う。雇ってもらいたかったら同化するしかない。そういう環境はチベットの人達も、新疆ウイグル自治区のウイグル人など少数民族も同じだ。

 「中国語が出来ないと就職も出来ない」という環境を作って、小学校の一年からウイグル人などに中国語を覚えさせている。チベットでも取っている政策だ。現地の人は困る。言葉で民族のアイデンティティを守りたい。しかし自らの言葉の重要性は失われていく。自分の子供達は、民族の言葉より中国語がうまくなる。うまくならないと就職も出来ない。

 ウズベキスタンも問題の多い国に見えた。何よりも警備が異常に厳しい。街の要所要所に警察官や警備員が立っている。じっと目を懲らしている。鋭い目だ。ホテルの玄関にも必ず一人いる。袋をもって入ろうとすると、現地の人は中を改められていた。

 日々の文章の中でも触れるが、道路にも警察官が一杯いる。数多くの車を止めている。「こんな厳しい警備を少しでも緩くできたら、観光客も増えるのに」と思ったものだ。政府が警戒しているものは分かる。ウズベキスタンの直ぐ近くには、「テロリストの活動拠点」と呼ばれる地域もある。国内にも体制批判派がいる。堅固のようでいて、不安定な国だと思う。

《 How are they living ? 》
 今回の旅は子供の頃からの憧れを形にしたものだ。ポイントは「中央アジアの歴史」と「そこに今住む人々の暮らし」だ。中国やウズベキスタンが抱える問題はひとまず横に置こう。

ウルムチの朝。ウルムチにはもっとすがすがしい朝が欲しかった  そこ、つまり私が行ったウルムチ、トルファン、タシケント、サマルカンドには無論「人々の生活」があった。それは想像通り日本のそれとは全く違っていた。都市には車庫とてなく、道に車が溢れていた。中央アジアで唯一地下鉄(1977年創業のソ連時代のもの)があるタシケント以外は、移動手段としては車しかない。だから車は溢れているが、皆路駐だ。

 だからタシケントでもサマルカンドでも繁華街を探すのは楽だ。車が多く路駐しているところを見つければ、バザールか結婚式か何かがある。また道路や公園の周りに車があふれていると、必ずそこにはモールやデパートがある。

 ウルムチでもタシケントでも興味を引きそうなデパートやモールに行ってみたが、まず人は少なかった。路駐の客はどこに行っているのか。客があまりいない。ウルムチの天山百貨店の地下の食品売り場は面白かった。果物が実に豊富で多様。しかし「現地の人は高くて行かない」ということらしい。

 ウルムチでもウズベキスタンでも、まだまだ先進国的商業施設が多くの客を集めるのはちょっと先だと思う。何せウイグル自治区にしろウズベキスタンにしろ、まだまだ住民の平均所得は低い。

 しかし庶民のデパートであるバザールはどこでも客を集めていた。バザールには三回行きました。トルファン、タシケント、サマルカンド。普段の人出を知らないので正確な比較ではないが、人は多かった。活気があった。

 バザールではグッヅにはあまり「買いたい」と思うようなものは無かった。見るのが楽しいだけ。しかし後での記述の中でも触れるが、食品には見るべきもの、日本に持って帰りたいものがある。香草などがそうだ。素晴らしかった。日本では非常に高いそうだ。

 何回も生まれ変われるなら、一度は中央アジアの人間に生まれてもいいなと思った。それは叶わない夢なので、時代設定をして想像してみるだけだが、楽しきことの一つだと思う。

 日頃の多忙を忘れてふっと思いを致す。今と過去の中央アジアに。また一つ良い思い出が出来た。



2012年08月30日(木曜日)

 (05:35)ちょっと遅めの夏休みで10日ほど日本を離れます。行く先は、新疆から入ってトルファン、ちょっと飛んでウズベキスタンのサマルカンドなどです。

 ずっと行きたかった場所で、どんな旅になるか楽しみです。通信状態は分かりません。まあ多分ホテルは大丈夫でしょう。しかしその他は不明です。このコーナーの更新は途切れ途切れになるかも知れませんが、よろしく。

 写真を一杯撮ろうと思っています。このコーナーにも掲載しますが、多分アップはフェースブックが中心になると思います。お楽しみに。


2012年08月30日(木曜日)

 (23:35)北京空港での乗り換えの数時間を経てウルムチまで来ています。もうすっかり深夜です。「東京→北京」(約3時間)よりも「北京→ウルムチ」(約4時間20分)が時間がかかる。しかも「北京→ウルムチ」の飛行機は3時間10分出発が遅れた。全く一日仕事です。

 まだ夜しか見ていないのですが、ウルムチは大都会ですよ。人口200万と言いますから農民工の方々などなどを入れると250万くらいはいるでしょう。名古屋が226万人くらいですから同等の大都市と言うことになります。

 中国においては新疆ウイグル自治区は資源の宝庫。石炭(埋蔵量中国一に最近なったとか)の一大産地ですし、石油・天然ガスも次々に見つかっている。街も潤沢に電気を使っています。高速道路沿いの照明灯の支柱にまで鮮やかな灯りが灯っているし、特に道路沿いのビルはみなイリュミネーションで縁取りしている。

 やはり今までの道程で気がついたのは、北京空港の、従って北京でしょうが、空気の悪いこと。6時間くらい滞在しましたが。全員で、「体調はおかしくならないのか」と話していました。

 兎に角100メートル先を見渡すのが難しい感じ。空気の綺麗な東京から来ると信じられない。黒くくすんでいるのです。太陽は必ずしも夕刻のせいではなく赤く見える。以前の東京も空気は汚かったが、「ここまで悪くはなかった」と思う。

 北京に来たのは最後は一昨年でチベットの帰りだったのですが、その時の北京の空気も相当酷かった。ちっとも改善していないということです。北京で唯一青い空が見えたのは空港からウルムチに向かって飛行機が飛び立って10分以上たち、飛行機の高度が相当高くなってからです。

 その後は綺麗な空でした。ずっと西に移動しますから、私は飛行機の左側の席だったのですが、ずっと月が左上に見えて「もうすぐ満月」という感じで良かった。空から見たウルムチの夜景も綺麗でした。

 また北京の空港の話に戻りますが、空港内を移動してウルムチ行きのゲートに来ると、「イスラムの世界に向かうのだな」という光景が。北京時間の午後2時半過ぎに、イスラム教の教徒の皆さんだと思うのですが、急に小さい長方形の絨毯を広げて、多分メッカの方向だと思うのですが、5分ほどお祈りを捧げた。

 トルファンやサマルカンドに住む人達がどんな顔をして、どんな生活をしているのか。今まで見たことのない世界なので楽しみです。明日は午前中にトルファンに移動します。

 ところで、北京空港ではウルムチ行きの飛行機が予定より3時間近く遅れたと書きましたが、「まあそういうこともあるかな」といったところ。いつもこの手の旅行でご一緒する久井さんに、「最近書いた本です」といただいた本を読んだり、文章を書いたりで時間を過ごしました。

 久井さんに頂いた本は、「プロジェクトマネジャー・リファランスブック」というその業界の人向けの本ですが、素人の私が読んでも「そうだよな」というところが多い。

 IT関係でPM(プロジェクトマネジャー)を目指している人には最適なんではないでしょうか。


2012年08月31日(金曜日)

 (07:35)ははは、作戦変更です。私が通常使っている交流サイトがどちらも非常に接続しにくい。何故か ? 他のサイトは問題なく繋がるのですが。

 なので、「その一つ」を使ってちょっと綺麗な、かつ面白い写真をアップしようと思っていましたが、作戦変更。だって接続そのものが出来ないのですから。で、HPのこのコーナーにアップします。写真は上から

  1. ウルムチの夜景(2012年08月30日)
  2. この果物は何? ブドウの隣です(あとで分かったのですが、桃でした。あんなに平べったりのに)

ウルムチの夜景(2012年08月30日)

この果物は何? ブドウの隣です(あとで分かったのですが、桃でした。あんなに平べったりのに)


2012年08月31日(金曜日)

