<「太陽」と「水」そして「風」=ドイツの挑戦-Cyberchat>

 恐らくドイツは先進主要国の中で、電力源としての「原発依存脱却」を決め、そしてその方向で国家のエネルギー政策を「再生可能エネルギー中心」に一気に動かしている最初の国だろう。善し悪しの問題は別にして、ドイツは世界の国々に先駆けて壮大な実験をしていると言える。

 そのドイツを2007年の11月の下旬に10日ほど取材した。2008年の元旦午後7時からNHKBS1で放送された地球特派員のドイツ取材チームのレポーターとしてである。ベルリンで太陽光発電の学校を、ライプチッヒ近郊のビターフェルトで太陽光パネルで世界トップのシャープを急追する新興企業Qセルを取材し、そしてミュンヘンではBMWの水素自動車を試乗した。

 ベルリンからミュンヘンまですべて車移動で、総走行距離は1000キロを優に超えたのではないかというハードな取材だった。あたかも原油価格がバレル100ドルに限りなく接近し、その一方で地球温暖化防止の観点からCO2削減への国際的動きが活発化する大きなうねりの中で、ドイツという国が素早く決めた大きな方針を決めた背景を探り、では実際に再生可能エネルギーをどのように利用し始め、それへの依存度を上げようとしているのか。本当に「脱原発」は可能なのかを視点とする取材だった。

 ドイツには折に触れて行っている。直近は2002年だ。EUが概念としてのユーロではなく、初めての紙幣、硬貨として今までの各国通貨を廃止し、ユーロを発行したのが同年の1月1日。せっかくの年末年始の休みを、そのユーロ誕生と同時に過ごそうと2001年の年末からベルリンに出かけたのが最後。

ドイツではどこでも見かける電力生産用の風車  その前は1980年代の除けば、記憶に残るドイツ訪問は1990年だろう。前年の11月にベルリンが墜ちた直後。小林君と一緒に、西ドイツから東ドイツに入り、ベルリンを見て回った。その時の印象は当時の文章が鮮烈に残っているが、まだHPを開始(1996年)する以前で、このサイトには掲載していない。しかし強烈な印象だったので、そのうちにアップしようと思っている。

 その後も何回か行っているが、筆者はシュベリーンというハンブルクから東に入った直ぐの、古城と湖のある街を定点観測してきた。その変化は崩壊前と後では目を見張るモノだが、ここではそれが議論の中心ではないので書かない。しかし一つ言えるのは、東側だったライプチッヒと、ずっと西だったミュンヘンを比べると、インフラの逆転が見られるということだ。

 これは後の日々の記録にも書いているが、「壁崩壊後のドイツ政府による旧東ドイツ地区に対する集中的なインフラ投資」の結果だろう。商人の街であるライプチッヒが以前からこじんまりとしながら、整った街だったことが背景かもしれない。しかし明らかに投資額の差は感じた。それは東ベルリンにも言える。
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 話しが少しずれた。5年ぶりのドイツで一番感じたことは、風車の増加である。1000キロ近くを走ってどこにでも目にしたのだから、風力発電を再生可能エネルギーの有力な候補としているドイツが、人目では見ることが出来ないが、国土のあらゆるところで発電の為の風車(ウィンド・ミル)を作っているというのが実態なのではないか。少なくとも、ベルリン、ライプチッヒ、そしてミュンヘンと移動する中で、ちょっと郊外に出ると目に入ってきたのは風車なのだ。言ってみれば、ランドスケープが変わっていた。

 我々日本人の欧州に対するイメージは、「風車=オランダ」というものだった。筆者は最近オランダに行っていないが、ドイツを見た限りでは「ウィインド・ミル=ドイツ」ということになるのではないか。車移動しているので、風車の直ぐしたで音を聞くことは出来なかった。伊豆の住民が苦情を申し立てている風車被害はドイツもあるのかどうかは分からない。しかし、北は平坦で、南はなだらかな丘陵の大いドイツで、「どこでも風車」というのは実に印象的だ風景だった。

 しかしあれだけ風車を作ったからといって、ドイツの総電力供給量に占める風力発電の割合は小さい。確か数%にも満たない。あれだけ作ってもそうなのだ。だとしたら、風車だけで今の原発がドイツで担っている電力を起こそうとしたら、国土全土が風車で埋まってしまうに違いない。それは現実的ではない。

 要するに、ドイツが目指している「再生可能エネルギー戦略」は「合わせ技」なのだ。風力に加えて太陽光、加えて地熱、加えて水力などなど。

ドイツのあちこちで見られるソーラーセル・パーク  太陽光発電に対するドイツの意欲は強いし、ある意味で偏執狂的にも見えないことはない。太陽光発電装置製造の最先進国・日本を遙かに上回りかねない強烈さがある。実際の所、取材したライプチッヒ近郊に本社を構えるQセルは、パネル製造トップのシャープを間もなく抜き去ろうとしていた。2000年くらいにベルリンで数人の科学者が集まって作った会社が、この世界ではずっと世界トップを走ってきたシャープを凌駕がしようとしているのである。筆者は日本の太陽電池工場に入ったことがないので比較はできないが、綺麗な、新しい工場で多くの人が働いていた。

 風車ほどではないが、太陽光を電力に転換するセルを平たく貼り付けたパネルは、ドイツの思わぬ所で発見することが出来る。ベルリンの街中には、マンションの南側の壁に下から上まで埋め込まれていたし、ライプチッヒからミュンヘンに向かうアウトバーンを降りて食事をしたドイツの小さな村のレストランの屋根にも、ちゃんとパネルが張ってあった。それぞれの建物が使う電力のごく一部を生産しているに過ぎないが、「努力はしている」「発想を巡らしている」という印象は強く残った。

 ソーラーパネルのパークも見た。石炭を掘り出した残土を積み上げた、他に使い道のない、周囲より盛り上がった岡のようになった土地の上部を平坦にし、総延長9キロの及ぶパネルをずらっと並べたパークである。太陽光パネルで生産される電力は直流である。それを転換する小さな無人の小屋があって、そこで交流に代え、それを一般の系統送電線に送り込むのである。

 ポイントはドイツ政府の補助政策だ。日本が太陽光発電に対する補助金を打ち切ったのに対して、ドイツでは「再生エネルギー促進」の観点から、ヨーロッパ諸国の模範となるような法制度を打ち立てて、自然エネルギーを推進している。電力会社は、太陽光発電で生まれた電力を高く買い取ることを義務づけられている。その後は徐々に引き下げられる。つまり創業メリットを大きくしているのだ。この制度はイタリアなどにも取り入れられつつある。つまり、再生可能エネルギーが実際により多く使われるように社会的、法的インフラを整えているのである。こうした中からQcellのような会社が急成長している。

 ドイツの取材では、BMWが作った水素自動車にも乗った。アウトバーンを実際に自分の運転で走ってみたのだ。2006年のアメリカ取材ではエタノール車も運転したので、2年連続して最先端のエコカーを運転したことになるが、エタノールカーはトウモロコシで、BMWの水素自動車は水素で走っているという、よく考えると不思議な気持ちがする体験だった。実は両方とも100%ではない。BMWのエコカーは確か水素を100キロ程度走る分しか積めなかったと思った。水素は重いのだ。あとはガソリンで走る。エタノール車もE85などという表現で、エタノール85%といった組合せで走る。

ドイツで乗ったBMWの水素エンジン車。といってもやはりBMWであって、乗り心地は抜群だった  どちらもスタンドが課題だ。エタノール・スタンド、水素スタンドが必要なのだ。今はそれが少ない。車も少ないのだから、経済合理性から言えばスタンドを作るインセンティブも少ない、ということになる。しかしスタンドが少ないと安心して走れない。2006年にアメリカで取材したときには、ニューヨークの車がエタノールを入れようと思ったらワシントンまで走らなければならない、ということだった。片道5時間である。それでは誰もニューヨークの車保有者はエタノールに依存しようとは思わない。

 ドイツ取材に関しては最後になるが、主にドイツの旧東側を移動しながら考えたことがある。それは西ドイツの東ドイツ併合もそうだが、1990年以降のEUの、主に東に向かっての拡大は、実はアメリカの西部開拓に相当する動きなのではないか、ということだ。言ってみれば、「欧州の東部開拓」

 なぜそう思うかというと、もちろん西側と同じように東ドイツを含めて旧共産圏の東ヨーロッパにはずっと以前から人は住んでいたし、一定の文化程度には達していた。しかし、欠点だらけながら経済発展のもっとも効率的なシステムとしての市場経済が東に入り始めたのは、ベルリンの壁が墜ちて以降である。つまり、まだ欧州における市場経済の東進は10数年の歴史しかない。

 西ドイツの東ドイツへの投資が代表的だが、この間に西側諸国から構成されいたEUが、徐々にその堺を東進させるなかで投資した資金や技術は、アメリカの開拓民が西進したプロセスにも似ている。市場や労働力の経済的未開拓地を求めて、今でも西欧企業の東進は続いている。つまりEUは大膨張しているのだ。

 市場を専門とする私にしばしば投げかけられる質問は、「なぜユーロはそれほど強いのか」だ。ドルの代替通貨になりつつあるユーロへの需要は強い。それが大きなユーロ高の理由だ。外貨準備を大量に持つ国々の間では、その一部をユーロに置き換えようとしている。ユーロ買い・ドル売りが出る。