 (23:35)ウルムチから南東に高速道路を走って4時間弱。途中事故で一般道を暫く走ったのでちょっと時間がかかって、トルファンに来ています。午前中はほど一直線の道の移動中心でしたが、午後は観光もしました。しかし目に入ってきたものの95%は、青い空を除けば土色をしていました。

 高速道路の直ぐ脇から延々と続く砂と土の入り交じった大地、天山山脈の雪解け水が僅かにちょろちょろと流れている小さい川の流れのほとりを除けば、緑とてない。トルファンのある州の名前は、「火州」(火洲とも書く)(中国で一番暑いから 過去の計測最高温度は47.6度らしい)といい、そして我々が行ったベゼクリク石窟寺院(千仏洞)のある山、山脈は「火焔山」「火焔山脈」と呼ばれる。実際に強烈な陽に焼けて赤くなっている。山全体が。「火焔山」とはよく言ったものだ。

 そこでは地表は夏の日中は70度以上に達し、砂の中に卵を入れるとゆで卵になるとか。それこそ火焔山は「灼熱の緑とてない世界」です。「山」と言えばどこでも豊かな緑に覆われる日本から来た人間にしてみれば、それは異様でさえある。

 人が昔から住んでいたのは、粘土に藁をかませて固めて天日乾燥させた煉瓦で出来た家、「日乾し煉瓦の家」です。外見は「土で造形した家」に見える。埃っぽいだろうに。しかし涼しく、合理的でもある。覗かせてもらうと、お部屋はさすがに壁から天井に掛けては白塗りなどにしてあり、土間の上に50センチほど上げて板張りし、その上に絨毯を引いてベッドとしたりしている。

 この板張りのキングサイズ以上のベッドは、村だったら葡萄棚の下などにある。しかし下は殆どが乾燥した土が土埃を上げる道です。確かに中国の山には緑が少ない。それは日本から数時間のところ、海岸沿いもそうだ。しかし、「火州」トルファンの山々は強烈です。木が一本も生えていない。

 「高唱古城」(このサイトの写真がいい)にも行きましたが、地面に張り付いて生きている野生のスイカがごくたまにある以外は、土の世界です。三藏法師が活躍した頃の城です。この城壁の中に14〜15世紀まで何千、何万という人が暮らしていたのだから、不思議です。

 トルファンとは漢字で「吐魯番」(英語ではTurpanと綴っていたところがお多い)と書きます。実際にここはチベットを中心に勢力を拡大したことがある吐蕃の勢力下になったこともある。ガイドさんの説明を聞いていると、本当にいろいろな勢力が、国が、そして宗教が行き交った場所だと分かる。何百年単位で。むろんモンゴルも来た。チャガタイの世界です。

 仏像を拝む仏教と偶像崇拝を禁止するイスラム教が時代とともに交差したこの場所。そして欧米や日本の探検家の格好の探検、宝物探しの対象となった近過去(200年以内を指して言いましょう)。華麗に描かれた仏様、涅槃像が切り取られた無残な過去も目にすることが出来ました。悲しい。

 多くの民族が行き来したこの地方の過去は、子供の頃から私にとっては夢舞台でした。タイムマシンが出来たら、絶対に行ってみたい場所です。そした時間短縮で諸民族の興亡を見たい、とずっと思っているのです。最後は日本にたどり着くいくつかの民族も、もしかしたらこの辺を通ったかも知れない。

 トルファンのある火州は「中国で一番暑い」ばかりでなく、「中国で一番低い場所にある盆地」です。そんな実感はあまりしないのですが。一番低い地点は「海抜マイナス154メートル」と聞いた。火州の30%は海抜がマイナスで、平均海抜はプラス38メートルだそうです。あんなに山が多いのに。

 昔石坂浩二さんが朗読をやったNHKのシルクロードという題名だったような気がするテレビ番組。そのころから強烈に「行きたい」と思っていた場所に立っている、そこを移動している興奮はずっと続きました。良くを言えばホータン、カシュガルにも今度は行きたい。どえらく遠いのですが。

 冬はこれまた寒いらしい。マイナス15度くらいは普通。夏でも日中は軽く30度を超えるが、夜は20度に下がる。つまり日本の大都会よりよほど過ごしやすい気候は、「果実」にとっては理想の世界。噂に聞いていた葡萄の畑はところどころにあり、桃(平べったり)やスイカに似た果物もふんだんにある。

 「ワインがうまい」と聞いてきました。確かに葡萄は良さそうです。しかしお酒を飲めないイスラム教徒が畑を持っていて作っている。ウイグル族のやっているレストランでワインの相談をしてもとんちんかんなんです。今のところボトルに入ったワインで、「これはすごい」というのには当たっていない。

 ウルムチ(200万都市)の人口の75%近くは漢民族でしたが、トルファンはウイグル族が逆に70%を以上占める、従って落ち着いた、夜になっても人がゆったりと歩いている街です。ウルムチの街には夜は人っ子一人いなかった。

 新疆ウイグル自治区には、1949年の時点では漢民族の人達は30万しかいなかったそうです。今は700万人。その大部分はウルムチなど大都会に住む。人口の半分以上を占めるウイグル族や回族などのイスラム系少数民族の人々は、主に農村部にいて農業に携わっている、という構造だそうです。

 新疆が「石炭で中国一」であることには昨日触れましたが、トルファン(人口は市としては20万人)の中心からベゼクリク石窟寺院に向かう途中の道路の左側には、まるでテキサスのような風景が広がっていました。

 油井で石油をくみ上げるマシンが動き続けているのです。中国の石油生産の30%は今は新疆からだそうです。「こりゃ、手放すわけないわ....」と見ながら思いました。明日も午前中はトルファンです。写真は

  1. 「日乾し煉瓦の家」から出来た村をやや高いところから見ました。人が住んでいる家と、捨てられた家が入り交じっている
  2. 「火焔山」と書かれた標識の前で一枚。ラクダが寝そべっていました
  3. ベゼクリク石窟寺院(千仏洞)の前で
  4. 夜8時過ぎから全員で夕食。葡萄棚の下は涼しかった
「日乾し煉瓦の家」から出来た村をやや高いところから見ました。人が住んでいる家と、捨てられた家が入り交じっている

「火焔山」と書かれた標識の前で一枚。ラクダが寝そべっていました

ベゼクリク石窟寺院(千仏洞)の前で

夜8時過ぎから全員で夕食。葡萄棚の下は涼しかった


2012年09月01日(土曜日)

 (09:35)「新疆には二つの時間がある」とガイドさんが教えてくれました。一つは北京時間。もう一つは現地時間。漢民族の人達は前者を、漢民族(10億を超えるでしょう)から見れば少数民族のここの人達は後者を使うという。

 あれだけでかいのに中国の時間は一つ。日本と時差一時間です。しかし西に行けばそれは無理がある。例えば今朝も明るくなったのは午前7時30分くらい。やっとお日様が見えた。日本と3時間の時差があってもおかしくない。だから現地の人は北京時間から2時間を差し引いて使うのだそうです。

 そうすると、新疆ウイグル自治区では約束するときにお互いに「どちらの時間ですかと確認しなければならない」(ガイドさん)ということになる。これを忘れると、2時間の待ちぼうけ、または遅刻となる。

 日本とは違ったやり方がトルファンにはいろいろある。市の中心部の「吐魯番火洲大酒店」というホテルに泊まったのです。ホテルの説明にも「☆☆☆☆」と星が四つある。見ただけで「うっそー」という感じがしましたが、面白かったのは「モーニング・コール」。

 その時間になっても何も鳴らない。おかしいなと思っていたら、ドアを叩く音。「今頃誰だろう」と思って聞いたら、「7時です....」と言っていた(多分。中国語が分からないので)と思う。なるほど「人力」ですか。なかなか良い。ははは。

 風呂は問題が多い。なにせ年間降雨量が16ミリとか言っていましたから。頼りは天山山脈からの雪解け水です。で、到着直後に風呂を入れたらちゃんと温かいお湯が出た。しかし夜にもう一度風呂に入ろうと思ったら、今度は水だった。風呂の蛇口をひねったら水だったという人は他にも居た。あ、給湯の問題か。でもまあ四つ星のホテルではない。