 しかし今回ドイツを移動しながら、EUの東に向かっての大膨張も、ユーロを一つ強くさせている要因ではないか、と考えた。東に広がったEU経済圏は、ウラル山脈からスペインの最南端の地中海岸までトラックが自由に通行できる巨大な経済圏になった。物流の障害除去は、それだけでも経済活動を活発化させる。しかも日本のように細長い国は通れる道が限られるが、欧州ではトラック物流の選択肢は多い。欧大陸は走れば直ぐに分かるが、巨大な平野、大陸だ。

 この拡大、アメリカの西部開拓に匹敵する拡大こそ、欧州経済に活力を与えていると思う。むろん、東の安い労働力で打撃を受ける旧欧州の労働者は多いし、東の勃興の中で激しい競争に晒される産業、地域も多いだろう。しかし、「市場が広がっている」という動かし難い事実は、多くの欧州の企業、企業家に刺激を与えているだろう。

 実際の所、今の欧州は私が知っていたそれではない。Qセルが急成長しているのは、偶然ではないのだ。Qセルが生産設備を集中的に作っているのは、旧東ドイツの一大化学工業地帯であったビターフェルトだ。西ではない。壁崩壊の時点では、「世界で最も汚染された街」の汚名を着たが、それでも一大化学工業地帯だったことから、化学者も技術者もここにはいた。経済学で言う「経路依存」的にここに最先端の会社が進出し、工場を相次いで作っているのである。

 西側企業の東欧での「適地探し」は今でも続いている。企業が地区を変えて生産活動をする際の熱はすさまじい。企業は当然活発化する。今の欧州には、そういう熱を感じるのである。その熱こそ、欧州の資金を惹き付け、それがユーロ高の一因になっているのではないか、と筆者は考えた。

 この欧州の東進の熱がいつまで続くのか。それは分からない。しかししばらく続きそうだ。なぜなら、その北には石油価格の高騰によって膨大な富を蓄えてロシアがいる。資本は両方から集まりそうで、そうなれば東欧の民はいずれ豊かな消費者となるだろう。EUの企業にとって東に生まれつつある豊かな民は、魅力以外の何者でもない。
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 筆者はこのヨーロッパ取材に続いて、その翌月である2007年11月末から12月の初めに掛けて、主にアメリカ南部のノースカロライナを取材した。主に原子力発電を巡るアメリカの動きを取材するため。キーワードは「The Nuclear Renaissance」。つまり原油価格の天井知らずの上昇の中で、スリーマイル島での原発事故(確か1979年だったと思った)以来、新規原発が許されてこなかったアメリカで、原子力に対する関心が再び高まっているという話し。その実体を取材しに行ったのだ。

 アメリカでは確かにブームが起きていた。大学の原子力関連学科には学生が集まりだしていた。学生曰く、「今この学科を出たら就職には困らない....」と。関連学科には国の予算も付き始めた。とにかく原油を湯水のごとく使ってきたアメリカだが、さすがにブッシュ大統領でさえ「石油依存(oil-addicted)」と表現した今の暮らしを続けるわけにはいかない。そのためには、原理力への依存を高めなければいけない、という考え方が一方である。

 しかし世界中何処でもそうだが、原子力発電に対してはいつでも強いアレルギーがある。「not in my backyard」(自分の裏庭でなければ)という心理も強い。つまり原子力が生み出す電力は使いたいが、それを自分の裏庭で生産されては困る、というのである。ノースカロライナの州都ローリーではそういう人達も取材した。集まってもらって。今でも記憶に残っている原発反対派の人々の中には、「アメリカ人は生活水準の低下を享受すべきだ」という人が結構いたことが記憶に残っている。まあピューリタンという彼等の祖先は、清貧を旨としたという説もあるから、そういう人がいてもおかしくはない。それがアメリカの人達の多数意見だとは思わないが。

 印象としては、原発を巡ってはそれを「必要悪」と考える人と、その一方でやっぱり「悪」なんだから止めようと言う人が、世界中を考え方をぶつけ合わせている、という印象だ。この対立から人類が抜け出すのは容易ではない。私はしばらく原発に依存しながらも、新エネルギーの開発に尽力すべきだ、という考え方だ。
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 以下は筆者がドイツ、およびアメリカ取材中にその日その日で書き残した印象です。まずドイツ分から。


2007年11月17日(土曜日)

 (00:54)成田を金曜日午後1時過ぎに出て、フランクフルトに着いたのが現地時間の午後6時ちょっと手前。時差は8だから、8+4.5で12時間以上かかったことになる。フライトは順調でした。相変わらず混んでいる。エコノミーは超満員でした。航空需要は世界中に依然として高い。気温は摂氏4度と放送が言っていました。

 そのままベルリンに移動したのですが、トラブルといえば旅行社がくれたパンフレットに掲載されていた「乗り継ぎ用の入国審査場所」が既に変わっていて、かなり離れたところに移動していたくらい。予定では午後8時20分のベルリン行きに乗り継ぐ予定でしたが、さっさと手続きを済ませて見たら午後6時35分に同じフルトハンザのベルリン行きがあったので、それに乗せてもらって午後7時40分にはベルリンに。

 ベルリンに最後に来たのは2002年の年末年始です。杉岡さんにポツダムとかシュベリーンに連れて行ってもらった。彼は今モスクワをへて、日本の証券会社に勤めている。最初のユーロ紙幣が2002年の年始に出たのです。夜中にタクシーでシティバンクのATMでユーロ紙幣をゲットしたことを今でも覚えている。その紙幣は今でも持っています。

 その時も寒かった。その前は確か1990年、ベルリンの壁が落ちて直ぐでした。壁が残っていて、ブランデンブルク門の周辺を歩いた記憶がある。確か小林君と一緒だった。ポーランドにまで行ったと思う。その時のシュベリーンは惨めなものでした。今でも鮮明に思い出す。それが2002年には綺麗に西側化されていて、90年に歩いたシャビーな東ドイツ側のベルリンがブランド街になっていて非常に驚いた記憶がある。

 今回は空港に原田氏に迎えに来てもらっていたので、そのままホテルにチェックインして、他のスタッフと4人で外に出たのですが、やはり北国ですね。昨日まで雪が降っていたということで、この日もちょっと雨模様。道路が塗れている。確かに寒い。

 まだ到着したばかりで、おまけに暗いので良く分からないが、明日から街の様子などを見て回りたいと思う。


2007年11月17日(土曜日)

 (23:54)早くも取材開始で、特に午前中は興味深い人、動きに遭遇しました。今まで持っていた自分のエネルギーの今後に関する考え方を変えなければならないと思うような事実にぶち当たりましたが、それはまた元旦午後7時からのNHKBS1の番組を見ていただければと思います。

今もベルリンの旧東地区に残る旧共産圏を感じさせる商店の棚  取材の途中の車の中やレストランで、運転手さんとか取材相手のドイツ人と話しをしていると、1989年の末まで分断されていた街の歴史が、この地域に住むドイツ人一人一人の履歴、経歴や人生に落としている大きな陰、実に大きな影響力にしばし愕然とする。運転手さんは物静かな芸術家タイプなのですが、話しを聞くと壁が落ちるわずか3ヶ月前に1才の子供と奥さんを連れてリスクを承知で東ドイツから西ドイツに逃れた経験を持つというのです。

 日本でも何回も放送されましたが、ベルリンの壁の崩壊に最後はつながったと言われる汎ヨーロッパ・ピクニック(パンヨーロッパピクニック、ハンガリー語: Paneuropai piknik、ドイツ語: Paneuropaisches Picknick、1989年8月19日、オーストリア共和国ブルゲンラント州に食い込むハンガリー領ショプロンで開かれた政治集会)に参加して、「もう遅いかも」と思いながらも、西ドイツへの移動を敢行した。

 勇気が必要だったと思う。しかし、その3ヶ月後にベルリンの壁には若者がよじ登って、あっけなく、そして皆が「いったい何が起きたんだ」と言っているうちに壁も、そして東ドイツも崩壊し、時間を置かずにドイツは統一された。「自分がリスクを犯したわずか3ヶ月後に壁が崩壊してどう思ったか」と聞いたら、「こんちくしょうと思った」と正直に語ってくれた。

 今日一番取材に長い時間を使った環境NGOの事務局長は、奥さんが旧東ドイツの出身。ポーランドを旅行中に奥さんと知り合い好きになったが、結婚する決意をしたものの、東ドイツの奥さんが西ドイツの彼とすんなり結婚できるわけもない。1年以上も西と東の政府を巻き込んで交渉した結果、彼は奥さんと正式なルート(といっても西と東のバーターのような交渉結果)で結婚したという。彼は仕事でフランスで当時働いていたのですが、壁が崩壊したと職場の友人から聞いたときには、「冗談だろう」と思い、本当に壁が崩壊したと確信したのは翌朝に新聞を読んだ時だったという。

 ベルリンで生きている多くのドイツ人一人一人に、「あの時代」「あの時」に関する思い出があるんでしょうね。「壁」が落ちても、1990年の西ベルリンと東ベルリンはまるで別の国(一方は先進国、一方は貧しい貧困国)だったので、雇用の問題、西の人の東に対する偏見など、ドイツ人には「心の壁(wall in the head)」が残っているとずっと言われた。

 私は東ドイツ出身のメルケルが首相になったとき、「これでドイツ人の心の中に残ったもう一つの、そして最後の壁もなくなったのかな」と日本に居て思ったものです。ギャオの番組の最後の言葉に「心の壁崩壊か」を使ったこともある。しかし壁崩壊のわずか3ヶ月前に西ドイツに亡命した運転手さんのこの問題に関する意見は、「確かにメルケルも、もう一人の野党の代表も東出身で、そういう意味では大きな前進だ。しかしだからと言って、ドイツ人の気持ちの中に刻まれた心の壁がなくなったかといえば、そうは言えない」ということでした。

 再来年には、「壁崩壊20周年」があり、その後には「ドイツ再統一20周年」がある。もう壁の崩壊というあの衝撃的なシーンをこの目で見たことのないドイツ人も増えているのが現実です。

 2001年の年末から2002年の年始に来たときに泊まったウェスチン・グランドというホテルの周りにも行ってみました。ホテルからフリードリッヒストラーセをしばし歩きながら、そしてホテルの前からブランデンブルク門の前へ車移動で。懐かしかったですね。街も綺麗になって東の面影はかなり消えた。しかし、この上の写真の商店の棚のように旧東を感じさせるシーンは、ベルリンのかつての東側に色濃く残っている。下の写真は、ドイツ・ワールド・カップを目指して作られた新しいベルリン中央駅です。ガラス張りで中にも入ってみましたが、綺麗な駅でした。

去年完成したベルリン中央駅  ノスタルジーという英語がありますが、ドイツには「オスタルジー」という言葉があるそうです。東を意味する「オスト」と合わせて「オスタルジー」。かつての東ドイツを懐かしむ心と言うことでしょうか。

 私にとってオスタルジーは、当時走っていたトラバントという車とか、シュベリーンで鮮明に刻まれたまるで中世のよみがえったようなシャビーな街並み、痩せて無精髭を伸ばしたドイツの男性、薄汚いビルなどですが、その多くは消えつつあるように見えた。そういう意味では、旧共産圏を思い出させるような商品展示棚などは、私にとっての数少ないオスタルジーだ。もっとも1990年の東ドイツ側の商店には、こんなにモノが置かれていなかった。シュベリーンの商店に入ったときには、昔の農家の土間のような印象だったし、棚には数えるほどの品物しかなかった。

 一方、12月のインドネシアでの気候変動枠組み条約の締約国会議にも報告され、京都議定書に定めのない2013年以降の温暖化対策の議論に大きな影響を与える「統合報告書」が、バレンシア(スペイン)での「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」で採択された。地球温暖化の被害を小さくできるかどうかについては、「今後20−30年間の排出削減努力と、それに向けた投資が大きく影響する」などを内容とするもの。

 報告書は、「温暖化の影響を小さくしようとすればするほど、温室効果ガスの排出を早い時期に減少に転じさせなければならない」と述べ、一刻も早い行動が不可欠なことを訴える内容となっているという。同報告書は、公表済みの3つの作業部会報告を基に、20世紀半ば以降の温暖化は、人間活動が原因である可能性が「かなり高い」と結論して、今世紀末の平均気温は20世紀末より最大6・4度上がるとも予測しており、さらに温度上昇が加速するなどに関し、近年懸念が高まっていることに言及しているという。

 11月のベルリンはどんよりと雲がたれ込め、いつも霧雨のような雨が降っている天候でみれば日本から見た我々には温暖化とはほど遠いように思えますが、確かに地球全体を見ればその兆候は否定しがたい。行動の必要性は高まっている、と思う。


2007年11月18日(日曜日)

 (21:54)ベルリンを出て、昼頃から南下。途中工事でアウトバーンが大渋滞。何ということはない工事をしているだけでした。全員でブーイング。

 今日の最終目的地ライプチッヒに行く前に、近くのビターフェルトに。旧東ドイツ最大の化学工業地帯だった街で、統一後にこの町は統一ドイツ政府と環境保護団体グリーンピースによって「世界でもっとも汚染された町」との烙印を押されたという。今は寂れた、静かな街です。

ビターフェルトの街の中心に書いてあった落書き。「職がなければ、見込みもなく、将来もない」と書いてある  東独当時「最大の化学工業地帯」だった街が今のように静かになってしまった背景は、競争力の喪失。壁崩壊後は老朽化などで西側企業との競争で破れて、ここの工場は次々に繰業停止を余儀なくされたという。見ると確かに稼働していない工場がこれでもかと並んでいる。一説には9万人いた労働者の半数が職を失ったと。街、というより村に見えましたが、静かになるはずです。

 街の中心で見付けたのが、最初の写真の落書きです。読んで字の通りです。この落書きや街の様子を眺めながら、私は何故か中国の瀋陽を思い出していました。瀋陽は中国最大の基幹産業の街だった。それが今は酷い寂れようで、私が訪問した中国の都市では一番寂れていた。

 むろん、瀋陽はビターフェルトより遙かに大きな街です。しかしかつての繁栄を失ったという意味では非常に似ている。新たな産業の導入が街の再生の鍵なのですが.....。

 わずか数日なのですが、ドイツについていろいろ気が付くことがある。まず第一に、ドイツ人は食べ過ぎる。アメリカの国民病である「肥満」の問題を、アメリカと同じように抱え込みつつあるように見える。まだアメリカほどではないが、私は今のまま行ったらドイツはアメリカの二の舞だと思う。

 コーディネーターの田村さんが面白い話しをしてくれた。ドイツでは、「少量で美味しい」ものを食べさせてくれる店は確実に潰れるというのです。何よりも量が問題だと。まあそういう意味では、アメリカのシカゴに似ている。

ドイツで導入された無線利用の貸し自転車  ついでに言うと、普通の値段の店で美味しい店はまずない。私はそれを知っているので、「ドイツ出張中に数キロでも痩せたら成功」と思ってきているのですが、何せ出てくる量が凄い。「もったない」精神を発揮すると大変なことになるのですが、そうは言ってもある程度は食べないといけない。まあ私の問題ではなく、肥満はドイツ人の抱える大きな問題になりつつあると思う。

 次に、整列が出来ないドイツ人を発見した。私はドイツ人は整列がうまいと思っていたが、ベルリンのテゲール国際空港のタクシー乗り場は酷かった。「mess」です。皆来たタクシーを勝手に拾って乗っていく。東京駅や日本中で見られる規則正しさは全くない。

 東欧などから来ている人が多いせいでしょうか。ハンブルクではこんなことはなかったと思ったのですが。それともドイツ人が変わってしまったのか。可愛い顔をした女性が、私たちより後ろに並んでいたにもかかわらず、来たタクシーをとっとと拾って行ってしまったことには驚愕した。

 でもドイツでは一つ面白いモノを発見しました。無線で管理の「貸し自転車」。この自転車は写真の通り赤い。そこに電話番号が書いてある。その電話番号に電話してキー番号をもらい、それを入力。それでダンです。あとはクレジットカードで支払うのみjの番号を入力する。そうするとその時点で自転車が借りられる。何処にでも行け、そして何処にでも乗り捨てが可能だというのです。

 これは良いアイデアだと思いました。環境にうるさいドイツ人は自転車好き。本当に数多くの自転車を見かけるのですが、これだと観光客も何処でも自転車を借りられる。私たちが見かけたのはブンデスターク(連邦議会)の前でした。

 私たちの運転手さんが、「ハンブルクにだって乗っていけますよ.....」と。いや、冗談ではなく。このシステムは面白いと思いました。無線で管理する、管理人なしの貸し自転車。なかなかのアイデアだと思いました。


2007年11月19日(月曜日)

 (23:54)「見本市」の発祥の地・ライプチッヒは実に綺麗な、そして落ち着いた街です。歴史の臭いがぷんぷんする。ベルリンでの1989年末の壁崩壊当時はどうだったか、私は想像することしかできない。しかし、壁崩壊後に確か梅本君と行った同じザクセン州のドレスデンから想像すれば、今よりは多分かなりシャビーな街だったに違いない。

聖トーマス教会のバッハ像の横で  しかしそれでも、この街はもともと商人の街として出発している。だから、街並みなどはずっと綺麗だった筈だし、「見本市」に多くのお客さんを迎える準備が出来ていた筈です。歩くと「メッセ」(messe)と名前が付いているビルがいっぱいある。東独時代もああいう建物の中で、見本としての商品が展示され、その見本をベースにして規模の大きな商品の取引が行われていたのでしょう。

 街は歴史そのものです。何よりも、ヨハン・セバスチャン・バッハがトーマスカントル(教会音楽を取り仕切り、その付属小学校の教職にも当たり、さらにはライプツヒィ街全体の音楽監督も兼ねる役職 1723-1750年)をやった聖トーマス教会がある。最初の写真がバッハ像です。中に入ってみると実に荘厳な感じがする教会です。また東独からの民衆解放の発火点になったといわれるニコライ教会が直ぐ近くにある。この教会でのミサをきっかけに、汎ヨーロッパ・ピクニックが始まったとも言われる。その他にも、有名なパッセージやケラーなどがこれでもかと街の中心に並ぶ。

 日本との関係も深い。森鴎外の独逸日記には、このライプチッヒを初めとするドイツでの4年間が詳細に記されている。ライプチッヒの下宿の寡婦の話から始まって、彼が観察した当時(18884-1888年)の独逸が記されている。ライプチッヒに関する彼の面白い記述がある。明治17年10月24日のところです。

 おほよそ独逸の都会のうちにて、ライプチヒの如く工場多きはあらじ。煤烟空を蔽ひて、家々の白壁は日を経ざるに黒みて旧りたるやうに見ゆ。(なるべく原文)
荘厳な教会の内部  つまり、当時から大工業地帯で煙突が林立していたということでしょう。直ぐ近くのビターフェルトが一大化学工業地帯で、その後「世界で一番汚染された街」に指定されたことは先に書きましたが、要するにドイツのこの辺はルール工業地帯と並んでドイツの産業の核だったということです。この地方もそうですが大量の褐炭が出る。露天掘りだった。その穴が今は池になっている。