 以下の写真は土曜日の朝ようやく明るくなったので、ホテルの周りを30分ほど歩いた時に撮った写真です。

  1. トルファンの朝7時30。車も疎ら。人々は朝については現地時間を採用しているように思える(ま、土曜日でしたから)
  2. 水筆で字を書く人を見つけました。達筆です
  3. 朝の運動をする人。池があって市の中心部は綺麗です
  4. その池には鯉が一杯
トルファンの朝7時30。車も疎ら。人々は朝については現地時間を採用しているように思える

水筆で字を書く人を見つけました。達筆です

朝の運動をする人。池があって市の中心部は綺麗です

その池には鯉が一杯


2012年09月01日(土曜日)

 (19:35)土曜日の午後一までトルファンでもう少し観光をした後、ウルムチに移動。

 一番感心したのは「カレーズ」(karez)ですかね。あまり知らなかったので。同様のものはイラン、アフガニスタン、パキスタン、ウズベキスタンなどにあって、呼び方も違うらしい。アラビア語では「カナート」、北アフリカでは「フォガラ」と言うそうですが、新疆では「カレーズ」(karez)と呼んでいた。

 要するに乾燥した大地に水を引くために大きな山の山麓に一本縦穴を掘り、地下水脈に当たったら次々に里に向かって水路を建設するための縦坑を掘り、その水路(暗渠)を水が流れるような傾斜を持たせて地下に横に作り、時にはそれを数十キロ延ばして灌漑をするというもの。

 このサイトの右側に説明図がありますが、ちょっと考えただけで、ものすごい人的損失のリスクを犯しての作業だっただろうに、と思う。縦坑を上から、そして下から見せてもらいましたが、まあ狭い。まずそれを掘り、土を上げる。

 次に横に水路を作るのですが、落盤は頻繁だっただろうし、まあ沢山の方が亡くなったのではないかと思う。しかしそのメリットたるや大きかった。水無き乾燥地帯が突然オアシスになるわけですから。そのいくつかは今でも使われているという。

 カレーズのシステムは、新疆の場合は1)イランなど西から伝わった 2)漢人が東から来て教えた 3)現地のウズベク系の人達が自ら考えたーーーという三通りの考え方があるそうですが、まあそのどれか、または組み合わせでしょう。

 人間は水がなければ生きていかれない。その他の動植物もそうですが、その水の確保のために天山山脈の南だけで万里の長城に匹敵する5000キロ以上の距離の、数え切れないほどの本数のカレーズが建設されたと言うことですから、凄いことだと思いました。

 写真はみなそのトルファンのカレーズ(一大観光ポイントになっていました)で撮ったものと、食事の後の果物やバザールのシーンです。カレーズの展示部分は地下施設も整備され、その上は葡萄棚になっていた。

  1. 地下の暗渠。この中を水が何十キロと流れる。そして里を潤す。新疆だけで総延長は5000キロを越える
  2. カレーズの撮影ポイントで
  3. 食事のあとに良く出てきたハミウリ(色はメロン、味はスイカに近い)
  4. トルファンのバザールで。巨大な肉がぶら下がっていた
  5. この叔父さんが作った餃子状のものは美味しかった
地下の暗渠。この中を水が何十キロと流れる。そして里を潤す。新疆だけで総延長は5000キロを越える

カレーズの撮影ポイントで

食事のあとに良く出てきたハミウリ(色はメロン、味はスイカに近い)

トルファンのバザールで。巨大な肉がぶら下がっていた

この叔父さんが作った餃子状のものは美味しかった


2012年09月02日(日曜日)

 (09:35)ウルムチは人口200万を越える大きな街だと先に書きましたが、二つの意味で私のような旅行者にも緊張感のあるところでした。一つは街自体が今でもそうでしょうが、ある種の対立を抱えていると言うこと。もう一つはここに来て日中間の問題が生じているので、そこから来るちょっとした緊張。

 ガイドさんはウズベクの人で、彼は真面目だからなのですが、ちょっと緊張気味に仕事をする人と言うこともあったのかもしれない。また一昨年行ったチベットと同じで、カメラを向けてはいけない対象が存在するという制限もある。

 観光客がそれを知らずに「大きなトラブルになったこともある」などとガイドさんから聞かされたし、実際に街は大きいのに夜は余り人が歩いていない。トルファンの方がのんびりしていました。ウズベク人の人口が多いからでしょう。

 しかし土曜日は比較的夕刻の早い時間にトルファンから戻れて夕食まで時間があったので、ホテルから歩いて直ぐのデパートまで一人で歩いてみました。街を見学するために。長い距離はちょっと時間が足りないと思ったのですが、街の真ん中の公園を歩けば「天山百貨」と大きな看板が出ている店まで直ぐでしたので。デパートそのものを見たかった。

 土曜日の夕方とあって公園にはトランプや将棋でいくつもの人だかりが出来ている。そういう意味ではのんびりしたものです。人通りある。街も綺麗。しかし土曜日の割には、車も人もちょっと少なめでしょうか。

 デパートは6階建てでした。地下に食料品売り場があって、一階が化粧品、二階と三階が確か女性もの、4階がメンズ、5階に生活雑貨(靴の売り場などなど)、6階に家具など。日本のデパート構成とよく似ている。

 ビックリしたのはお客さんが土曜日なのに少なかったということもあるが、通りがかるだけで凄い数の声がかかる。店員の方から。多分「寄っていけ、見ていけ」と言っているのでしょう。全然わからないんですが。

 一つだけ買おうと思って行ったものがある。それはワインです。兎に角昼と夜の温度差があって全体的には暑い。かつ雨が少ないときて「良い葡萄が出来る」と聞いていたから、「ワインは楽しみですね」と日本で言われて来た。しかし、レストランで出てくるワインはちょっと水っぽかったりして駄目だった。「やはりここに来たら美味しいワインを飲まないと」と思ったからです。

 ウルムチやトルファンでワインを頼むと「ローラン」(LOU LAN 楼蘭)という銘柄ガ出てくる。デパートに行ってもこの銘柄が圧倒的でした。言葉は通じないが、紙に漢字を書いたりして比較的良さそうな白と赤を出してもらった。値段を聞くと確か384元だった。

 まあ5000円しないわけです。二本で。なにやら立派な箱に入っている。これでいいやと買ってホテルで夕食時に皆で飲もうと思った。この二本は美味しかった。今までのとは全然違う。メンバーのワイン好きも「これは美味しいですね」と。日本で買えるかどうかは知りません。

 それにしても、もう時間がたっているから当然ですが、昔の中国を知っている人間には「ウルムチでもこうか」というほどモノが豊かで揃っているのには改めて驚く。地下の食料品売り場の果物の数など半端ではなかった。

 日本のデパートでよく見かけるブランドも多少入っている。しかし見かけないブランドもある。ゆっくり見る時間はありませんでしたし、ファッション感覚はやはりイマイチのところはある。しかし中国の人達の購買力は劇的に上がっていると思いました。

 もっとも初めて来た街なので知りませんが、デパートの人の入りを見ても「好況」という感じはしなかった。旅行会社の方によると、「旅行者もここ数年落ち続けている」と言っていたので、そうなんでしょう。観光資源は山ほどあるのに残念なことです。そう言えば欧米人が少なかった。

  1. デパートから買ってきて皆で飲んだ美味しい白と
  2. 赤。「楼蘭」という銘柄です
  3. 美味しかった料理の一つ。白クラゲを使っていた
  4. 朝7時16分時点のウルムチの朝
デパートから買ってきて皆で飲んだ美味しい白と

赤。「楼蘭」という銘柄です

美味しかった料理の一つ。白クラゲを使っていた<LI>朝7時16分時点のウルムチの朝


2012年09月03日(月曜日)

 (07:35)アルマトイ(タジキスタン)を経てタシケント(ウズベキスタンの首都)に来ています。サマルカンドには明日列車で行く予定。そこでは何やら「カメラ税?」らしきものがあるらしい。ほぼ全ての場所で。ははは。

 某国を出ると景色が違う。凄く安心します。何よりも英語が通じる。私の英語は下手ですが、一応通じる。だから中国語でやんやん言われると「なに言っているんだろうな」とちょっと不安ですが、英語だと「意思が通じる」という気持ちになれる。ナイス。

 タジキスタンはタジク人の、そしてウズベキスタンはウズベク人の国ですが、タジキスタンという国には「ロシア系が四分の一」と外務省のサイトに書いてあった。実際に空港で働いている人を見てもそうです。ウズベキスタンにもロシア人風の人が多い。

 今私がいるウズベキスタンは、新疆ウイグル自治区のもともとの民族であるウズベク人の国です。タジク人とウズベク人の違いは私にはまだ良く分からないが、国が分かれていると言うことは何かが違う(言葉は確かに違う)ということでしょう。タジク人はウズベク人から分かれた、とモノの本には書いてあったような気がする。

 それよりも思い出したが、新疆にいたときに強く印象に残った言葉は、ウズベク人のガイドさんが「トルコ語を勉強しなくても、トルコ人の話す言葉の30%は自分には分かる」と言っていたこと。言葉の繋がりは強い。歴史の重みに耐えている。

 某国を出たので、ネットがサイトによる制約無く通じる。某国ではフェースブックは「www.facebook.com/ycaster」の「k」の所で必ず止まった。しかしこちらではそこからも動く。それは気分が良い。

 しかし繋がり方と容量に問題がある。乗り換えのアルマトイの空港では試しに無線LANをチェックしたら走っていて、それに繋いだら認証なしに凄く速く繋がった。しかし寸断があって不安定ではあった。

 深夜にチェックインしたタシケントのホテルは、「市内で一番」「第二次世界後に日本人(捕虜の方々が主だったと聞いた)が作ったナボイ劇場の隣」という場所柄は問題ないが、今のところネットが不自由です。「部屋では有線LANが通じるから」と言われたが、通じなかった。「明日朝技術者を派遣する」と。あららってなもんです。

 フロント周りでは「無線LANが通じる」と言われ、確かに通じるが兎に角遅い。私が中国でアップした写真でさえ読み込むのにどえらく時間がかかる。どうも大きなファイルを呼び込むだけの力がない。これは問題だ。しかしタシケントの朝はスモッグもなく気持ちが良い。これからちょっと散歩しようかと。

 まあと4ないし5日間はこの国、つまりウズベキスタンにいるわけで、日本とは違った経験が出来そうです。兎に角、20米ドルが4万スム(現地の人はスンと発音する)ですから。朝フロントフロアの片隅にあるバーカウンターでスパークリングの水を一本頼んだら「3000スム」だった。ははは。

 ベルリンの壁が落ちた直後に入ったホーランドでチョコレート一枚にゼロが数え切れないほど並んでいたことをちょっと思い出した。カウンターのおねえちゃんに「Why ?」と聞いたら、彼女は少し考えて「I don't know.」と言った。

 どういう「知らない」なんだろう。


2012年09月03日(月曜日)

 (22:35)一日をタシケントで過ごしました。深夜に着いたので「午前中は各自の自由」といった雰囲気でのんびりと。相変わらず青い空、暑い日中。しかし乾いた空気。

 知らなかったのですが、旧ソ連邦の中でロシア(1億4500万)、ウクライナ(約4600万)次いで人口の多いのがウズベキスタンだったそうです。2800万人。面積ではタジキスタン、トルクメニスタンなどの方が遙かに大きいのに。

 古くからこの地方としては降雨が多くて農業(綿花栽培など)が盛んで、多くの人を養えた土地だからでしょう。本当に豊かです。レストランに行くと立派な、かつ多様な野菜が出てくる。これがまた美味しい。特に香草は良い。今でも世界の中では綿花輸出ナンバーツー(多分ワンはアメリカ)の国だそうです。

 そしてその首都がタシケント。有名さ加減ではサマルカンドに落ちるものの、人口はサマルカンドが50万に対して300万を数える、とガイドのターニャさんが教えてくれた。驚くのはその人種の多さです。ターニャさんによれば134。

 なぜそんなに多いのか。一つは人々が行き交う中央アジアという地理ですが、もう一つはスターリンの政策。彼は東北部の朝鮮系の人々からウクライナ系の人々までありとあらゆる種類の人々(ガイドの言葉によれば「入らない民族」)をウズベキスタンに連れてきて、色々な仕事をさせた。

 その一つの証拠(歴史の証言)のように、ここでの我々の観光ミニバスの運転手をしてくれたのは朝鮮系のご夫妻だった。午前中に奥様が、午後にご主人が運転した。そう言えば、ターニャさん自身がウクライナ人とロシア人の混血で、ウクライナのご先祖の方はスターリンの政策で移住させられたのだという。「その三世が私だ」と彼女。

 タシケントはサマルカンドから戻った後また一日いる予定ですが、兎に角緑が多い。本当に緑の中の街です。とても「300万人都市」に見えない。緑の中に建物がある印象だ。

 この街を1966年に大地震が襲ったのだそうです。ターニャは「震度8」と言った。どうなんだろう、それはマグニチュードの事だと思うが、とにかく街の建物は大部分が倒壊したそうだ。それほど大きかった。タシケントでは「100年に一回の割合」だそうだ。

 その時にも倒れなかったし、損傷も少なかったのがナボイ劇場(我々が泊まったホテルの隣)だそうだが、ここは戦後前後にシベリアから日本人の捕虜が沢山連れてこられて、その労務にあたったそうだ。立派な建物です。その事が劇場の壁に書いてある。ウズベキスタン国内には所々に日本人墓地がある。先人達は苦労したのです。

 ウズベキスタン人はガジェット好きです。私がホテルのロビーでairで文章を書いていたら、「これはいくらする」とホテルの従業員が話しかけてくる。iphoneで写真を撮ろうとしたら、シシカバブーを焼いていた若者が、「それは4か、それとも4Sか」と聞く。ちょっと笑えた。

 車は大部分が白かベージュ。黒がちょっと。あとはグレイかな。白いのが好まれるのは、「埃が目立たない」為だそうだ。そうは言っても砂漠の中の街だ。なるほど。日本で多い赤や青などは全くと言って良いほど存在しない。写真は

  1. タシケントのホテルの近くにあったデパート。日本では見かけないシーンで、swatchが”ウリ”の商品になっていました。中も見学しましたが、エスカレーターは大改装中、フロアは4階しかなく、ちょっとシャビー
  2. タシケントは綺麗な街です。ゴミが落ちていない、と思ったら朝こうしてオレンジ色の印を身につけたお掃除隊が頑張っていました。素晴らしい
  3. タシケントでの昼飯風景。全体像を撮るためにちょっと引きで撮りました。私たちのグループの前にあるのが、私が憧れたくっちゃべりスペースです。彼等が帰った後、私もここで暫く寝そべりました
タシケントのホテルの近くにあったデパート。日本では見かけないシーンで、swatchが”ウリ”の商品になっていました。中も見学しましたが、エスカレーターは大改装中、フロアは4階しかなく、ちょっとシャビー

タシケントは綺麗な街です。ゴミが落ちていない、と思ったら朝こうしてオレンジ色の印を身につけたお掃除隊が頑張っていました。素晴らしい

タシケントでの昼飯風景。全体像を撮るためにちょっと引きで撮りました。私たちのグループの前にあるのが、私が憧れたくっちゃべりスペースです。彼等が帰った後、私もここで暫く寝そべりました


2012年09月04日(火曜日)

 (09:35)全くの素人考えですよ。だから当てにしないで下さい。でもちょっと夕べ考えたのです。「なぜオアシス都市の野菜や果物はこんなに美味しいのか、香り豊かなのか」と。

 出てきた結論は「環境が厳しいから」。そもそも水が少ない。冬は長い。短い間に生きなければならない。日中でも温度差がある。そういう環境の中では食物も一生懸命生きようとする。生き延びようとする。瀬戸内海の流れが厳しいところの鯛が美味しいようなものです。

 野菜が美味しいタシケントのレストランですが、砂漠地帯の特有の天候が、日本ではあまり見られないレストラン形式を育んでいました。それは、「木の下レストラン」です。木は葡萄でも楡でもポプラでも何でも良い。昼は木漏れ陽の下で、夜は涼しげな緑の下、風が吹き抜ける中で。

 雨の確率は毎日非常に低い。だから、新疆でもここタシケントでも本当にその手のレストランが多い。これがまた良いのです。レストランにもちょっと大きな家にも、オープンの小上がりスペースが一つくらいある。真ん中にテーブル、周りは絨毯とクッション。囲いもあって子供も大丈夫。新疆でもあった。