 ルールでも大量の石炭が出来るし、「ルールに青空」が当時のブラント首相が掲げた政治的スローガンであることは良く知られている。鴎外の日記を見るまでもなく、ドイツは昔から汚染に悩んできた、ということです。東独時代は、経済力や技術がないのに、西ドイツに負けるなでその国土全体で汚染が進んだ。だからこその環境保護運動の活発化です。まあライプチッヒはそういう意味では、商人の街であると同時に、工業都市でもあったということです。

 「50万前後の街にしては商店が多すぎる」というのが原田氏の感想ですが、確かに街の中心部は、これでもかと綺麗な商店が軒を連ねている。カウフホフやカールシュタットなどドイツを代表する百貨店もあるし、中央駅には安売りで伸びたスーパーもあって、ここにも行ってみましたが、アメリカとコストコと日本のスーパーの中間のようなビジネス形態をとっていて、非常に面白かった。

 取材の関係でも、あちこち行きました。いろいろ思うところありですね。明日も一日ライプチッヒの周辺を取材します。


2007年11月20日(火曜日)

 (23:54)ははは、ビターフェルトについて書いたら、今はワシントンにいる梅本さんから興味深いメールが寄せられました。彼はドイツ語の大家で、ハンブルクにもベルリンにも長く滞在した。以下のメールでした。

 伊藤さん

 ドイツ旅行記、楽しく拝読させていただいてます。ご指名(?)もかかりましたので、ちょっと一言。

 汚染物質たれ流しだったビターフェルトの化学プラントですが、ご存じかもしれませんが、これを作ったのは日本のプラント会社なんです。70年代にビターフェルトだけでなく、東独の化学プラント建設を日本企業が請け負いまして、当時から日本では、大気、水質汚染で当然ながら基準があって、順守が義務付けられていたんですが、東独じゃ当然そんな規則はなし。東独政府に「お値段は多少上がりますけど、普通はつけます」と言うと、「そんなもん不要」と断られ、たれ流し状態で引き渡したそうです。

 操業していた当時は、近くのアウトバーンを走るだけで、車内にとんでもない異臭がただよいました。ハレの街では、臭くて夜にホテルの窓を開けられなかった記憶があります。いまの時代では、企業倫理の問題として、こんな受注はとれないんじゃないでしょうか。

 ちなみに、70年代当時の日本はまだ金満国ではなかったですから、プラント建設では日本の建設労働者、とび職まで東独に長期滞在していたそうです。社会主義国で退屈だったせいか、かなりの数の日独混血落とし子がビターフェルトで誕生したという話もあります…。

 最近のドイツでは、ずいぶんとレストランで出る食事は軽くなってきてはいるんですが…。やっぱり日本と比べると、量は多いですよね。食べ過ぎに気をつけて、旅行をお続け下さい。ちなみに私は、このドイツとアメリカに住んで、体重7Xキロをなんとか維持しております…。

 うーん、まあ取材旅行だから旅行記か。ちょっと抵抗があるがいいでしょう。そういう事だったのですね。日本の企業がプラントを作ったとは知りませんでした。「そんなものは不要」とか、「近くのアウトバーンを走るだけで、車内にとんでもない異臭」「かなりの数の日独混血落とし子」というのが面白い。

東ドイツ時代のトラバント  ところで、引き続きライプチッヒとビターフェルトを取材しています。ここには「Solar Valley」がある。谷なんて何にもないのに「valley」とは、カリフォルニアのシリコン・バレーの向こうを張っているのですが、なかなか面白い取材が出来ました。

 ところで、ベルリンから車でこの地域に移動し、さらに車で移動を続けていて非常に面白いことに気が付いた。以前も例えばハンブルクからシュベリーン、さらにはベルリンからポツダムを経てシュベリーン、さらにはポーランドの国境越えまで車でしているのでその時もちょっと感じてはいたと思うのですが、今回改めて強く感じたことです。それは、「ドイツは平坦ででかい」ということです。

 車での移動も比較的短時間これまでもしているが、今までの私のドイツは点の移動が主でした。つまり飛行機を使う。点と点を移動して都市の中で活動し、いろいろな人と会うことが多かった。しかし今回は完全に一週間近く線、または面を移動する。これまで私が移動した何百キロは、全部平坦。整地された畑があり、それを区分する一列の細い木の並びがあり、時々灌木の固まりがあって、要するにどこまで行っても平野なのです。

 ドイツの地図を改めて見ると、ミュンヘンなど南に行くとちょっと様子が違うようですが、北から中部さらにももうちょっと南にかけて、山らしいものは一つもない。ライン川もゆったりと流れる。つまり、どえらく平野なのです。「ここには人間が住める」という場所は山ほどある。特に開発がつい最近になった東ドイツ地域を移動しているからでしょうが、「時々村が点在する」というほど農地が続くのです。これだと食糧自給率は高く維持できる、と思う。

水を勢いよく出すと跳ねが来るホテルのシンク。意図的 ?  ドイツの面積は35.7万平方キロメートルで、37.8万平方キロの日本の約94%。世界の国を面積順に並べると、「....日本、ドイツ....」と並んでいる。順位は60位と61位です。だから非常に近い。しかしその形状たるや大きな差がある。つまり、日本の形態は山あり谷ありですから、非常に皺が寄っている状況。対してドイツの国土は皺に相当する山や谷が全くといってよいほど存在しない。その分だけ稼働面積が多いのです。しかし人口は日本が1億2700万人、ドイツは最新の統計で8240万人です。

 ドイツは明らかにすきずきしている。平野を走ると、本当に「ようけい空いているな」という印象です。まあその分、面白くも何ともない。慣れると。どこに行っても景色は同じ。畑があり、ところどころに樹木帯があり、そして村がある。屋根はどこでも茶色が多くて、思い出すのは青島の街です。むろん元祖はドイツです。

 ビターフェルトの街で一台のトラバントを発見しました。今回初めて。実に懐かしい。小さな車体、窓に向かってむくれたボンネット、固そうな座席、ドイツ人の体など入らないだろうと思える後部座席、細いハンドル。シュベリーンの街で石畳の朽ち果てた古城の周りをトラバントが走っているのを見て、車が中世にあるわけはないのだが、「この国は中世だ」と思ったことを今でも思い出す。

 今回見たトラバントは駐車していて、しかも壁崩壊、製造会社の倒産という幾多の試練を乗り越えたきたからでしょうが、単体で見るとよく整備されているし、綺麗です。しかし隣に駐車していたベンツと比べるとえらく小さい。日本にもって帰りたいような、帰りたくないような。この小さな車に大きな東ドイツの住民が、そして今はドイツの人が乗っているのかと思うと、少し笑えます。

東独自由化運動の発祥の地ニコライ教会に取り付けられた太陽光発電の状態を示す掲示板  一つ面白い写真を。ホテルのシンクです。駅の中心のラジソンというアメリカの中西部によくあるホテルに泊まっているのですが、そこのシンク。非常に浅い。で、水を一杯に力強く出すと自分に飛んでくる。そこで、少ししか出せない、という仕掛けになっている。

 もしかしたら、ホテルが客による水の出し過ぎを抑止し、コストを下げるために作ったのかもしれないと思うが、一方でこれは政策的に水の出し過ぎを抑制する目的で、州や連邦の方針に沿って出来ているモノかとも思う。実際にそれくらい、ドイツの、特にこの地方のエネルギー節約や再生可能エネルギーに関する方針は一貫しているのです。

 夜撮影したので分かりづらいかもしれませんが、あの東独自由化運動の起点になったニコライ教会にも太陽発電装置がつけられていて、夜ですから「0」ですが、今どのくらい発電しているのか、いままでどのくらい発電したかを表示している。道を走るとそれこそ数え切れないほどの発電用風車がある。地帯として、太陽発電のセルを作っている会社を中心に「Solar Valley」があるといった風情なのです。

 もう「公害の異臭」はしない。そう言う意味では、この地域も前進している。明日はミュンヘンに向かいます。また線を残しながら。


2007年11月21日(水曜日)

 (23:54)途中いくつかのポイントで取材をしながら、ミュンヘンに着いたのは夜の9時前でした。ずっと車での移動。走る距離が長かったので、私はしばしば眠りに落ちていて、ずっと周りの景色を見ていたわけではない。しかしどの国でも同じですが、高速道路の走行は面白くもなんともない。田舎道をゆっくり走るのが良いのですが、許される場合と許されない場合がある。

北からバイエルン州に入ってしばらくの所にあった田舎町のレストラン  良かったのは昼飯の為にアウトバーンを離れて、バイエル州の小さな村の魚料理が自慢というお店に入ったときかな。写真がそれですが、中に入ったらアットホームな感じで、お年を召した5〜6組のご夫婦が静かに食事をしていた。特にぺちゃくちゃ喋るのではなく。

 まあ私はウッディ・アレンの映画のように、食事の時にとにかく良く喋るのは国民性というよりは、特殊都会的(どの国を問わず)な現象だと思っているのですが、ドイツでもそれが確認できたことが面白かった。何も話さずに、しかし仲のよさそうなご夫妻がじっと食事をしている姿をアメリカでも地方で何回も見ている。日本も同じです。対して都会では食事は喧噪の中で進む。

 写真のこのレストランは、ウエイトレスにいかにもドイツ的に太った、しかし愛想のよいおばちゃんを置いたなかなか親しみの持てる店で、じゃがいものふかし方などいかにも「ドイツ」を思わせる。こんな大陸のど真ん中に「魚レストランかよ」と思ったのですが、案外美味しかった。ああいう店を回るのも良い。

 ミュンヘンは食事のために近くのレストランに移動しただけなので、この街の印象はまだありません。ホテルは駅の近くだそうですが、夜の9時前後だからでしょうか、歩いている人はいやにトルコ人が多い。まあ、フランクフルトの駅周りよりは綺麗です。レストランに入ったらドイツ人やら、英語を話す輩が多かったので、そう言う人口構成の地域かなとも思っていますが、それはまだ明日になってからでないと分からない。小林君が

 ミュンヘンは全然雰囲気が違いますよ。山も多いですし、カトリックっていうのも大きな違いです。だから享楽的?バイエルン州の大手行HVB(ヒュポフェラインスバンク)がイタリア最大(欧州では2位)の金融コングロマリットUniCreditの傘下に入ったのもうなずけます。

 因みにバイエルンでは朝も昼も夜も挨拶はGruess Gott(ぐりゅーす・ごっと)です。これも北ドイツとは違うところです。

ドイツにはどこに行っても風車を発見することが出来る  というメールをくれているので、明日早速そのバイエルン州の挨拶とやらを使ってみようと思っています。よくミュンヘンの酒場でドイツ人の年寄りが日本人に近寄ってくると、「今度はイタリア抜きでやろう」と言う、という話しを聞きますが、通常はハノーバーに住んでいる田村さんは、「本当に私は何回もそう言われているんです」と。ドイツが最後に戦争に勝ったのは、1870年から約1年間の普仏戦争ですが、その後もドイツは負けの戦争をこれでもかと何回もやっている。好きなのか ?

 田村さんが、「ドイツ人から聞いた」ということで、イタリアの戦車に関するジョークを教えてくれました。

  1. 普通戦車には前進に3速ある。ドイツの戦車にはスロー前進、普通前進、全力前進があるが、イタリアの戦車には後退に3速ある
  2. イタリアの戦車にも前進が一速ある。それは何のためにあるか。イタリア人曰く「敵が後ろから攻めてくることもあるからだ」
 という内容だったと思った。ははは、日本のジョーク集に載っていそうな話しですな。ま私はまだ行っていないので、ミュンヘンの酒場で話しかけられてはいませんが。

 今週は世界の金融市場は「ugly」なことになっていますね。もちろん、移動中は無理ですがホテルに入ると市場もワッチしているのですが、株は下げ、原油は100ドルに限りなく接近し、そして「flight to quality」で政府債が買われている。引き続きアメリカ経済の先行き(リセッション懸念)、それに世界のクレジット・マーケットの先行きに対する懸念(世界の金融機関の巨額評価損)が強い。

 まあアメリカは22日からほぼ4連休になり、日本も23日が祝日。頭を冷やして考える時期でしょう。ニューヨーク市場ではSP500が今年これまでの上げ分を失った。つまり昨年末引値に比べてマイナスになった。再来週はアメリカに行きますので、実態把握といきたい。

 それにしても、ドイツは何処に行っても風車があるし、よく見れば私たちが食事をしたレストランの屋根にもちゃんと太陽光をエネルギーに代える装置が装着されている。その徹底ぶりには感心します。


2007年11月22日(木曜日)

 (23:54)BMWの本社を中心に取材。初めて「バイエルンの自動車工場」の本社の偉容を見ました。4気筒のエンジンをまとめたような形をしている。本社ばかりでなく、その周辺施設が固まっていて、まあ言ってみれば日本の豊田市みたいなものです。

 BMWは去年本社の直ぐ近くに「BMW WELT」(BMWワールド)という展示施設を作った。BMWの車をずらっと展示していると同時に、近い未来、少し先の未来にかけるBMWの考え方を示していて非常に興味深かった。BMWが今一番力を入れている新しい車にも乗ってアウトバーンを走りましたが、これは非常に良い経験になりました。

ミュンヘンにあるBMWの本社前で  ところで、ミュンヘンの街を移動していて一つ気が付いたことがある。それは、「インフラの逆転現象」です。旧東独の街として綺麗に復興されたライプチッヒに比べた場合の、ずっと西側だったドイツ第三の都市ミュンヘンの景観的、インフラ的遅れ。

 私が車の中でこの話しをしたら、カメラの横山さんも同じ印象をもったそうです。街を走っているトラムを見ても、明らかにライプチッヒの方が綺麗だし、線路の手入れの具合もミュンヘンよりライプチッヒの方が実に丁寧に出来ていた。街周りのビルもそうです。ミュンヘンの街中で見かけるビルは、すこしくすんでいて疲れた印象がする。それはライプチッヒのビルには見られなかった。

 例えばこの二つの街を1990年の初めに比べれば、印象は全く別だったに違いない。ライプチッヒがシャビーで、ミュンヘンが大都会に見えたはずです。しかしその後の18年ほどは、多分絶対的にお金は集中的に旧東に属したライプチッヒの方により多く投じられていたに違いない。

 いやもともと街の作りがライプチッヒの方が商人の街として洗練されていたのかもしれない。しかし、この二つの街が今醸し出している印象は、過去18年におよぶ公共投資、インフラ投資が東の都市に傾斜していた影響であるように私には見受けられる。

 「そんなことを言うと、ミュンヘンの人が悲しみますよ」とコーディネーターの田村さんに言われましたが、まあでも私の印象はそうだからしょうがない。明日もミュンヘンで取材し、午後のフライトに乗る予定。


2007年11月23日(金曜日)

 (11:54)午前中は特に用事がなかったので、朝8時には起きて散歩に。ドイツ人は早起きと聞いていたので、「どんなもんじゃろ」と思って。確かに。もう開いている店が食べ物系、雑貨系を中心にかなりある。

 ホテルはミュンヘン中央駅(Hauptbahnhof)の直ぐ近くなのですが、デパートに行くにはどう考えても早いし、昨日通らなかった道をいったんまっすぐ歩いて、その後中央駅に戻るルートを取ったらかなり歩けました。オフィス街のようなところに出て、そこでイタリア人の店でお茶を飲んで、「デパートは9時かな、9時半かな」というところで、中央駅周辺に。

ミュンヘン中央駅を正面から  まだ時間があったので、駅の中を少し歩いたのですが、確かにでかい駅です。列車の行き先を見ると、ドイツ国内だけではなく周辺国の都市名が並んでいる。いつか欧州鉄道の旅をしてみたいものです。食べ物屋の店が一杯出ていて、ちょっとソーセージでもと思って美味しそうなやつを頼んだら、パンと一緒にくれてなかなか良かった。

 通りがかりのドイツ人に聞いたらカールシュタットは直ぐ近くだというのでまたちょっと歩いて、着いたのが9時20分くらいですかね。もうやっているかと思ったら、営業時間は午前9時30分から午後8時までと書いてあったような気がした。

 直ぐ近くにカウフホフもあったので、カールシュタットと比べながら二つのデパートを見て歩いたのですが、まあ置いてあるモノは歴然と違う。多分方針が違うんでしょうね。もう生産中止になったモンブランのボールペンに好きなのがあって、カールシュタットで「もしかして、これの在庫ある」と聞いたら、おばちゃんがちょっと哀しそうな顔をして「finish」と。これは多分英語。

 あとはもっぱら各階の見物。電気製品の売り場がまだ大きくて、日本のデパートにはない薄型テレビが一杯置いてあったのが印象的でした。日本のメーカーも頑張っていましたが、フィリップとかグルンディッヒとか日本ではあまり見かけないメーカーのものも。PC売り場もドイツのデパートにはあって、PCも各社揃っている。知らないメーカーが多い。ここでは日本のメーカーの製品はソニーくらい。ということは、ドイツには家電の量販店はなし ?

 食料品売り場は圧巻だったな。圧倒的にソーセージの占める地位が高い。これでもかといろいろなソーセージ、肉製品が置いてある。生肉以上にソーセージの占める場所が大きい。「魚はないのか」と思ったら、ちゃんと一角を占めていました。まあイタリアに近いミュンヘンなのであれだけあったのかもしれない。綺麗なお嬢さんが魚売り場の担当でした。いやそれとも、デパートに入っている業者 ?