 一般の家ではそれが「くっちゃべりスペース」です。近所の人が来ても、お客さんが来ても、その青天、木の下のスペースで食事をし、お茶を飲み、そして時には寝る。夜は最高じゃないでしょうか。オアシスならではの時間の過ごし方です。

 私も昨日の昼に行ったナイスなレストランでその手のスペースがあったので、20分ほど寝そべっていました。風もいいし、日中でも乾燥している。

 今サマルカンドに向かう列車の中です。


2012年09月05日(水曜日)

 (05:35)火曜日の朝に「去年から走り始めた」(車掌さん)というタシケントとサマルカンド間の高速鉄道に乗って、サマルカンドに来ています。2時間半をノンストップ。スペインのアベ(高速鉄道システム)に似た車輌。

 車内のスピードメーターを見ていたら時速170キロ程度での走行が多かった。新幹線の300キロに比べると相当遅い。にもかかわらず横揺れが酷い。コップの中の水(コーヒー)が飛び出そうな勢いです。新しいから座席は良かった。食事が出るのもアベに似ている。

 記憶では日本も新幹線の売り込みを図ったようだが、私の印象では国全体として日本の新幹線の精度を維持するのは難しいような気がする。線路にしろ道路にしろロシア的(大雑把)で、あの複雑なシステムを維持するのは難しかったのではないかと思う。

 今いるサマルカンドは私にとってある種「夢の街」でした。3000年を越える長い歴史。アレキサンダー大王の遠征の先。様々な王国、王朝、民族の興亡の場。モンゴルによる過酷な破壊、そしてティムール王朝の首都としての過去。映画の影響もあるかも知れない。知識だけの「夢」でした。

 昨日も書きましたが、人口は35万(昨日50万と書いたのはどうやら間違い)とタシケント(300万)よりも遙かに規模は小さい。しかしウズベキスタンが占める地域の歴史は、サマルカンドとその西のブハラ、さらにはヒバの歴史です。

 タシケントは今は中央アジア最大の都市だが、過去に王国の都が置かれたことはなく、人口が急増したのはロシアが自治州の首都を小さな村(今のタシケント)に移してからです。ロシアにはサマルカンドのイスラムの歴史と重みが嫌だったのかも知れない。だからタシケントは新しく、緑とそこに佇む低層の建物しか見るものがない。

 見たかったのは「サマルカンドブルー」でした。何時の頃にこの言葉を覚えたのか覚えていません。しかしサマルカンドが「青の街」ということは知っていました。きっと何か歴史の本で読んだのでしょう。

 昨日の午前10時過ぎからこの街にいますが、本当に「青の街」です。モスクの屋根、駅舎、ちょっとしたタイルで使われているブルー。時にはくすみ、時には鮮やかで、特に夕日に映える。「青」も実に実に多様です。

 有名な場所には2カ所行きました。昨日の段階で。軍隊の閲兵、バザールの開催場所、そして時には死刑執行の場にもなったレギスタン広場。「レギ」は砂を意味するそうで、「スタン」は場所ですから、「砂の場所」。よってその上に建っている建物(例えばミナレット)は徐々に傾斜する。

 だから修復、修復できているのですが、かなり綺麗な街に直っている。しかしどこだったか、修復した箇所の青の方がオリジナルよりくすんでいた。「それぞれの職人さんの家にとって、いろいろな技術が秘密だった。だから今でも分からないものがあるので」とガイドのターニャ。だから「青」一つにしても復元が時に難しいと。

 バスを降りたってレギスタン広場を目の前にして立ったとき、私は「ターマハールに似ている」と思いました。全く違う建造物です。タージマハールの方がはるかに規模は大きい。しかしインドと中央アジアは繋がっている。陸で。ティムールはインド遠征もしていた、デリーは彼の版図に一時入っていた。アジアの繋がりを感じました。

 もう一つ訪れた大きな場所は、「グリ・アミール廟」です。要するにティムール本人やその先生、子供や孫のお墓。夕刻に行きましたが夕陽に映えて実に綺麗でした。ティムールの遺体は実際にこの場所に眠っているという。一度だけ墓を開けて、歴史書に書かれていた彼の特徴、例えば右足に大きな怪我をしているなどが確認されたという。

 明日、そして明後日の朝もサマルカンドを動き回ります。「今そこにいる」というだけでちょっと満足なこの街を、そして「サマルカンドブルー」を、一杯記憶に残しておきたいと思います。まずは写真を。

  1. レギスタン広場を背景に。サマルカンドブルーが随所に
  2. ウズベク人のお爺さんは、喜んで私との撮影に応じてくれました
  3. サマルカンドのテレビの女性アナウンサー。ちょうど撮影していました
レギスタン広場を背景に。サマルカンドブルーが随所に

ウズベク人のお爺さんは、喜んで私との撮影に応じてくれました

サマルカンドのテレビの女性アナウンサー。ちょうど撮影していました


2012年09月05日(水曜日)

 (08:35)朝っぱらから、ウズベキスタン人の間に論争を巻き起こしてしまいました。

 20才くらいの女性 「私はウズベキスタンは綺麗じゃないと思うし、嫌い。日本に行きたい」

 中年の買い物途中の女性 「自分の生まれた国になんてこと言うの。この国はとっても歴史のある国よ.....」

   朝6時過ぎにホテルから散歩のつもりで出かけたのです。「グリ・アミール廟」がまた見たいこともあって。ホテルから近い。のんびりと。行ったらなんと久井さんがカメラを抱えて佇んでいた。彼はカメラが趣味で、「ああ朝陽を浴びるアミール廟を撮りに来たんだな」と思いました。で私も一緒に撮った。綺麗でした。

 でちょっと見たら、廟の壁の裏側は直ぐに街で、庶民が住んでいそうなので「いってみますか」と一緒にぶらぶら歩いたのです。帰ろうかなと思った頃、二人連れの女性が追いついてきて話しかけてきた。「何人だ?」と。一見して親子と分かる。

 私が「日本から来た」と言ったら、二人連れの母親の方がシンガポールとかは行ったけど、「日本は地震がね.....」と足を振るわす。つまり行きたくないと。しかし20才くらいの彼女の娘は、「私は行きたい。綺麗なんでしょう....」と。

 私が「アフガニスタンも綺麗だよね....」と言ったら、二人とも首を振って、特に若い娘が「いいや。私は好きじゃない。日本は綺麗でしょ...」とまた言った。母親の方もそれには賛成と言った雰囲気だった。ゆっくり歩きながらそんなことを久井さんを含めて4人で話していたのです。

 私たち4人を追い越していった女性がいたのは知っていた。通りかかった商店で買い物をしていた女性だった。その女性が我々の話を聞いていたんでしょう。突然振り返って若い娘に向かった「あなた、自分の国になんてことを言うの.....」と言ったのです。それほど厳しい表情ではなかったが、若い娘を諫めるように。雰囲気からして学校の先生か何かだと思う。

 そんな調子でバーとしゃべって若い女性に文句を言った後、立ち位置から主に久井さんに「ウズベキスタンはアレキサンダー大王が来たことがあるし、長い歴史があるし.....」とウズベキスタンの過去を言い始めた。

 それを見て親子連れは嫌な顔をしながらも、私に改めて「日本に行きたい...」と。彼女ら二人とは暫く話して分かれた。振り返って若い子に文句を言ったその女性も、しばらく話して気が済んだのか、最後に「もちろんウズベキスタンにも問題はあるけど...」と去っていった。

 どの国の人にも自分が生まれ、住む国には好き嫌いがある。しかし20歳前後の若い娘が「私は日本に行きたい」「ウズベキスタンは綺麗じゃない」と言った意味は、私には理解できる気がした。観光地は綺麗になっているが、例えば廟の周りのこの民家群の道路は、全く舗装されていない。道の真ん中に幅10センチほどの水はけ水路がある。

 ウズベキスタンはまだまだ貧しい国です。外務省のデータを見ると、ウズベキスタンの平均の年間一人当たりGDPは2000ドルにも行っていない。日本の1.2倍の国土に2400万人前後が住む国。その殆どが砂漠です。