 ベルリンがそうだったか忘れましたが、ミュンヘンの道には歩道と車道の間に一本道がある。そこには石畳が敷いてない。自転車道路です。専用らしく、そこを気付かずに歩いていたら、自転車で来たおじいさんに手で「おまえはこっちだ」と歩道の方を指されてしまいました。ハハハ。

 午後もう一つ絵を撮って、私は午後に帰ります。スタッフは残って取材続行。


2007年11月24日(土曜日)

 (23:54)フランクからの成田便はもの凄く混んでいました。ヨーロッパの航空会社は空前の高収益というニュースがあったが、頷ける。逆にこれだけ旅客需要が高いのに収益をあまり上げられない航空会社は、よほど経営がうまくないのでしょう。今回比較的空いていた飛行機は、フランクからベルリンへの行きの便だけでした。つまり、私の予想では世界的に航空機需要は非常に強い。

 成田からは新宿方面行きのバスが3分後に出るというので、それを拾ったのですが、私以外は全員が中国語を話す人達でした。台湾か大陸か、はてまたシンガポールの人かは知らない。しかし、こうした中国の人達が大勢日本を訪れてくれるのは良いことだ、と。そう言えば、さっき見た東京新聞のニュースに

 日本に旅行する韓国人の数が2007年は過去最高の年260万人ペースで推移、約40年ぶりに韓国に旅行する日本人の数を上回る見通しになった。日本の温泉などの人気が高まり、円安ウォン高で日本への旅行が割安になっていることが背景にある。

 国際観光振興機構の推計では、今年1−9月の旅行者数は、日本に来た韓国人が前年同期を24・9%上回る約196万人。逆に韓国側の推計では、同じ時期に韓国に出掛けた日本人は約164万人にとどまり、年間では220万人ほどになりそうだ。1968年までは、日韓を行き来する旅行者の数がそれぞれ2万−3万人程度と少なく、日本に旅行する韓国人の方がおおむね上回っていた。

 とある。中国との統計がどうなっているのか知りませんが、日本の10倍人口がいる中国が、日本人の中国訪問の数を上回るのは時間の問題でしょう。中国も韓国と同じように経済発展している。

 「ドイツに家電量販店はない ?」と疑問形で書いたら、杉岡さんが以下のメールを送ってくれました。

 メディアマルクトという欧州家電量販店の巨人がいます。この会社は、ドイツ語圏のみならず最新はモスクワ&サンクトペテルブルグにも進出していますよ。

 欧州での液晶テレビマーケットは、多分サムスン、ソニー、フィリップスが三つどもえ(トップ3)の戦いを演じており(ただし、ソニーはドイツでは弱い)、最近はシャープが猛烈に追い上げていると思います。

 そりゃそうですね。ただデパートに置いてあるというのは、デパートの売り場も魅力を失っていないと言うことでしょう。おっしゃるように薄型テレビの売り場ではシャープがもの凄く頑張っていました。一番良いところで行列を作って。梅本さんのサイトを見たら11月22日の欄に、「レスをつけてよ....」と。失礼。

 彼が22日のところに書いていることも面白い。手榴弾ね。ハハハ。あれ、ドイツであれだけ風車が増えたの知らないの.....。梅本さんもすっかり米東部の人ですね。昔はドイツ語圏の人だったのに。

 ここ数日の日本の新聞はさっき読み終えました。ミシュランね。笑っちゃいますね。あんなの全く参考にしません。
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 次いでアメリカ分です。


2007年11月30日(金曜日)

 (10:54)あっという間に次の出張が来てしまいました。今年6月以来のアメリカですが、様子はかなり違ってきていると思う。大統領選挙の行方にも関心を払いながら、もっぱらノースカロライナに腰を据えて取材です。

 大都市にも行きたいと思ったのですが、今回はなし。まあそれもいいかもしれない。


2007年11月30日(金曜日)

 (23:54)「やや太っちょの国」(ドイツ)からいったん「総じて痩せの国」(日本)に戻り、そして今度は「本格的太っちょの国」(アメリカ)へ、という感じですかね。私のこのところの動きを端的に表現すると。

 ハハハ、成田で飛行機に乗り込む前から「こいつら太いな」という印象の人が大勢。横から見ても、後ろから見ても体全体がでかい上に、腹回りが丸いのが特徴(ははは、あまり他人のことは言えないのですが)。乗る前はただひたすら「隣にそういう人が来ないで欲しい」と願うのみでした。ところがラッキーなことに、成田からアトランタまではお隣不在。

 エアラインは実に久しぶりにデルタでした。90年代の半ばに一回乗ったきり。まあアトランタですから、日本の航空会社の便はないでしょうから。デルタには鮮烈な思い出があって、その時とっても太った客室乗務員さんが多かったのです。で、通路を通れないような人も居た。実はその時からです、「アメリカ人は太りすぎだ」と思ったのは。

 今回の乗務員さん達に対する最初の印象は、お年を召した方が多いな、というもの。でも中に、「昔はとってもおきれいだったのでは」という印象の人がいた。そう思っていたら、しばらくしてその人が「あんたの眼鏡のフレームはなかなかいい」とか言って話しかけてきたのです。しばらく今の日本ではこのタイプが多い、てな話しをしていた。

 そしたら、便に乗っていた日本人の乗務員さんがあとで話しに来てくれて、「実は彼女はもう65才で、実はホームデポの株を最初に買った方の方で、大金持ちなんですよ」と教えてくれた。「家にいてもしょうがない」ということで、60才を過ぎても客室乗務員を続けているという。

 この方の話によると、アメリカのエアラインではお年を召した方が多いのだという。デルタの最高高齢者の女性客室乗務員は72才で、最近ですがNBCテレビのニュースに登場した、というのです。他のエアラインでは74才という人もいるという。seniority system で年長者が守られるシステムがあることも関係しているらしい。

 その65才の彼女に関して日本人の乗務員さん(男性)曰く、「彼女が若い頃の写真は、凄いんですよ。デルタのマリリン・モンローって呼ばれていたらしいですよ」と。ははは、分かるような気がする方でした。「当時のスチワーデスは、本当に優秀なんですよ」と。そうでしょうね。でなければ60才を過ぎても働けはしない。

 アトランタを経由して到着したのは、ノースカロライナの州都であるRaleigh。日本ではローリーと表記するらしいのですが、アメリカ人の発音を聞いていると、全くそんなことはない。ラレーともラレイとも聞こえる。

 聞くと大学町だと。デュークとノースカロライナの二つの有名大学があるらしい。まだ着いたばかりで何も分かりませんが。一つ言えるのは、ドイツに比べると暖かいということ。日本よりも暖かいかも。首都ワシントンの南、フロリダの北にありますから。5日間ここに滞在します。


2007年12月01日(土曜日)

 (23:54)実に暖かい。地元の人は「おかしい」と言っているのですが、まるで春のようです。紅葉が真っ盛りなのに。いくらワシントンの南、フロリダの北と言っても、地元の人が「今年は異常だ」というのですから、そうなんでしょう。

 一日の大半を、ローリーの街やその周辺で移動したり取材したり。今回の取材の目的はアメリカのエネルギー政策の変化を現地から見ようと言うことです。ドイツからの取材の繋がりでもありますが、今年の6月はワシントンやカリフォルニアなどの連邦・州政府レベルの取材が主だった。今回は地元、現場、地方レベルで何が起きているのかを見ようと言うわけです。取材が本格化するのは週末明け月曜日からですが、アメリカ人の考え方を変えつつあるかもしれない現象は、日本で報じられている以上に各地にあることがわかりました。

 例えば当地のTHE NEWS & OBSERVERという新聞の金曜日の一面トップは、「Droutht's direst blow may hit durham first」というのです。「direst」という単語はブックシェルフを見てもないので、多分「direct」の間違いでしょう。まあアメリカの新聞にはたまにある。

 Durhamというのはグーグルアースで調べるとローリーから北西に少し行ったところです。つまり、今私が今いるローリーの直ぐ近くで、「早魃が起きている」ということです。地元の人も、「酷い」と言っていて、この街にはにはデュークという有名大学もあるのですが、記事の書き出しはこうです。

DURHAM - With central North Carolina suffering through the worst drought on record and a projected dry winter ahead, the Triangle is as close as it has ever been to severe restrictions limiting water use to hygiene and extinguishing fires.

Durham, with just 59 days left in its main water supply, could be on the front lines of this worst-case scenario.

Up to now, the prospect has been too far-fetched to entertain in detail, which is why there are few specifics in Durham ordinances about what would happen if the drought doesn't let up. Raleigh also lacks a set plan for an end-times-type drought.

 最近ではカリフォルニアの山火事、数年前にメキシコ湾岸を襲ったカトリーナほどではないが、「史上最悪の早魃」がノースカロライナ州の中部を襲っているなんてのは、たまたまここに来なければ分からない。新聞記事によると、お隣のジョージア州でも雨不足は深刻なようです。彼の地の新聞をネットで読むと、「水不足にはこれこれをしてこう対処」といった記事がある。この早魃の影響を受けた池も後日見る予定です。

 他に気になった記事には、「Going Wheatless」がある。「小麦抜きで行く」というのは「なんじゃこりゃ」と最初は思った。しかし読み進むうちに、これが数多くのアメリカ人にとって大きな問題だということに気が付いたし、気になる単語も発見した。「China-free」に続く「Gluten-free」です。以下に紹介する記事は「グルテンなし」がウリになって商売が出来ているという話。

Going wheatless

More businesses cater to the $696 million market for gluten-free foods

David Ranii, Staff Writer

Some people just don't get it when Nell Killette tells them she can't eat foods that contain wheat or other glutens.

"People look at you like they are shocked that you can be gluten-intolerant," said Killette, a retired accountant who lives in North Raleigh. "Wheat is in everything."

Despite such reactions, Killette is among a growing group of folk who are becoming a potent consumer force.

Gluten-free menus have cropped up at restaurants. National chains such as Outback Steakhouse and Chick-fil-A have them -- online and, if you request one, on site. So does the Red Bowl Asian Bistro, which has locations in Cary and Charlotte.

Meanwhile, sales of packaged foods labeled "gluten free" are booming.

"We have doubled our sales in the past year," said David Pelfrey, assistant regional manager at Kroger.

Increasing awareness and diagnosis of celiac disease is a major factor in the trend. The recommended treatment for celiac, an intestinal disease that affects an estimated 3 million Americans -- most of whom haven't been diagnosed -- is avoidance of gluten. That includes all types of wheat, rye and barley.