 ターニャに「この国で金持ちとは」という質問をしたことがある。「石油、天然ガスに携わっている人、ビジネスマン、それに綿花の畑を大きく持っている人」との答えだった。しかしその一方で一日2ドル以下のクラス人が多い、とも資料には書いてある。インフラを見ても、売っている商品を見てもまだまだです。若い女性は海外に出たいでしょう。

 私は「どちらが正しいと言うことではなく、ウズベキスタンの人達には当然ながら自分の国を誇る部分と、自分の国はまだまだでこうなって欲しい」という部分があると思う。日本人もそうだ。しかしウズベキスタンが今は非常に貧しいことだけは確かだ。豊かな観光資源があるのに。

 しかしその貧しさの中に、燦然と輝く歴史がある。時に悲惨で、時に偉大な。写真は

  1. 朝陽に輝くチムールとその一族の男性の墓があるグリ・アミール廟(女性は別の場所に)
  2. グリ・アミール廟をちょっと入った庶民の街の朝。朝からあちこちで色々な人が立ち話をしている
朝陽に輝くチムールとその一族の男性の墓があるグリ・アミール廟(女性は別の場所に)

グリ・アミール廟をちょっと入った庶民の街の朝。朝からあちこちで色々な人が立ち話をしている


2012年09月06日(木曜日)

 (08:35)サマルカンドはまた「バザールの街」でもあります。水曜日の午前中に街でも一番大きなバザールに行きましたが、それこそ大きく、何でも売っていて、人が沢山いて、そう言えばいくつかの映画に出てきたな、と思った。

 「2年間は食べることが出来るナン」
 「実に多様な香草」
 「干しぶどうのセット」
 「スイーツ館」

 などに興味を持って歩きましたが、それこそ会場を一周するだけで2時間はたっぷりかかる。

 大勢の庶民が沢山の買い物をしていました。平日の昼間なのに人が本当に多かった。車で来て、大量に買い込んで、そして帰って行くといくパターン。何よりもあまり雨も降らない場所とあって、広大な売り場とその上に天井があるだけ。柱はあるが、壁がない。遮るものとてなく、ずっと向こうのバザールの遠い向こう側まで見える。

 香草は本当に魅力を感じました。日本には持って帰れないが、その種類の豊富なこと。分かるものだけで、ディル、コリアンダー、パセリなどなど。こうしてマーケットで山のように売っているので、こちらではレストランでどんと、大量に出てくる。

 それをマヨネーズのようなものを付けて、食事の頭の方でバリバリと食べるわけです。メインは「常に肉」(現地のガイドさんの言葉)ですから、その前の野菜は豊富でなければならないのですが、その通り実に豊富です。そしてそれがうまい。既に書いたとおりです。

 「2年間は食べることが出来るナン」は実に巨大でした。しかしサマルカンドの乾燥した空気の中で「通気性のある紙などに包んで....」という前提。ラップしてはいけないそうです。しかし「日本では2年間はもたないだろう」と皆で話していました。

 「干しぶどうのセット」は長持ちしそうだし、関税も問題なく通るので買ってみました。平べったいセットで売っていたので日本まで大丈夫だろうと。バザールでつまんだ範囲では美味しい。

 「スイーツ館」はさすがに別棟で、それは建物の中に入っていました。窓もあった。膨大な数のスイーツが並んでいる。皆パンなどに白い粉がかかっているちょっと微妙な甘さのそれです。日本のスイーツに慣れている身としてはちょっといただけない。しかしよくこれだけ作ったなと思う。

 日本人の目から見ると、グッヅには「ちょっと粗悪かな」というものが多い。しかしトマトなど新鮮なものは実に美味しそうだし、こちらで食べた野菜は皆美味しかった。

 また訪れてみたいのがサマルカンドのバザールです。写真は

  1. おいしそうな香草を売る女性。日本では非常に高いものが多いが、こちらでは山のように売られている。羨ましかったです
  2. 「巨大で長持ちするナン」の山。パーティーでもするのか、これを10数個買っていった女性を見かけました
おいしそうな香草を売る女性。日本では非常に高いものが多いが、こちらでは山のように売られている。羨ましかったです

「巨大で長持ちするナン」の山。パーティーでもするのか、これを10数個買っていった女性を見かけました


2012年09月07日(金曜日)

 (07:35)サマルカンドを午前8時くらいに出て、iphone のマップで見ると「M39」と書いてある道路をほぼ一直線に走って、タシケントまで移動してきました。今日の帰国便に備えるため。サマルカンドからの便は不自由です。

 この道路、現地の人達は「高速道路」(highway)と呼んでいるのですが、酷い道路です。高速道路なのに人は横切る、いつでも車や人が入れるし、どこでも出られる。つまり仕切りがない。しばしば工事中で、本来は右路線なのに、ところどころ左車線を走らされるなど。

 しかし今日からガイドをしてくれているシュクラットさんによれば、2年後にはサマルカンドからタシケントを通ってキルギスタンを抜け、さらには中国に繋がる道路になるという。逆に言うと中国から道路を通ってサマルカンド、さらにはその先に行けることになる。雄大です。いつか走ってみたい。

 今回はサマルカンドとタシケントの間320キロを約5時間かけて走りました。短いトイレ休憩が2回あっただけですから、平均スピードは簡単に計算できる。つまり日本の高速道路とは違う種類の道です。何よりも舗装が良くないので、車体の「ガタガタ」が酷い。よくこんな舗装が出来るな、という印象。

 沿道にはスイカなど各種果物、水、土産物などを売る店が出ている。「店」って言っても、道路脇に数多くない商品を並べただけで、売り子がいるかいないのかの「店」です。私の印象では大きな一般道(片道3車線あるので)。

 やたら目立つのはダークグリーンの制服を着た警察官の姿です。観光バスは止めないが、あちこちで一般車を止めて何やら切符をきったりしている。誰かが冗談で、「必要ないのに止めて賄賂でも貰っているんじゃないのか」と。そうかも知れない。

 それはさておき、とにかく警察官が威張っている国です。私たちにはそう見える。一回も誰何されたことはないので最後はどういう態度で出てくるのかは不明ですが。旧ソ連邦の悪弊が残っている印象がする。

 でもまあタシケントからサマルカンドへの行きは「高速鉄道」(まあまあ)で移動し、帰りは「高速道路」(その名に相応しくない)での車移動。なかなか良かった。鉄道と線路は一部非常に近いところを走っているが、かなりの部分は別部分を走っているので違う景色も見せてくれる。

 ほんとの遠くに山は見えるが、そこまでずっと続く荒れた、起伏のある大地、そこで綿畑を見たり、綿摘みの作業を見たりすることは日本では絶対に出来ない。今がちょうど綿摘みのシーズンでした。綿が白く顔を出し、紫色のその他の綿の木の色が際立つ光景は初めてでした。写真は

  1. 「M39」の沿道で綿畑で綿の収穫をするウズベキスタンの人々。一番の外貨収入源だそうですが、いろいろと問題も指摘されている
  2. 本来は右側通行だが、突然左に移動。右は工事中。2年後にはサマルカンドと中国を結ぶ国際道路になるという
  3. ずらっとならぶサマルカンドのパン屋さん。ウズベキスタンでも「サマルカンドのパンはうまい」と評判のようでタシケントのガイドさんも自宅用に10個買っていた
「M39」の沿道で綿畑で綿の収穫をするウズベキスタンの人々。一番の外貨収入源だそうですが、いろいろと問題も指摘されている

本来は右側通行だが、突然左に移動。右は工事中。2年後にはサマルカンドと中国を結ぶ国際道路になるという

ずらっとならぶサマルカンドのパン屋さん。ウズベキスタンでも「サマルカンドのパンはうまい」と評判のようでタシケントのガイドさんも自宅用に10個買っていた


2012年09月07日(金曜日)

 (17:35)当面の中央アジア最後の日とあって、空港に出発する前のほぼ一日をホテルの中庭で遅い朝飯をしたり、街に出てカフェーで佇んだり、ショッピング・モールやデパートを覗いたり、お腹が空いたら現地の人達に混じって軽い昼飯を食べたりという時間を過ごしました。