 この中に「gluten intolerance」とあるのは、「グルテンが耐えられない」ですから、要するに日本語流に言うと「グルテンアレルギー」です。正式には「セリアック病」と呼ばれるらしい。しかし、日本ではあまり馴染みがなかったと思う。少なくとも私は直ぐには分からなかった。あるサイトには、「セリアック病の人がグルテンを摂取すると腸からの正常な栄養の吸収ができなくなってしまい、時には命に関わることもある」と書いてある。

 この記事には、「このアレルギーに悩むアメリカ人の数は300万人」とも。確かにそれだけいたら、レストランにしろ、クッキーにしろ「グルテン抜き」を売り物にするところも出てくるだろう。「グルテン抜きのパン」はちょっと考えられないのですが、アメリカでは出来てきているし、日本のメーカーも特殊なパン焼き機を考案しているという。

 「セリアック病」(celiac disease)はなぜか日本人には少ないらしい。しかし日本にもあるのでしょう。帰ったら探してみよう。


2007年12月02日(日曜日)

 (07:54)日本人はノースカロライナの州都であるRaleighについてなんかあまり知らないだろう、自分が知らないんだから、と思ったら大間違いでした。二人の方から日本でローリーと表記されること街に関する熱いメールを頂きました。許可を得ましたので、転載します。どちらもこの南部だが北に位置する州や州都に関する思い入れが伝わってくる。

伊藤 様

 お元気そうで何よりです。おぼえていらっしゃいますでしょうか? 住信ロンドン支店で貸し株をやっています伊藤さんのかつての部下、田中です。2年くらい前に伊藤さんがロンドンにいらした際にお会いしたと思います。

 20年以上前、私は伊藤さんが今いらっしゃるローリーダラム(ダラム)のデューク 大学に学生としておりました。 前回ダラムを訪れたのはNY支店勤務中の10年前で すが、きっとずいぶん変わっていると思います。 

 当時は日本の自動車会社などがようやくアメリカに進出し始めたころで私がダラムの ショッピングモールで日本人だと言うと珍しがられた頃です。若かったので当時の ことは今でも鮮明に記憶に残っています。まず、広大で美しいキャンパスの中の近 代的な設備、院生の寮に24時間無料で自由に使えるよう設置された当時は高価で あった何台ものPC、モノレールやヘリポートまである大学病院、高学歴で豊かな大学 関係者。一方で寂れたダラムのダウンタウンとその周辺で慎ましく暮らす黒人、さ らに西の山岳地域へ行けば貧しい白人(Poor White)。 実際に行った訳ではありませ んがTVで"Heart of North Carolina"と言って地元の人々が誇る、まるで西部劇の町 のようなKellyとかいう町、素朴な人々。 NYやLA、或いはNew Englandとも異なるア メリカの原風景を見たと思っています。

  North Carolinaは他の南部の州より北に位置しますが、他の南部以上に南部の面影を 残した州で人種差別のKKKの本部もあります。デュークの日本人学生でKKKの町へ迷 い込みガソリンを売ってもらえなかったという話も聞いたことがあります(ホン ト)。また、南部の大都市以上に地元の人には「なまり」があります。例えば日 本語発音で言うと「チェックダ オウ ファラ ヤ?」ってなんの事かわかりますか ? これはガソリンスタンドで店員が"Check the (that) oil for you?"と聞く時の発音 です。なまりについては東部から来た人は皆苦労するとのこと。

  当時の私のルームメート(NY出身ユダヤ人&オランダ系金持ちの子弟)は2度とこん な田舎はいやだと言っていましたが、私は好きでした。全米有数の低犯罪率、素朴 な人々、すばらしい自然,、大学という知的環境。 日本と同じにNorth Carolinaに は四季がありますが、春と秋が短いところが違います。 秋から冬にかけては香ばし い松林の香り(巨大な松ぼっくり)、森の枯葉の中のリスの音、寒く凍る冬の終わる 頃、朝起きて外に出るとたった1日で突然春になってしまっていて、むせ返る花の匂 いと舞う蝶。

 すみません、思い出話になってしまいました。 伊藤さんの取材がどのようなものか わかりませんが、North Carolinaはかつてのジェシーヘルムズのような頑迷な保守 の地盤から貧しい白人であっても教育を得て身を起こしたエドワーズのようなリベラ ルな政治家を出す州へ変わりつつあるのかもしれません。是非取材の成果をホーム ページへアップして下さい。たった2年、しかも20年以上前なのに、今だに North Carolinaのことを思い出すので....

 いやお久しぶり。突然のメールで驚きましたが、そう言えば田中君が「デューク大学留学だ」と言っていたことを思い出しました。

 ははは、私は別に東部から来たわけでもなく日本から来たのですが、ここの人の発音、というか英語にはえらく苦労しました。いえね、土曜日は72才の田舎の農家のおじいさんにインタビューしたのです。正直おじいちゃんの言っていることの9割が分からない。言いだしは比較的分かる。しかし言葉が繋がり始めるとお手上げなのです。

 コーディネーター件ディレクターとしてアメリカに住み渡辺さんに、「今なんて言ったの」と聞くことしばしば。だって相手がなんて言っているか分からないと、インタビューも前に進まないじゃないですか。彼はもうおじいちゃんと3回も会っている。だから私よりは「慣れた」と。しかしその彼でも往生するらしい。何回も聞き直している。南部なまりは本当に凄いのですが、田中さんのメールで「アメリカ人も苦労して居るんだ」と納得。

 KKKの本部がノースカロライナだとは知りませんでした。関係ないかもしれませんが、今日行ったApexという街では、黒人を一人も見かけませんでした。クリスマス・パレードの直前で、道に簡易椅子がずらっと並んでいる不思議な後継の中を歩きましたが。

 田中さんが熱く書いているダラムは今は早魃で大変らしいですよ。早魃といえば日本では松山とか福岡のホテルで「今夜はなるべくお風呂はシャワーで」というほど深刻な事態はもう数年前に経験しただけです。ローリーのこのホテルでは今は何の問題もない。

 今ロンドンですか。自分の住んだ街は時間が経過するほど懐かしくなる。アメリカでは私にとってのニューヨークが、田中君にはローリーダラムなんでしょうね。またいくか来てやってください。もう一つ。時々メールをいただけるMLBファンの真野さんです。

  ノースカロライナでの取材、ご苦労様です。さて、州都の発音ですが、昔地元の人(英語教師)から「モンテカルロラリー」のラリーと同じ発音だよと教えられたことがあります。日本ではあまりなじみがない土地でもあり、ローリーと表記されても特に支障はない のでしょうが、今まで役所もメディアも自分の耳で確かめたことはなかったのでしょうね。

  私が昔勤務していた銀行は比較的鷹揚な職場で、当時のNY支店長は人繰りに余裕があ るときはNY支店に赴任した社員を語学学校に送り込んだりしていました。 私はシャーロットにある英語学校に2ヶ月間滞在し、アラブ系の金持ちの息子やPLOか ら派遣された若者たちに混じり、めったに味わえない経験をしました。 ラリーの発音もそこで教わったのですが、もう20年以上昔(プラザ合意の1年前)の ことなので今ではすっかり様変わりしているでしょう。

  当時NCNB(North Carolina National Bank)と名乗っていた小さな地元の銀行は、今 ではBank of Americaという大銀行になっていますし、Wachovia Bank(この銀行をワ コービアと発音するのもこの地で教わったものです)もNCNBと同じシャーロットを本 拠とするファーストユニオン銀行が近隣銀行を吸収して一大勢力に成長したもので す。

  昔からタバコの産地として有名でしたが、比較的保守的な、貧しい州のひとつでし た。今は金融が加わり、MLBを除くメジャープロスポーツも揃ってかなり活気のある地域 ではないでしょうか。

  取材の成果をお待ち申し上げております。

 シャーロットはローリーよりちょっと南です。「タバコ」は昨日会ったおじいちゃんも「作っていた」と過去形で言っていました。今や全米の名前が轟くWachovia Bankがこの州出とは知りませんでした。「プロスポーツ」と言えば、土曜日の昼も夜も多くの人がテレビにかじりついていました。地元のチームがアメフトで出ていたようです。

 アメフトの「フト」で思い出しましたが、今泊まっているこのホテルには女子サッカーチームが宿泊している。多分高校生くらいです。土曜日の夜はそのメンバーの一人が誕生日だったらしく、ロビーは大騒ぎだったのですが、アメリカでは「サッカーママ」という言葉があるくらい「サッカー」という単語が日本と同様に使われる、というのです。イギリスはサッカーのことは「フットボール」と言う。ベッカムも聞いていると普通は「フットボール」と自分のやっている競技を表現する。しかしアメリカではあのスポーツは常に「サッカー」です。

 なぜなら、アメリカで「フットボール」と言えば、「アメリカン・フットボール」になってしまうからだと。渡辺さんが言ってました。今回のメンバーは私を入れて4人で、昨年11月のアメリカ取材で一緒だった彼と、あとは地球特派員ではご一緒3回目となる江袋さん(彼の紹介は2006年06月15日木曜日)、それに彼の会社の新人で海外初めてという竹内さんです。こじんまりしていますが、機動力のあるチームです。

 真野さんが言う「取材の成果」は、その大部分が2008年元旦の午後7時からNHKBS1でご覧に頂けます。ちょっと先ですが、お楽しみに。


2007年12月03日(月曜日)