 大半のメンバーは山に行ってケーブルカーに乗るという最後の日程をこなしに行ったのですが、私と数人はホテルに滞在した。私はどこに行っても、「現地の空気を感じる、feelするのが大事だ」と思っている人間なので、滞在を選んだ。

 本当はサマルカンドでそれをしたかったのです。古い街ですから。タシケントは1966年の地震で一回街が生まれ変わっている。しかし、妹がつい最近4ヶ月日本に行っていたというホテルのマネージャーと話し込んだり面白かった。日本のイメージは「地震と高層ビル」だそうで、やはり3.11が世界の人々に与えた影響は大きかったと思った。そう言えばサマルカンドでも「日本に行くのは地震があるから恐い」という母親がいた。娘は気にしない風情だったが。

 街では美味しいコーヒーとアイスクリームを探したのですが、なかなかなかった。コーヒーを出す店をハシゴをしたので、出てくるコーヒーを何杯かちょこっと飲みながら街をや行き交う人々を見ながらいろいろ考えたのです。とりとめのないことを。

  1. こちらの人のお腹は、どうして日本人より高い確率で男女問わず膨れているのだろう
  2. この国の10年後はどうなっているのだろう。警察官が威張っているような今の政治体制は続いているのか
  3. サマルカンドの南の地域を中心にかつてはシルクロードを実質的に支配したと言われるソグド人はどこに行ってしまったのだろう
 などなどです。肉付きについては、やっぱり良く食べるのだと思う、ウズベキスタン人は。見ていてそう思った。主食は常に肉で、その前に野菜をたっぷり、そしてお米と麺。やっぱり量だと思う。綺麗な女性も結構お腹にだけ肉が付いている。

 経済格差という点では、まだまだ「酷い」というほどではないと思う。軽く見ただけで即断はできませんが。しかしその兆しはある。街の中心部では結構名前の通ったブランド店が出来つつある。人はあまり入っていないが。チムール広場とナボイ劇場の間などに。しかし田舎の暮らしは実に質素というか、土に塗れている。

 ソグド人は前から知っていましたが、その存在の大きさを改めて感じました。言ってみれば「絶滅民族」です。イラン系の農耕民族だが、商売がとてもうまく、シルクロードの実質的覇者だった時期がある。紀元5世紀とかそれ以降。しかしこの地域のアラブ化の中でちりぢりになった。

 逃げたり征服民族に同化したりで、言葉を失い、結局アイデンティティをなくした。つまり民族としては歴史に消えた。しかし中国ではそもそもソグド人を含めて西方の異民族を「胡人」と呼び、特にソグド人を「胡商」と言ったらしい。ソグド人の中国名は他に「安」とは「石」という名字に残っているという説がある。

 今の中国のトップは胡錦濤さんなので、もしかしたら彼は西の民の末裔かも知れない。「石」という名字は日本にも中国にもある。そういえばタシケントは「石の町」という意味だ。「石さん」はもともとタシケントの人? サマルカンドは「道が交差する街」という意味だそうだ。日本の学者の中には、ソグド人は群馬県まで来た、という人がいるという。

 でも来て本当に良かったと思う。中央アジアは今まで私にとって正直「曖昧模糊」の世界だった。どの国がどこにあるかもあまり定かでない。今回ウズベキスタンとタジキスタンの仲違いも知ったし、その上にはカザフスタンがあること、更にキルギスタンとトルクメニスタンがあることも知った。その下はイランだったりアフガニスタンだったり。

 そういう意味では、面白い地域です。今夜の夜の便で北京に飛び、そこで乗り換えて土曜日の昼頃に成田に戻ります。写真をアップしなければ。写真は

  1. 朝のタシケントで撮ったチムール像から上がる朝陽。テムジンの像がモンゴルのどこに行ってもあるように、チムールの像はウズベキスタンのどこに行ってもある
  2. チムール像から伸びる広い道路の先に、芸術家が出している露天があった
  3. タシケントで志半ばでなくなられた日本人の方々の墓地
朝のタシケントで撮ったチムール像から上がる朝陽。テムジンの像がモンゴルのどこに行ってもあるように、チムールの像はウズベキスタンのどこに行ってもある

チムール像から伸びる広い道路の先に、芸術家が出している露天があった

タシケントで志半ばでなくなられた日本人の方々の墓地


2012年09月08日(土曜日)

 (09:35)ウズベキスタンは砂漠の中にオアシスが点在し、その多くが紀元前にさかのぼる長い歴史を持ち、今はそのいくつかが都市となった綺麗な国ですが、経済は酷い。発展途上という事もあるが、まだまだ改善の余地が大きい。二つ書きましょう。

 一つは「大陸的粗雑さ」の存在。以前からずっと思っていたし、去年のシベリア鉄道でのロシアの旅でもその思いを強くし、今回の中国新疆ウイグル自治区(ウルムチ、トルファンなど)から中央アジアの旅では確信するに至ったものです。

 それは決して悪いだけの意味ではなく、ユーラシアのような巨大な大陸には特有の粗雑さがある、というものです。それを私は「大陸的粗雑さ」と呼ぶことにした。具体的には

 「建物や道路の作りの荒さ」
 「構図中心で、何事も遠くから見ると綺麗だが細部が齟齬し、仕上がっていない事が多い」
 「壁の絵が曲がっていても平気な人々」
 「テーブルの汚さ」
 「サービスのぶっきらぼうさ」

 などなどを指します。「そんな細かいところに拘ってはいられない」という側面があると思う。彼等にはもっと大事なことがあった。身の、家族の、そして街の安全だ。大陸国の都市はその殆どが城壁として発達している。皆がそこに住み、いつくるかわからない敵に備えた。

 ヨーロッパでは「何々ブルク」というのは城壁だし、サマルカンドも城壁の町として発展した。なによりもセキュリティーが大事だったと思われる。その次は水であり、「安全と水」が確保された初めて人々の生活があったと思われる。

 日本にも城はあるが、そこに住んだのは殿様など侍だけで、住民はいつも町の外だった。住民を守る城壁は無かった。ユーラシアの城壁には町全体が入った。そこが違う。それは襲われるときは異民族からだから、町全体を守る必要があったからだ。

 しかし城壁を作り、水を確保しても招かぬ敵は襲ってきた。サマルカンドはモンゴルによって殆ど破壊し尽くされ、街全体が砂地になったと言われる。そのくらい破壊された。その街を綺麗に再建したのがチムールだが、砂地、砂漠の中の都市だけにずっと傷みが酷かった。メドレッセなどのミナレット(尖塔)は曲がり、建物にはクラックが入った。

 「建物や道路の作りの荒さ」は一目瞭然だ。舗装したとは言えないガタガタの道路。柱が曲がっていたりクラックが入っているところも多い。日本では考えられない粗悪さの建物がいっぱいある。去年のロシアでもそれは強く感じた。

 「構図中心で、何事も遠くから見ると綺麗だが細部が齟齬し、仕上がっていない事」はメドレッセ(こちらの人はこう発音した)を見ても、遠くから見るとサマルカンドブルーが際立って綺麗です。しかし近づくと齟齬が目立つ。

 人々の生活の中で見られるのは、「ひん曲がっていても直さない壁の絵」であり、「テーブルの汚さ」への無配慮です。要するに「あまり気にしていない」「大まか」なのです。だから我々のメンバーは食事でテーブルに着くとまずティッシュでテーブルを拭く人が何人もいた。やはり日本人には気になるのです。

 「サービスのぶっきらぼうさ」については日本が丁寧すぎるのかも知れないが、ウズベキスタンでは「この人は怒っているのか」という気持ちになるところもある。しかし彼等にとってはそれが普通で、顔見知りだと急にやあやあということになる。それだけ日本とは違う。

 もっと違うのは、中央アジア全体に言えるのかも知れないが、「二重経済」であるということです。どう二重なのか。

 ウズベキスタンに着いた次の朝です。喉が渇いたのでフロントのあるフロアに行って見たらその隅にバーカウンターがあった。そこでコーヒーを頼むと同時に、スパークリングとスティルの水をボトルで買おうとしたのです。7時前でした。その時カウンターにいた男の子は「両方で4ドル」とドルで代金を請求した。で、払ったのです。それは6時50分くらいでした。