 (00:54)ここまでノースカロライナで時間を過ごしてきて、「あれ、今回は写真が少ないな.....」と自分ながらに。まだ一枚も掲載していない。ドイツではあれだけアップしたのに。

クリスマスパレードを1時間後に控えたノースカロライナ州アペックスの街  ははは、アメリカの地方都市は残念ながら変わり映えがしないのです。どこに行っても同じに見える。バッハが音楽監督をした聖トーマス教会があるわけではなく、何百年という歴史があるわけでもない。国が出来たのがせいぜい1783年ですから。

 まあでも、土曜日にAPEXという街に行ったときの写真を一枚アップします。まだ3週間もあるというのに「あと1時間ちょっとでクリスマスパレード」という時の街の様子です。直ぐ近くのおじちゃんに「何が出ると・・・・」と聞いたら、「消防隊、警察......あらゆる部隊」とかなんとか。まだ1時間以上あるというのに、場所取りしてじっと待つ。一年の楽しみの一つなんでしょうね。

 そのアペックスという街のホームページを見ていたら、水に関する制限というリンクを発見しました。Q&Aのところには、「なぜそんなことをするのか」に関して  

Due to a prolonged period of less than normal precipitation in this region and in much of North Carolina, Governor Easley recently called for a stop to all non-essential water use.
 という説明があった。先日紹介した早魃はノースカロライナの州全体に重くのしかかってきているようです。

 地元の新聞を読むと、嫌と言うほど「The Triangle」という単語が出てくる。「当然お前も知っているだろう」てな具合に。いや知りません・・・・・とは口答え出来ない感じ。で、調べました。グーグルで「the triangle nc」として。「NC」を入れないとおかしなところに飛んでしまう。こう書いてありました。

The Research Triangle, commonly referred to as "The Triangle", is a region in the Piedmont of North Carolina in the United States, anchored by the cities of Raleigh, Durham, and Chapel Hill. The region is comprised of two Metropolitan Statistical areas, Raleigh-Cary, NC, and Durham, NC. Its estimated total population as of 2005 was 1,509,560. The research universities of Duke University, North Carolina State University, and the University of North Carolina at Chapel Hill are located in this region. The "Triangle" name was cemented in the public consciousness in the 1950s with the creation of Research Triangle Park, home to numerous high-tech companies and enterprises. Although the name is commonly used to refer to the cities, "The Triangle" originally referred to the universities, whose research facilities and the educated workforce they provide are the major attraction for businesses located in the Park. The Triangle's population is among the most educated in the United States, with one of the highest number of Ph.D.s per capita.
 三つの都市を結ぶ線だったのですね。最後が凄い。「この地域の人口は、アメリカで最も教育レベルが高い人々の仲間に入り、人口比当たりでもっともPHDの数が多い」と。だったら「The Research Triangle」と最初から書けばよいのに、略すから「何の三角だ」と思ってしまう。

 確かに、粗暴な印象が何処にもない街である印象がする。インテリが静かに住んでいるということか。それにしても地元の人々の「言葉、なまり」は分からない。外から来た人の英語が実に心地よく聞こえる。それで少し自信を取り戻す毎日。


2007年12月03日(月曜日)

 (07:54)おや、じゃ例えば小指のない人はこれからアメリカには入国できないのかな......と新聞記事を読んで。

 何の話しかというと、今朝のUSA Todayの記事です。「Customs to collect visitors' 10 prints」が見出しで、要するに「今後アメリカに入国するには10本の指全部をスキャンされる」「指紋を採取される」というのです。

 私が今回アメリカに入ったのは11月30日。入国審査はアトランタでしたが、そこでは今まで通り左と右の人差し指のスキャンをさせられた。あと目。これだけでも結構時間がかかる。しかしこれからは10本すべての指のスキャンをするというのです。9.11以降強化されてきたテロ防止、Homeland Security、アメリカの保安対策の一環。

 「これから」というのが直ぐなのです。この記事では「今週からワシントンのダラス空港で実施」とある。「今週」って、今日はアメリカは月曜日ですから、もう始まる。ワシントンに今週からいらっしゃる方は覚悟を。来年3月までにはアトランタ、デトロイト、ヒューストン、JFK(ニューヨーク)、ローガン(ボストン)、マイアミ、オヘア(シカゴ)、オーランド、サンフランシスコの8空港もこれに加わるという。なぜロスがないのか知りません。

 ということは、来年の春までには必ずアメリカに戻る松坂、松井、岡島などなどの日本人メジャーリーガーは10本の指のスキャンをされる可能性が高いと言うことです。2008年末には全アメリカの空港に10本スキャンシステムを導入し、その後は陸路、海路の入国ルートにも全適用するという。

 実は、各国間の入国審査の厳格化は様々な面で厳しくなっている。例えば今回ドイツから日本に帰ってくるときには、何の書類準備も必要なかった。しかし今回アメリカから日本に帰るときには「携帯品・別送品」の申告書を出すように求められた。

 法律ではまだこの書類の書き込み義務はないそうだが、航空会社によると「なるべくそうするように」と求められているという。乗務員に対する監視も従来になるきつくなっているとも聞く。

 アメリカの10本指紋採取システムは、USA Todayによると年間約3500万人のアメリカへの旅行者に影響するという。今でもアメリカ入国審査は便が重なると長い列が出来る。10本採取になると、あのポイントを通過するには場合によっては非常に時間のかかる作業になるかもしれない。

 もっとも例外はある。10本指紋スキャニングは「US-VISIT」と名付けられているようですが、80才以上13才以下には適用されず、また国境パスを持っているメキシコ人、それにカナダ人の大部分はこの計画から除外される、という。日本人には全適用ということです。


2007年12月05日(水曜日)

 (01:54)火曜日は一日動いていました。田中さんの思い入れが強いデューク大学にも行きましたし、その近くにあるノースカロライナ州立大学にも。プログレス・エナジーという電力会社が持っているハリス原発にも行きましたし、学生にも会って、教会の会合にも出席した。

 まあアメリカも揺れているんですよ。来年実質的に終わるブッシュ政権には、よく知られているようなエネルギー政策がある。しかしその後になると、特に民主党候補の誰かになると、アメリカのエネルギー政策は劇的に変わる可能性がある。オーストラリアの新政権が発足後直ぐに京都議定書に署名したようなものです。

 まあそれでも、州レベル、大学レベル、一般市民レベルの考え方も聞いたので、正月の番組では面白い議論を展開したいと思っています。残念なのは、アメリカの田舎町というのはどこから切っても同じようなもので、ドイツの時のような写真を一定程度の枚数掲載できなかったということです。

 いろいろな議論というものがあるもので、この数日のうちに見たネットでのニュースで面白いと思ったのは、「離婚の増加が地球温暖化の一因になっている」という分析。理由を聞くと、「そういうこともあるかも」と思うのですが。

 離婚の増加が地球温暖化の一因になっているという分析結果を、米ミシガン州立大の研究者らがまとめた。

 人数の少ない家庭が増え、エネルギーなどの利用効率が悪化するためで、離婚の影響で増えた米国内の電力消費は、原子力発電所6基分にあたるという。近く米科学アカデミー紀要電子版に発表される。

 ジェングオ・リウ特別教授らは、冷蔵庫の消費電力など、各家庭の維持に必要な資源量は、家族が少なくてもさほど減らないことに着目。離婚による環境への影響を調べるため、米国の約1万家庭について、2005年の統計から、資源の利用状況を分析した。

 その結果、結婚が続いている家庭に比べ、離婚した家庭では、1人あたりの部屋数、電力消費、水消費がいずれも約1・5倍に上っていた。

 米国の離婚率や再婚率から計算すると、離婚していなければ節約できた05年の資源量は、部屋が3851万室、水が2兆3800億リットル。電力は735億キロ・ワット時で、日本の大型原発(135万キロ・ワット)6基分の年間発電量にあたる。

 木曜日の午後には日本に戻ります。年内に仕事で海外に出ることはもうないでしょう。この次にアメリカに来るときは、指10本の指紋を確認されるんでしょうな。それで本当にアメリカが安全になっているのかどうかはまた別問題として。


2007年12月06日(木曜日)

 (20:54)アトランタからの13時間はやはり遠い。映画も見飽きたし、風邪気味でもあったので、じっとしていました。それで余計退屈したんでしょうね。偶然だと思うのですが、来るときに一緒になった男性乗務員とまた一緒で、「あれ奇遇ですね」という感じ。

 知り合いがいないかとちょっと見回したら、ヤンキースの井川慶君が奥さんとおぼしき人と一緒に乗っていました。ヤンキースはポストシーズンで早々に負けたし、井川君は締め切りの時にポストシーズン試合への出場可能・不可能を分けるロースターに入っていなかったので、もっと早く帰国できたはずなのに、タンパでずっと秋期キャンプをやっていたのでしょうか。それとも個人的な旅行でしょうか。タンパとアトランタは近い。

 悪いと思って話しかけませんでした。空港ではほとんど誰も待っていなかったようです。松井秀樹の帰国もユニフォームを着て待ち構えていた人は誰もいなかったと寂しいモノだったそうで、井川もちょっと寂しかったのでは。

 アメリカは今年6月以来ですが、その時はものすっごく移動が多くてあまりその時のアメリカをよく把握できなかったのですが、今回は一カ所にとどまったこともあって、新聞などをじっくり読む時間がありました。

 来年の今頃はもう次期大統領選挙が終わっている。新しい大統領が決まっているわけです。アメリカも相当変わる気がする。
ycaster 2008/05/21)



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