 しばらくして「冷蔵庫に入れておけば良い」と思って、スパークリンの水を「もう一本」と頼みました。午前7時を過ぎて、その男の子だけでなくレジの女性も来ていた。そしたらその男の子が突然値段を「2980スム」と言ったのです。スムも持っていましたが、不思議な顔をして男の子を見ると、レジの女性をちらと見ながら「スム オンリー」と言い、その女性も「スムです」と。

 私もにやっとしてスムで支払いました。そのレジの女性がいなくなると男の子が、「ok?」 と私に。それ以上言わなくて良いのに、「secret!!!」と。ははは。建前は「支払いはスム」と決まっているのですが、「皆ハードカレンシーとしてのドルが欲しいのだな」と。二重通貨制度というわけです。

 ブラックマーケットも存在しているようです。なにせこの国の通貨であるスムで支払うとなると、山のような紙幣をもっていないといけない。2500円くらいの支払いでも、スムでは6万2000スムとかになる。みんなドルが欲しい。

 バスで移動していると、道のところどころで通貨をやり取りしている(かのように見える)人を見かけました。公定レートは「1ドル=1750スム」前後。結構頻繁に変わっている。ホテルに出ていた銀行の交換レートはbuyが確か1ドル=1951スム、sellが1971スムだった。しかし闇レートは2600スムだと聞いた。我々はむろんホテルで両替ですからメリットはない。

 ま、闇レートでの通貨交換をトライするのはリスクがある。ですから細かい問題ですが。やはり通貨に闇レートが存在するような国の経済はやばいでしょう。写真は

  1. サマルカンドなどで存在する「カメラ税」の証拠。3000と聞くとびっくりするが、「スム」ですからごく僅かな金額です
サマルカンドなどで存在する「カメラ税」の証拠


2012年09月08日(土曜日)

 (08:35)それにしても、「何でこんなに環境が悪いところばかり移動しているんだろう」とずっと思っていた道中でした。「環境」とはネット環境のことです。別に常に最新ニュースをチェックしていたいというのではない。必要な情報の送受信がスムーズに出来ないことにいらだったわけです。

 ウルムチ、トルファンなどを移動した中国の新疆ウイグル自治区では、ホテルのネット環境は有線ながら良かった。比較的容量の大きな写真も送れた。ケイタイもまずまず。しかし、SNSが駄目でした。ネットで「facebook.com」を開こうとすると、かならず「k」のところで止まった。だから何もSNSにはアップロードできなかった。ツイッターも駄目。

 しかし「http://www.ycaster.com」や「http://arfaetha.jp/ycaster/」のHPは更新できた。FTPは問題なく動いた。中国の当局が気にしているのはSNSなんだな、と分かった。

 ウズベキスタンでは「容量」が問題でした。タシケントのホテル(Tashkent Plazaとか言いました)では、メールがダウンロード出来なかった。これは信じられなかった。windows はメールを取れていましたが。写真も送れなかった。FTPは全く駄目でした。サイトも出てくるのに時間がかかる。四つ星のホテルなのに。

 ウズベキスタンはドコモの「海外パケホーダイ」の対象外なので、そもそもドコモのケイタイは電源を入れなかった。ずっと。予想外のアクセスがあって去年のシベリア鉄道の旅でもあったように、法外な料金を後で取られるのは嫌なので。ですからドコモの電話、メールには全く対応しておりませんでした。

 ウズベキスタンで「お、これは速い」と思ったネット接続はタシケントからサマルカンドに向かう高速鉄道が走り始める前の20分ほどだけでした。車輌にwifi マークがあったので車掌さんに「使えますか?」と聞いたら、スイッチを入れてくれた。

 そこでやっとウズベキスタンで初めてメールをダウンロード出来た。HPも更新できた。しかし走り出したら遅くなり、寸断も頻繁になったので止めたのです。別にネットをやりに来たわけではないので、あとは景色やメンバーとの会話に集中しました。

 サマルカンドのホテルがまた酷かった。いいホテルなんですよ。「Registan Plaza Hotel」という。市の本当の中心部にある。しかし「お部屋は無理です。フロントフロアでのみwifiが通じます」とまず言われて、従量制(使ったメガ数での支払い)のwifi を使ってみたのですが、遅い遅い。

 FTPはできず、サイトの呼び出しも不便この上ない。何とか「http://arfaetha.jp/ycaster/」のサイトの情報だけは更新しましたが(FTPではないので)、あとは「日本に帰らなきゃ駄目だ」と思いました。まったく酷いというか、日本が恵まれているというか。メールはやっとダウンロードでした。凄い時間をかけて。だからこれからウズベキスタンに行く人は、そういう面では覚悟した方が良い。

 でも肝心なことは日本で経験できない歴史や景観や人々と出会うこと。そう思ってました。トルファンやサマルカンドなど今まで行きたかった街やその国を感じ、楽しむことだったので、「そういうこともある」と素早く諦めました。イライラしても仕方がない。「日本との違い」が分かったことが良かった。

 iphone は比較的どこでもよく繋がった。中国でもウズベキスタンでも。これには助かった。でも多分「エクストラ」の料金が発生しているんだろうな。ただそれが合理的なことだけを祈りつつ。


2012年09月08日(土曜日)

 (13:35)最後にタシケントから成田への移動の途中で飛行機乗り換えで降り立った北京での話。そこで知り合いから面白い数字を聞きましたので一つ。

  1. 中国の世界における車保有台数の割合は3%
  2. その中国で発生する交通事故の割合は世界の14%
  3. その事故で発生する中国での死亡者の数は、年間14万人
 結構凄い数でしょ。信頼できる人の話です。「運転者は教育しなければ駄目だ」と皆が言う。しかし教育が全く追いついていない。酒は飲む、無謀運転はする。「教育なし」の中国の交通事情。

 実際にタシケントから到着したターミナルから、北京の空港の中でオリンピック用に4年前に作られた第三ターミナルに15分ほどバスで移動する間に、車線をまたいでふらふらしているタクシーと危うくぶつかりそうになった。

 旅の最後の最後にひやっとした。中国で運転する人、車に乗る人はご注意を。


2012年09月09日(日曜日)

 (13:35)「日本はええな...」としみじみ思っています。何よりも空気が綺麗です。中国のようなスモッグもなければ、ウズベキスタンのような砂っぽさもない。もっともじっとりと暑いですが。

 何よりも千葉県の上空にさしかかったときの空気の澄んでいること。昨日の話ですが。下がくっきりと見える。同じ日の北京空港では朝でしたが、すごくもやっていましたから。この空気の綺麗さが大陸にないものです。中国では雲の形が良く分からない。もやと溶け込んで。日本では雲はくっきりです。

 ネットも制約無く何でも出てくるし、通信速度の問題もない。ウズベキスタンではそもそも写真が出てきませんでしたし、ユーチューブは全く駄目。無線でも有線でもLANと呼べない。3Gの方が速い印象でした。

 今は「帰国儀式」の消化中。「九州ジャンガララーメン」を食べ、「くずきり」を食べ。あとCoCo壱番屋の「牛しゃぶナス」を食べないと。しゃぶしゃぶも食べたいな。豚ちゃんが好きです。それらが終わると、現実への回避です。

 10日間だけですが、これが食べたい飲みたいと思ったものは、美味しいコーヒー。そして美味しいアイスクリーム。向こうではなかなかないですよ。時間があるときに、例えばタシケントを歩きましたが、何軒か歩かないと。その殆どがインスタントです。

 ハミウリとかいろいろ日本では食べられないものがあるのでそれは良いのですが、やはり口寂しくなる。ハミウリでも、新疆ウイグル自治区のハミウリ(ちょっと黄みががかっている)よりも、タシケントで食べた白いものが甘くて美味しい。

 毎回のことですが、帰国するとNHKオンデマンドなどで期間中に見落とした番組の中で良いものがあったら見るのですが、今回はないですね。だからテーマ別の特集から「文明の道」の中に「ソグド人の特集」があることを見附けて、それを見たり。

 昨日まで見ていたものに関してまた別の角度から見れるのは良い。ま、明日からは現実回帰ですね。ちょっと名残惜しいが。


ycaster 2012/09/11)


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